artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
Rhizomatiks Research×ELEVENPLAY『border』
会期:2015/12/04~2015/12/06
スパイラルホール[東京都]
観客はこの場では同時に出演者でもあって、ELEVENPLAYの女性ダンサーたちとともに、自動制御のWHILL(電動車椅子に似た乗り物)に乗って舞台空間を移動する。しかし、観客はその場を肉眼視することができない。観客の視界はヘッドマウントディスプレイで覆われ、耳もまたヘッドフォンで塞がれている。視覚と聴覚がその場のものではない「ヴァーチャル」な刺激によって自由を奪われ、そのシステムに支配されながら、衆人環視のなか(2階席から見下ろす態勢で、この舞台を眺めるもうひとかたまりの観客たちがいる)で観客は、孤独と恐怖にさいなまれる。まるでそれは「夢と魔法」というショックアブソーバーを欠いたディズニーランドのアトラクションのようで、観客の状態をここまで徹底的に操作する演出に、まず驚いた。孤独と恐怖にさいなまれながら、観客はまずダンサーの手招きに出会う。おそらく目の前のダンサーを見ているのだろう。しかし、ダンサーたちと彼女らが踊る空間のあり様はタイムロスなく過剰なエフェクトがかけられ、リアリティを欠いており、恐怖は一層掻き立てられる。ただし、この公演中もっとも刺激的であったのは、そうした「ヴァーチャルなもの」から生み出されたものではなかった。10分程度の上演のなかばあたりだったろうか、ダンサーたちが不意に観客の膝や肩、腕に手を触れてきたのだ。この接触は、「ヴァーチャルなもの」を「リアルなもの」とする感覚を生き始めた身体が、思い掛けず得体の知れないもの=「真にリアルなもの」に出会った瞬間だった。この接触にさらなる恐怖を得たともいえるし、肉体の復帰という安堵を得たともいえる、なんとも複雑な感情に満たされた。ダンスに格段の新味さはないとしても、こうしたアイディアを盛り込んでくるところにこのダンスインスタレーションの真摯な挑戦を感じた。観客に向けたアプローチこそ未来のダンスの可能性のひとつだ。そう確信させられた。
2015/12/06(日)(木村覚)
新聞家『川のもつれホー』
会期:2015/12/02~2015/12/06
2015年1月の前作『スカイプで別館と繋がって』には驚いた。一人の役者がきわめて複雑な抑揚とともにこれまた言葉づかいの複雑なセリフをしゃべる。そのしゃべりのリズム(音楽性)にも驚いたが、なにより役者の身体性には目を瞠るものがあった。役者の身体には独特の質があった。セリフの難解さのみならず、床に置かれたスマホに役者は自身のまなざしを固定し、重そうなオブジェを胸に抱えていた。多重な縛りが身体に緊張をもたらしていた。その緊張は豊かな徹底に映った。筆者は、それを「強烈にストイックでモダニスティックな形式主義」と形容したことがある。さて、本作。複雑な抑揚(タイトルの語尾「ホー」に表われているような、意味を切断するような言い回しも含めて)は前作と同じかそれ以上に作り込まれていて、役者はそれを巧みに表象する。聞こえてくる言葉から「川」や「橋」をめぐる家族の話が展開されているようなのだが、抑揚の音楽性が理解を妨げる。すると、目の前に見えるのは役者というよりも一人のヴォイス・パフォーマーなのでは、という気持ちが生まれてくる。ここで起きているのは、クレメント・グリーンバーグがキュビスムを論じる際に、ピカソやブラックの試みた独特な立体性の効果がいつのまにかたんなる模様になりかけていると指摘したのに似た事態に思われる。前作にあったオブジェやスマホのような枷がないぶん、身体の立ち上がりが弱く感じられる(それにしたって、大抵の演劇に比べれば、身体の集中は強烈なのだが)。たんに前作を踏襲するのでは満たされなかったのだろう。演出の村社祐太朗には、そうあえてした狙いがあったに違いない。ただし、筆者にはその狙いは、演劇の形式主義の徹底というよりは、演劇の消滅を帰結するように見えたのだ。絵画がたんなる模様と化すのに抗して、キュビスムは、いったん消した表象(意味)作用をあらためて採用したり、キャンバスにダイレクトに壁紙を貼り付けたりした。ひょっとして、そうしたアプローチが今後あるならば、新聞家の「総合的キュビスム期」なのかもしれないのだが。
2015/12/04(金)(木村覚)
プレビュー:クリウィムバアニー『dbdqpbdb』
会期:2015/12/16~2015/12/20
nitehi works[神奈川県]
筆者がディレクターを務めるBONUS主催のイベント「第2回超連結クリエイション 牧神の午後編」も紹介したいところですが(ぜひ足をお運びください!)、我田引水はちょっと格好悪いので、今月の推薦はクリウィムバアニーの新作『dbdqpbdb』にします。
2014年の300分ぶっ通しのダンス作品『ニューーーューーューー』の記憶も鮮明な、菅尾なぎさ率いる女の子ばかりのグループは、女性が捉えた「女の子」のかわいさ、脆弱さ、ちょっとした怖さに特徴がある。日本は(いや世界も)女性の表現に関する関心がとても乏しいように思うのだけれど、女性はもっとも身近な「他者」なのだ。舞台芸術は男性原理でできている。女性の表現者を「不思議ちゃん」扱いして、結局ちゃんと扱わないという「遅れ」は、まずい。先述のBONUSイベントに出演してもらうQの市原佐都子もまさにそうなのだけれど、女性の表現の捕まえ難さ、得体の知れなさこそ、未来の先取りのような気がしてしようがないのだ。それにしても「貴方とクリウィムで創り上げてゆくゲーム体感型パフォーマンス」って? 今作も一筋縄ではないアイディアが施されているみたいだ。
2015/11/30(月)(木村覚)
篠田千明『非劇 Higeki』
会期:2015/11/27~2015/11/29
吉祥寺シアター[東京都]
20145年にこじきのロボットと人間が空港で出会う物語。齋藤桂太の脚本はつぎはぎ感があり、すっと理解ができるわけじゃないから、わからない部分4割を残しながら芝居の時が過ぎていく。けれども、あるときハッとしたのは、まさにこれは『非劇』なのだ、ということ。劇にあらず。役者たちが登場し、一見ある物語を進めているかに見えるのだが、役者たちの役は一人を残してロボットばかり。一般的な劇が人間の心の姿をベースにお話が進むとするならば、ロボットたちのお話はそこに心の姿を探しても、うまく像が結べなくて当然なのだ。死を回避する手術を施された人間たちが(擬似的)死を体験したいがために、テロをあちこちに起こしていくという話も出てくるが、これもヒューマニズムを基にした共感のうちに落とし込むわけじゃなくて、だから、心を消した者たちの姿が淡々と描かれる。こんなことが可能なのは、乱暴な説だが、篠田が福留麻里やAokidといったダンサーを役者として起用したことと関連があるのではなかろうか。「共感」とは異なる仕方で、舞台が揺れ動き、その揺れ動く時間を成立させようとすれば、それは行為(役者たちの身体の運動)それ自体がその場を埋めていくということになるだろう。そして、その際、場を質的に満たすには、身体が放つ説得力に訴えるほかない。「劇にあらず」であるならば、「じゃあなにか」というとそういうことになる──ということはどういうことか。岡田利規の『God Bless Baseball』も捩子ぴじんの参加で、独特の時間が生まれていた。演劇が演劇を突き破って、その場でしか起きないことに賭けるとき、ダンサーの身体が起用される。現況において、演劇に比してダンスの分野は元気がないかのようにも見えるけれど、いや、けっしてそんなことはないはずだ。ダンスはいまむしろ求められている。けれども、それはオーセンティックな、ゆえに言語に近いダンスではなく、得体の知れない、非社会的で、言語から程遠い身体の密度を示すダンスだろう。舞踏をはじめ、ある種のダンスたちが取り組んできた「非人間性」の露出への要請が、現在の舞台芸術のなかに起きているのではないだろうか。
2015/11/29(日)(木村覚)
岡田利規『God Bless Baseball』
会期:2015/11/19~2015/11/29
あうるすぽっと[東京都]
岡田利規の演劇には、独特の退屈な時間がある。「退屈」というと語弊があるけれど、照明が暗めになり、眠くなる時間がしばしば後半に用意されている。「クライマックス」へ向かうためにはむしろテンションを上げるべきなのだが、劇的葛藤のようなわかりやすい盛り上がりの代わりに、たとえば今作では、ダンスのワークショップみたいな時間がはじまるのだ。ここに岡田の賭けがある。この作品は、日韓米三国の関係性が、野球を焦点に語られる。野球のルールがわからない女の子(韓国人と日本人の女優)と野球は好きじゃないが父に促されて少年時代に野球をやっていた男性、彼らの視点を通して見えてくる野球は必ずしも目新しいものではない。ゆえに、日韓米の関係性もさして目新しくはない。岡田らしさは、野球をめぐる語りにおいて、いつのまにか日本人と思っていた(日本語を話す)女優が韓国人の女の子を演じていたり、韓国人と思っていた(韓国語を話す)男優が日本人の男の子を演じていたりするというところにある。これが今作において単なる岡田流演劇法に収まらないのは、このように「入れ替えて演じる」ことが、単に書かれた物語を伝える演劇であることを超えて、実際に両国の役者が他国の登場人物を演じたらという想像の実演(パフォーマンス)になっているからだ。実際にやってみるということ。実際にやってみれば、日本人の役者が韓国人を演じることもできるということがわかる。けれども、やってみなければこの可能性は永遠に現実のものとはならない。これを「じゃあ韓国人である君が、日本人の◯◯くんを演じてみようか」などというセリフとともに、入れ替えの芝居にしてしまえば演劇にはなるのだが、今作での岡田の意図は達成されないだろう。演劇という舞台の場で、「実際にやってみること」(パフォーマンス)は可能か、これが今作で岡田が挑戦したトライアルだと筆者は考える。その点で、捩子ぴじんが参加した意味は大きい。彼はバットを持って登場すると、イチローのモノマネでYouTubeの人気者「ニッチロー」の映像を繰り返し見て覚えたといって、イチローのモノマネを披露する。そのモノマネは緻密に仕上げられていて、舞台にイチローが降臨していると錯覚するような感覚を与える。捩子はイチローを実際にやってみるだけではなく、自分はバットと一体化した人間だと豪語して、その一体化した状態を実際に示してみせる。あるいは、この捩子=「イチロー」は、体の部分が自分ではなくなり、その部位がどんどん増えてゆくというダンスのワークショップのようなものを3人に促す。これは〈アメリカの軍事力という傘に入ることで自分たちの主体性が失われている〉ということのメタファーなのだが、セリフで描出するのではなく「自分ではなくなる」状態を「実際にやってみる」のだ。これは確かに賭けだ。演劇において役者の身体の状態は「ということにしてあります」と記号的な理解ができたら、それでよい。苦しみの演技だったら「苦しんでいるんだな」と観客が思えれば演技としてOKなはず。しかし、ここでは実際に身体に変容が起きなければならない。その点で、この時間は演劇ではなく、あえて言えば「ダンス」あるいは「パフォーマンス」の時間だ。ラストの天空に掲げられていた巨大な円形のオブジェに、水をかけるシーンもそうだ。このオブジェがなにかのメタファーなのかはっきりと示唆されているわけではない。ただし最初白かったそれが次第に白が剥げて素材の地が見えてくるところから、「自分ではなくなった」状態から自分へと戻すことのメタファーとして読める。しかし大事なのは、それをそう「読むこと」よりも、水をかけていくうちに次第に剥がれていく、その物理的な変容を「見つめること」だろう。この時間は退屈だ。言い換えれば、観客にとって能動的な鑑賞が促される時間だ。岡田の本領はそこにある。「実際にやってみる」という促しは鑑賞のみならず、観客の生へ向けた問いかけでもあるはず。想像の実演は私たちの課題なのだ。
2015/11/27(金)(木村覚)