artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
相模友士郎『ナビゲーションズ』
会期:2015/09/25~2015/09/27
STスポット[神奈川県]
相模友士郎『ナビゲーションズ』の関東圏での公演が横浜のSTスポットで行なわれる。相模は、F/Tにて2010年に『ドラマソロジー/DRAMATHOLOGY』を上演、伊丹在住の老人たちが出演し、自らの生い立ちやいまの生き方についての語りによって構成される舞台が注目された。架空のドラマを役者に演じさせるのではなく、役者のなかにあるドラマを引き出して舞台化する劇作術は、おとぎ話的なイリュージョンを排した舞台のマテリアリズムを展開しているともいえるし、演劇に対する社会の今日的な要請に応える方法ともいえる。恥ずかしながら、筆者はこれまで、そんな相模の舞台を見ずに過ごしてきた。単に「知らなかった」といったら、四方八方からお叱りを受けそうだが、事実そうだったのだから仕方がない。過去の映像資料をお借りして、おおよそのフォローをしてみた立場としていうのだけれど、相模は間違いなくほっとけない作家である。ダンス・舞台芸術における1960年代以降のモダニズムを咀嚼して、そのうえで、いまなにをするべきかという問いに向き合っている。その意味で、まっとうな作家である。今回上演される『ナビゲーションズ』は、すでに相模の故郷福井で初演されたものだ。いまや舞台上演とは、一見、都市に集中しているようでいて、実のところは都市にいるかぎりでは数が多く華々しいばかりで、案外、目を見張るほどの良作に出会えないものなのだ。5月に仙台で上演された砂連尾理の公演や、越後妻有アートトリエンナーレの「上郷クローブ座」によるパフォーマンス・レストランなどが思い浮かぶ。そう考えると、福井での初演舞台が横浜で再演されるというのはとてもラッキーなことといえるだろう。『ナビゲーションズ』はダンスの作品、といってしまうと貧しくなるかもしれない。ものと身振りとの出会い、両者の拮抗による作品であるようだ。筆者は、9月25日のアフタートークで作家とお話しする予定。相模のことがよくわかる仕掛けを思案中。お見逃しなく。
2015/08/31(月)(木村覚)
庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』
会期:2015/08/27~2015/08/30
森下スタジオ[東京都]
この3年ほど海外公演が続いた庭劇団ペニノ。久しぶりの日本公演ではなかろうか。幕が上がると、森下スタジオに小さな田舎宿の玄関が出現している。マメ山田扮する父と50才くらいに見える息子。人形劇の依頼があり、宿に来てみたが、依頼主は現われず、主不在の宿に住む老女も要領を得ない。事故で盲目となった青年の暮らす部屋に一晩居候させてもらう。舞台で描かれるのは2人が翌朝に宿を出るまでの時間だ。いつものこととはいえ、驚かされるのは舞台美術。古びた宿の臭いを嗅いでしまうかのようなリアリティは、お話の筋を追うのとは別種の、お話の底に漂う、〈人間の皮を剥いだところにある何か〉を感じさせる。それにしても圧巻だったのは、暗転した30秒後に、玄関が盲目青年の部屋へと瞬時に転換していたことだ。後でわかるのだが、これは回り舞台で、玄関→部屋→脱衣所→風呂場と90度角の空間が四つつくられていた。この順で回転していけば、人間が次第に自分を露出して、最後には裸体になるという格好だ。登場人物たちは、親子と老女、盲目の青年のほかに、三助(銭湯の使用人)と中年・初老の温泉芸者2人。誰もが見事に常識から外れていて、観客の心を不安定にする。この温泉「地獄谷」は、人間の隠された部分をやさしく開陳させる世界だ。観客はそこで、エロティックな解放感を得る。それがいわば戯画的に展開されるのが、風呂場でのシーンで、そこで登場人物たちは三助以外全員が全裸となり、文字通り剥き出しにされる。マニ車みたいに、くるくると舞台は回り、登場人物たちが自分を露出していくと、観客のなかでなんともいえない、禁じられていていつもは蓋がされている快楽が広がっていく。主人公は50才ほどの息子なのだが、小学校すら通わず、父の人形劇の助手となり、この年まで生きてしまった。自由を奪われた人生を哀れに思いつつ、観客はそこに自分を透かし見るだろう。そして、そのとき、主人公から受ける痛がゆいような感触が、急にすべての人間を映す鏡として立ち現われてくるのである。
2015/08/20(木)(木村覚)
aokid×橋本匠『HUMAN/human』
会期:2015/07/29~2015/08/02
STスポット[神奈川県]
舞台の床一面に散らばっているのは、真ん中を折られて立っている紙たち。紙には一枚一枚異なる絵が描いてある。「絵」というよりは、それは絵の具の運動だ。その場にaokidと橋本匠が現われ、走り出す。すると、紙たちは踏まれたり風に煽られたりして倒れる。人間が動く、そのことで、周囲の物たちが反応する。こんな冒頭からしてそうなのだが、シンプルな「作用と反作用」が、この舞台を終始構成し続ける。これはダンスなのか? もうそういう問い方はどうでもよい。ミニマルな動作を「ダンス」と呼ぶ歴史は50年ほど前からあったとして、ミニマルな動作が原因となり、次の別の動作の基となる、といった2人の案出した連鎖だって、どうだろう「ダンス」と呼んでいいはずだ。よい場面がいくつもあった。例えば、不意にaokidが壁をノックし始めた場面。しばしばダンスの上演では、空間は抽象化され、そこに壁があること、天上や床があることなど「ない」想定で進みがちだ。映画『トゥルーマン・ショー』でジム・キャリーがこの世から脱出しようとして「コツン」と世界の果てに突き当たってしまったように、aokidは実は「ある」壁を手で叩く。叩くと壁の表情が浮かぶ。次第にそれはリズムをもち、次の動作を引き出す。こうしたデリケートな連鎖は、この場にあるものすべてを共演者にしていく。紙をちぎると、2人は壁に貼付け、紙たちはコンポジションを形成していく。紙を貼るたび、2人は言語にならない声でその紙を「命名」するのだが、そんな形と声の関係も面白い。終幕に向けて、赤い紙テープが、空間をダイナミックに横断しはじめた。それを潜ったり、跨いだりする2人は一言「この糸が俺たちにダンスさせる!」と叫ぶ。そう、人と物との作用反作用の関係は、容易く反転しうるのだ。とくにaokidの表現にはいつもそう思わされるのだけれど、人と物とが等価に置かれた舞台は、とてもクールで、ポップで、居心地がよい。そこには2人の倫理観、世界への態度が裏打ちされているように見える。だから揺るぎがない。そして力強いのだった。
2015/08/01(土)(木村覚)
プレビュー:吉田アミか、大谷能生『ディジタル・ディスクレシア』、デュ社『春の祭典』、黒沢美香『この島でうまれたひと』
舞台表現者であり、文筆家でもある吉田アミと大谷能生が〈吉田アミか、大谷能生〉という名義で『ディジタル・ディスクレシア』を上演する。大谷は、6月に『海底で履く靴には紐が無い』をロングラン上演したばかり。手塚夏子に刺激を受け、チェルフィッチュで力を発揮してきた山縣太一のアイディアを大谷は精確に舞台で具現したわけだが、ときを待たずして、今度は本人名義の新作を上演する。Googleドライブの共有機能を用いて書いてきた共同制作の小説(『Re;D』)を、2人の朗読によって舞台化するというのだ。ゲストは振付家・ダンサーの岩渕貞太、ファッション・デザイナーの有本ゆみこ、映像作家の斉藤洋平。徹底的にモダニスティックで、鑑賞者の混乱を誘う舞台になることを期待したい。ほかにも8月は見逃せない舞台が目白押しだ。昨年末の『ふたつの太陽』では、彼自身のルーツである舞踏からの脱皮を図り、新しいダンスのかたちを見せた向雲太郎(デュ社)が新作を上演する。タイトルは『春の祭典』となればこれはもう必見だろう。また、黒沢美香のソロ公演『この島でうまれたひと』も忘れてはならない。新作もあるのだが、とくに1985年の『Wave』は、世のモダニズム志向を標榜する若者たちには、トリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナー、あるいはローザスを信奉する君には、見ておいてもらいたい。前に10歩ほど歩いては後ろに戻りを延々と繰り返すそれは、日本のポストモダン・ダンス(なんて言い方はほとんど機能していないのだが)の初期作品として、歴史に刻まれるべき名作である。
2015/07/31(金)(木村覚)
ウィル・タケット『兵士の物語』
会期:2015/07/24~2015/08/02
東京芸術劇場 プレイハウス[東京都]
ストラヴィンスキーの音楽をともなって、このバレエ音楽劇が最初につくられたのは1918年。第一次世界大戦が終結した年であり、ダダイスムが世を賑わしはじめた時代である。その時代の独特な厭世観やアイロニーが、1時間強の舞台に充満していた。演出・振り付けは『鶴』(2012年)で首藤康之に振り付けたウィル・タケットであるとしても、バレエ・リュスや当時の表現ダンスを連想させる、いわゆるバレエ的な審美性から逸脱した動きがちりばめられていた。「ミュージカル」というよりはそうした芸術性のほうが濃密な舞台。ひょっとしたら、そこに受け容れ難さを感じてしまうミュージカル・ファンもいたかもしれない。そうしたファンにとってアダム・クーパーの存在は一服の清涼剤だったろう。女性的な表情を湛えたラウラ・モレーラのダンスには上記したようなアイロニーが的確に盛り込まれているのだが、主人公のアダム・クーパーにはこの要素はほとんど見られない。クーパーのダンスはまるでクジラのよう。ゆったりと踊り、マイペース。クーパーによってこの劇がもたらす「ひずみ」は軽減される。彼が踊ると、舞台は「芸術」へと傾く代わりに娯楽性が勝利する。それにしても、お話が奇妙だ。主人公の兵士は、悪魔にバイオリンを渡す代わりに本を手渡される。本には財テクの指南が記されており、兵士はそそのかされる。金は手にできたが幸福から遠ざかってしまった兵士は、本を手放し、「王女」と恋に落ちて、幸せを手にしそうになる。幸福の象徴である故郷を目指す最中、悪魔に襲われてしまう。それがラストシーン。牧神にも似た毛むくじゃらの悪魔との死闘は、アクション映画を見すぎた目には滑稽にしか映らない。この滑稽さが本作の寓話的でアイロニカルな傾向に相応しいものなのかどうか? と思いめぐらしているうちに、暗転してしまった。先に述べたような、モレーラとクーパーのちくはぐさは、本作の豊かさでもあるのだろうし、戸惑わされる要素の象徴でもあった。ともあれ、ストラヴィンスキーの音楽がすべてを凌駕して、圧倒的な力を放っていた。
2015/07/29(水)(木村覚)