artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:ロロ『ハンサムな大悟』

会期:2015/06/04~2015/06/14

こまばアゴラ劇場[東京都]

ロロの新作があります。タイトルは『ハンサムな大悟』。80年代まんまなテイストのイラストがフライヤーで踊っています。三浦直之率いるロロとの出会いは『ボーイ・ミーツ・ガール』(王子小劇場、2010)で、そのときは猛烈に感動したのを覚えています。演劇が嘘を語るものだとしたら、その嘘でここまで跳躍できるんだ!と、三浦さんのはちゃめちゃなイメージの広がり方や演劇を信じる強さのようなものに圧倒されたのでした。その後も、何度かロロの舞台を見ましたが、奇跡を信じる無邪気さのようなものはさすがに落ち着いてきて、そのぶん、描かれる世界は豊かになり、しかしまたそのぶん、ぼくの心は少しロロから遠ざかってしまっていました。今作は見に行こうと思っています。結構強くそう思っていて、なぜそう思ったのかは自分でもよくわからないのですが、タイトルに惹かれているのは間違いありません。「ハンサム」であることは、モテモテであることを帰結するとして、モテモテの人生というのは人生における永劫回帰を悟らしめるものなのではないか? ハンサムではないのでぼくには想像しかできませんが、「ハンサム」であることの絶望から大悟はどう突破するのか? そう思うと、『ボーイ・ミーツ・ガール』でロロに一時中毒になったぼくのあのときの気持ちに、「第二章」を与えてもらえそうな気がするのです。

2015/05/31(日)(木村覚)

岩井秀人×快快『再生』

会期:2015/05/21~2015/05/30

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

多田淳之介原作の『再生』は、同じパフォーマンスを3回繰り返す。90分の舞台。ゆえに30分の同じパフォーマンスを演者は3回行ない、観客は3回見る。この最小限のしつらえに、1回目は戸惑い、2回目は親しみを感じ、3回目は応援したくなってしまう。不思議だ。普通、同じ舞台を3回繰り返したりはしない。音楽だって同じ曲を3回演奏しないだろうし、映画だってそうだろう。演者も観客も〈再生の牢獄〉にいて、3回繰り返すことの退屈と悲惨を共に生きる。いや、快快ら演者たちは10日で10回もこの3セットをこなしていくのだから、30回分の3に観客はつき合ったに過ぎないのだ。などとつい〈過酷なトレーニング〉のように本作を形容してしまうのは、パフォーマンスがかなり激しいからで、アップテンポの曲が大音量で流れるなか、7人の演者たちは緻密に組み合わされたダンスをひたすら踊りまくる。ペットボトルが舞台に転がる。役名は見当たらず、快快ら演者たちはSFアニメのキャラクターのような出で立ちで、絶叫し、観客を煽り、激しくてユーモラスでかわいくもある踊りを踊りまくる。劇場の構造がそう想像させたのかもしれないが、アリ地獄に落ちたアリのような、踊り地獄。長時間踊りつづける舞台ならば、クリウィムバアニーが300分の作品を上演しているし、映画だったら『ショアー』がある。渡辺謙は『王様と私』3時間の舞台をマチネとソワレを合わせ1日で計6時間演じていたらしい。だから90分で疲労しちゃいけないよとも思うのだが、時間が進むごとに疲労が蓄積されていくさまこそ、この作品の構成要素なのである。時間が経過するにつれ、舞台がどんどん有酸素運動の場に見えてくる。1回目はただの混沌としてしか映っていなかった構成が、2回目になると緻密に組み合わされたものであると気づくようになる。そうすると踊りが際立ってくる。テンテンコ(ex.Bis)のゆるいダンスに目が引きつけられる。周りが疲労していくぶん、がんばらないダンスが際立ってくる。3回目は誰のどのダンスも形が崩れ、できない体がむき出しにされる。面白かったのは、二度ほど音量が絞られたこと。絞られると演者たちのぜーぜーいう声があらわになる。いや、それだけではなく、どれだけ音楽がこの場を支配してきたのかもあらわになる。なるほど、この舞台の主役は、演者たちではなく、音楽なのではないか? 律儀に3回繰り返されるのは、なによりも再生装置から発せられる音楽であり、演者たちは音楽に促され踊るのだ。だとすれば、この〈3回の音楽再生とそれに操られた7人の人間たち〉の関係こそが本作の物語なのである。そのリアルでフィジカルな関係性の語りにとって、キャラの立った快快らメンバーは最適な演者だったといえるのかもしれない。けれども、これ、快快の舞台なのだろうかとも思う。彼らほどキャラが光っていなければ舞台の強度は保てないだろうが、快快の魅力の一部しか活用されていないのも事実だ。演者の実存に光を当てるという点は、確かに、一貫して快快が見せてきた部分ではあるけれども。

2015/05/27(水)(木村覚)

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2015/05/23~2015/05/24

卸町イベント倉庫 ハトの家[宮城県]

砂連尾理の公演は、ここ数年、国内の舞台作家の公演のなかで群を抜いて見過ごせないものになっている。それは、彼が障害者とともに踊り、車椅子の老婦人と踊り、東日本大震災の被災地の人々と踊ってきたことと関連はあるけれども、そればかりではない。彼が目を背けないでいるのは、弱さを抱えた者ばかりではない。ダンスそのものにこそ彼のこだわりはある。このことは忘れてはいけない。砂連尾はダンスを更新しようとしている。他ならぬそのことにもっとも強い印象を受けた。冒頭で女(磯島未来)が1人、東北なまりで語りつつ、静かに踊る。はっきりとは聞き取れなかったのだが、どうも、「ここで起きたこと、ここでの死者のありようを確認しなければ……」と語っていたようだった。ほどなくして、喪服姿の男2人が現われる(砂連尾理と垣尾優)。2人は目隠しをして踊ったり、それぞれの動きを瞬時に模倣したり、椅子に腰を下ろし密着しながら互いが独り言を投げかけるような、シュルレアルな会話を行なったりした。ばかばかしくユーモラスにも映るが、立派な大人が血迷っているようにも見える。主としてその行為は、誰かを確認するというよりは、自分自身の身体のありようを確認しているのであり、自分の身体さえ不確かな真っ暗闇で必死に自分を捜している、まるでそんな時間だった。1960年代のポストモダン・ダンスに倣って、このアイディアを「タスク」と呼ぶこともできよう。「タスク」とは、いわゆるダンスに見えぬ日常的でシンプルな行ないをパフォーマーに課して、その行ないをパフォーマーに遂行させるという、非ダンス的にダンスを踊るためのアイディアである。そこには、妙技を披露する身体や、妙技を通して現われるイリュージョン(バレエなら「妖精」などを舞台に出現させるだろう)もない。代わりに、淡々とことをこなすだけの、ゆえに嘘いつわりのない「リテラルな(文字通りの)」身体の行ないが現われる。砂連尾の狙いのひとつがおおよそそこにあるのは間違いない。けれども、砂連尾はその身体の上に、喪服を着た男2人のドラマを据え置こうとするのだ。「タスク」のようなアイディアを通して、ダンサーたちは自分の「身の丈」をあらわにするダンスを踊る。できること、できないことが示される。しかし、そのうえで、2人の男は喪服姿で自分たちの任務を生きようともしている。2人の男の任務とは、要するに、3.11以後の世界を生きる仙台と向き合うことだろう。その難しさ、過酷さ。タイトルの『猿とモルターレ』は「salto mortale」(とんぼ返り、命がけの跳躍)の意味を帯びている。ユーモラスな姿をさらして、失笑も浴びながら、2人はこの不可能のダンスを淡々と踊りつづける。最後には、互いの足の裏を揉み、すると、事前に行なわれていたワークショップの参加者10人ほどが割って入り、大きな塊をつくった。互いの足裏を揉みながら、少しずつ、全体の形が変化していった。互いに足を揉んでいる様に、気持ち良さそうだなと思いつつ、その塊のこう着状態に、つい復興の進展が鈍化している社会の姿を透かし見てしまう。それでも進んでいくのだ。そんな意志を見たような気がした。

2015/05/24(日)(木村覚)

かえるP『Color babar』

会期:2015/05/15~2015/05/18

こまばアゴラ劇場[東京都]

桜美林大学出身の大園康司と橋本規靖が振り付け、演出を行なうかえるPの第6回公演。印象的なのは、ポップソングにあわせて踊るシーン。とくにビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」をバックに20代の男3人が激しく踊るところは鮮烈だった。腹を「ピシッ」と叩くしぐさなどコミカルな振りもあるけれど、こわばり、力の出しどころが見当たらないかのような、もどかしい身振りになにより惹かれる。モーリス・ベジャールのソロにも似ていなくはないけれど、芸術系よりは、ジェローム・ロビンスやボブ・フォッシーなどのミュージカル映画系のダンスになぞらえたくなる。絶対にいわゆる〈美しい振り付け〉はしたくない。既存のダンス・テクニックとも距離を置きたい。身体がここにあることを伝えたい。できたらその身体が嘘っぽくなく躍動していてほしい。そんな思いがこちらの胸に飛び込んでくる。タイトルは「からあ・ばばあ」と読める。なるほど、老人の身体なのか、腰を屈めた姿勢でうろうろするシーンがあり、そんなところでは「コンセプトだけ知っているけど見たことないままに舞踏を踊ってみたひと」みたいに見えた。正直、なぜこの角度のセンスなんだろうと理解できない部分もあるが、それは近年の若者ロックに思うのと同じような疑問で、99パーセント筆者が年をとった徴だろう。ただ、できることならば、2人の審美性がもう一歩だけ観客に近づいて伝わりやすい部分が増すならば、ダイナミックな展開が始まるのだろう。そんな予感に満ちた作品だった。

2015/05/17(日)(木村覚)

プレビュー:大谷能生×山縣太一『海底で履く靴には紐が無い』

会期:2015/06/02~2015/06/14

STスポット[神奈川県]

ハイバイの岩井秀人演出で『再生』を快快が上演するなど(KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ、2015年5月21日~30日)、話題の公演が目白押しのなか、今月ぜひとも紹介したいのはこの1本。チェルフィッチュで活躍する役者・山縣太一が脚本・演出を行ない、主演をミュージシャンで評論家の大谷能生が務めるという謎めいた企画なのだが、本人たちはいたってまじめに演劇の更新を目指している。ひとつの注目点は、はたして40歳を超えた大谷が半年ほどの稽古で役者へと変貌できるのか?にあるのだが、それは同時に、どんなひとでも集中して稽古すれば役者になれるのか?という問いに答える実験でもある。ある意味演劇版「ライザップ」みたいなところもあるけれども、もっと注目すべきは、チェルフィッチュの演劇を体現し続けてきた山縣が、自分の蓄えてきた身体への思考を炸裂させようとしている点だろう。山縣の身体に宿っているのはじつはチェルフィッチュだけではない、彼が師匠と仰ぐ手塚夏子の身体論こそ、この演劇を動かす原動力となっている。毎夜、豪華なゲストを招いたアフタートークが用意されているのも気になるところだが、大谷と山縣の思いとしては、ゲストとしっかり演劇やパフォーマンスなるものについて議論したいのだそうだ。そうした模様は、ぼくがディレクターを務めるBONUSサイト上にて随時まとめる準備をしている。そう、この企画にはいつのまにかぼくも一枚噛んでおり、すでに公開しているインタビューなど、この企画をフォローする役回りを担当している。先日も稽古を見に行ってきたところだ。ぼく個人は、役の与えられるのを「待つ」という意味で基本的に受け身の役者が、主体的に演劇を「作る」側に回ったことに興味を惹かれている。さて、その顛末やいかに。


稽古場インタビュー:大谷能生×山縣太一「海底で履く靴には紐が無い」(ウェブサイトBONUS)

2015/05/15(金)(木村覚)