artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

山縣太一(作・演出・振付)『ドッグマンノーライフ』

会期:2016/06/01~2016/06/13

STスポット[神奈川県]

昨年は『海底で履く靴には紐が無い』が大谷能生主演で話題となった山縣太一の新しい演劇の試み、今作はその第二弾となる。外に家内を働きに行かせて、代わりに引きこもり生活をしている「室内犬」が大谷の役。舞台脇に箱が横並びになってその中で暮らしている。引きこもりで人間以下になった男と働く女が最終的に対比されてゆくのだが、今回の演出はその話に一切のユーモアを盛り込まない。脚本の言葉遊びは今作でも端々に出てくるのだが、リズムを外し、のっぺりと小声で発生されるのでそれが見事なくらい笑えない。特に前半は蛍光灯の明かりで進行するし、役者たちは常に揺れ、痙攣し続けているし、犬はいるしで、絶望的なくらい暗く不穏だ。中盤で役者たちが舞台上に増えてゆき、ほぼ対話はなく、しかし、互いの動作で接触が起こり、揺れが甚だしくなるシーンがある。ストーリーはほとんどないのに、音響も煽っていないのに、狂気のようなテンションで一瞬クライマックスがやってきた。それではっとわかった。これは人間以下の「アンダークラウンド」つまりアングラな人間存在を扱う、その点で舞踏に似た(そう思うと「ドッグマン」は土方巽の「犬の静脈に嫉妬することから」との連関を、「ノーライフ」は「踊りとは命がけで突っ立った死体である」との連関を想像させられてしまう)、しかし、舞踏の様式性とは無縁の、一種のダンス作品だ。終幕の場面では、中央に大谷が立ち、外に出た家内と外に出るのをやめた自分の逆転を語る後ろで、三人の女が並んで、息を止めては我慢ができなくなると数歩進んで男の前で息を吸うという一種の「タスク」を続けている。本当にダンス的だと思う反面、そこに至るまで、舞台にはセリフの言葉が敷き詰められてきており、言葉が緻密にその場を制御してきたことにも気づかされる。そうであるならこれは演劇か。舞踏の様式性とは異なると書いたが、この舞台は他のどんな様式性とも類似しない。この世に一匹だけで立っている獣のように、空前絶後の舞台。そういう舞台を作者や観客はいま願望しているのだろうか。いや、そんなこととは関係なく突っ立っている、そんな舞台なのだ。

2016/06/05(日)(木村覚)

アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』

会期:2016/04/30~2016/05/20

シネマジャック&ベティ[神奈川県]

固定カメラでの引きのショットで長回しが多用されているから商業映画のような物語手法ではない。あえて言えばアート的な映画だ。いや、より積極的に「アート系」と称したくなるところがあり、それは引きショットが物語を進める部分とは直接には関係のないものを映すことで、独特の体験が可能になっているところだ。舞台は病院。入院患者はみな兵士で眠り込んでいる。ある兵士の面倒を見る足の不自由な老女。それと眠る兵士とコンタクトが取れるという若い女性が物語の軸となる。病院の隣ではシャベルカーが土を掘り返している。その脇には藪があり、少し行くと湖がある。湖では、市民が体操をしている。カメラは、こうした景色を映す。物語と関係ないかにも見える。が、兵士はこの地にかつていた王が戦をするのに魂を貸しており、そのために眠っているのだという話になり、それらの景色には現在は見えない別の層とのつながりのあることがわかってくる。さて、この表層の物語からしたら余計な景色に目が向かうこの感じには、どこか馴染みがある。これは、越後妻有や瀬戸内での、日常に置かれた美術作品とその周囲の景色との関係に似ている。『光の墓』は「地域アート」的だ。その連想を促進させたのは、クライマックスで女二人が藪の中を歩くシーンだ。若い女は眠る男に憑依していて男として老女とともに歩く。歩きながら、若い女=眠る男は王の世を思い起こし進み、老女は過去を思い返し歩く。歩みの先には、戦時を回想するためのものなのだろう防空壕のオブジェがあったり、若いカップルとそれが骸骨になった二組の彫像があったりする。二人はそうした作品を眺め、批評しつつ、全身でその空間全体を体験する。このさまが「地域アート」体験に近似しているように思えたのだ。体験ということで言えば、虫の音やエンジン音など、本作では音が丁寧に扱われている。音が喚起するのは、単に意味情報である以上に、その場を感じ味わう姿勢だ。あえて言えば、本作は観客に意味理解ではなく、体験を求める。眠る男の夢に入ろうとすることは、夢を知ることより、夢の中でともに生きることを意味するだろうし、そうした体験の次元こそ、アートが開く次元であると言えるのではないだろうか。

2016/05/07(土)(木村覚)

奥山ばらば「うつしみ」

会期:2016/04/29~2016/05/01

大駱駝艦「壺中天」[東京都]

「ダンス」という表現は、見れば見るほど不思議なものだ。言葉を用いる演劇であれば、演じる体は言葉のリズムや意味やそこから形作られる物語に自ずと縛られる。縛られているから、見ている観客は言葉を追いさえすればいいと安心しがちだ。けれども、その縛りがダンスにはない。踊る体は無言で見る者に迫る。物語から自由である分、始まりも終わりも曖昧。それでも、惹きつけられる。ダンスという表現はだから、プリミティヴで最新型で、いつも根本的に世界の異物であり続ける。さて、奥山ばらばの新作は、ソロの舞台。冒頭、円形の装置で裸の奥山が一人、回っている。舞台にはこの体しかない。この体が言葉とは異なる道具となって語りかける。回転が止むと、背中を向けて肩甲骨をぐりぐり回す。見慣れた「背中」が異形性を帯びてくる。普段は白塗りが多い大駱駝艦だが、今日の奥山は肌をさらす。次第に、汗が溢れてくる。奥山には、そうした汗を含め、自分の体以外にダンスのパートナーはいない。この自分が自分のダンスの相手という、なんというか「自分の尻尾を飲んだ蛇」のごとき自家中毒状態は、例えば、自分の髪を掴んで後ろに引っ張りながら首を前に押し出そうとするなんて仕草で象徴的にあらわされる。風に吹かれるままの一枚の落ち葉のような、誰かに弄ばれる操り人形のような、思いのままにならない体が描かれることもある。悲しいような、寂しいような気持ちに吸い込まれることもあるけれども、汗をしたたらせる裸体はエロティックでもあり、生命の強さも感じさせる。70分強の舞台は、じっくりとゆっくりと人間という境遇を経巡ってゆく。ソロの舞台ということもあり、1年ほど前に逝去した室伏鴻を思い出さずにはいられなかったが、室伏の敏捷な野生動物のごとく変幻し移動する踊りとは対照的に、どこにも行きつけない、ここで踊るしかない、そんな体のダンスだった。

写真:熊谷直子

2016/04/30(土)(木村覚)

プレビュー:ドッグマンノーライフ

会期:2016/06/01~2016/06/13

STスポット[神奈川県]

少し先ですが、6月の上旬に『ドッグマンノーライフ』が上演されます。チェルフィッチュ最古参の役者であり、手塚夏子から指導を受けた影響もあって、パフォーマンスへの独自の思考を形成してきた山縣太一の新作です。前作『海底で履く靴には紐が無い』で世間を驚かせたユニークな言葉遊びが大量に含まれた戯曲は、今作でも健在。筆者は稽古場を見学に行ってきたのだけれど、戯曲に匹敵するほど興味深かったのは、大谷能生がパフォーマンスするエリアが限定されており(稽古では箱を並べることで仕切られていた)、その他の新しい役者たちVS大谷能生といったぶつかり合いが、舞台にあらかじめしつらえられていたことだ。いわば、サッカーか卓球か、対戦型のスポーツを観客が側面から見ているような趣向になっている。どうもパスは観客へも飛んでくるらしい、観客も安穏としていられないようだ。まちがい無いのは、方法的トライアルがしっかりと用意されているということで、本作が日本の演劇界を揺さぶってくれることを期待してしまう。


BONUSが製作した稽古場インタビュー

2016/04/30(土)(木村覚)

高田冬彦「STORYTELLING」

会期:2016/04/16~2016/05/21

児玉画廊[東京都]

東京都現代美術館の「キセイノセイキ」展では過去作(「Many Classic Moments」「JAPAN ERECTION」)が展示されている高田冬彦。この展覧会の問題意識には賛同したいものの、高田の創作の原動力は「キセイ」への反省や反発ではないから、あの起用はどうしても高田の過小評価に映ってしまう。言い換えれば「キセイ」への問いかけという「正しい」振る舞いによってでは、高田作品が写し取ってくる人間の「おかしな」状況を保持するのは難しい、ということだろう。「おかしな」と形容してみたが、他の作家にはあまりない高田作品の特徴に、普通の人間の心情を描くというところがある。人間には誰だって自分を「見せたい」、他人から「見られたい」という欲望がある。自分を誇示し、他者から評価をえるために、美しく、かっこよくなりたい。普通の人間はだからゲスい。ゲスさを隠してかっこよく美しいものやコンセプトを掲げるのもこれまた(他者を意識した)十分にゲスい振る舞いだが、世の中に流布している「美術」とは大抵そういうものだろう。高田はもう一度それをひっくり返す。そこで重要なのは、公の眼差しを回避できる自宅アパートを撮影スタジオにしていることだ。Youtuberと同じく、高田は自宅で私秘的な行為をカメラ前で繰り返す。Youtuberと違うのは、高田の欲望はクリック回数を増やすところにではなく、公の視線を意識するとひとは隠してしまいがちな、「見られたい」「見せたい」欲望とそのファンタジーを躊躇なく開示してしまうところにある。本展の表題作「STORYTELLING」(2014)では肛門のまわりに付けたインクがロールシャッハ・テストの如き形をとり、その形を高田が解釈し、物語る。「Cambrian Explosion」(2016)では立って歩きたい人魚に扮した高田が自らの尾びれを刃物で真っ二つにする。「Ghost Painting」(2015)の高田は、白い布をかぶった幽霊が赤く血濡れた頭(高田の頭)をカメラ前の透明な壁(キャンバス)に押し付け、赤色の絵画を描く。「Afternoon of a Faun」(2016)では高田演じる牧神男が性的夢想の中で、妖精たちに翻弄されながらセルフィーに耽る。どれもカメラを前にした興奮が肉体的衝動を実行に移させている。普通のことだ。「おかしな」普通が露出している。これは、いわば生々しいポップ・アート(大衆を描くアート)なのである。
図版:高田冬彦「Afternoon of a Faun」2015年 (映像からのキャプチャー)
写真提供:児玉画廊 / courtesy of Kodama Gallery

2016/04/20(水)(木村覚)