artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

金氏徹平×山田晋平×青柳いづみ『スカルプチャーのおばけのレクチャー』

会期:2015/07/26

KAAT神奈川芸術劇場 アトリウム[神奈川県]

岡田利規(チェルフィッチュ)と前野健太が金氏徹平の指導のもとでスカルプチャーを完成させる1時間。3人が横に並び、同じ青のTシャツを身に着け、黙々と作業に勤しむ。なんだろう、この感じ。ライブのパフォーマンスなのだが、独特のゆるさがあって、鑑賞無料も手伝ってか、リラックスした〈おふざけ気分〉が全体に漂う。これはテレビ(ex. ダウンタウン)的? あるいはニコニコ動画? 50個ほどはあるだろうか、大小の日用品あるいは工事現場にありそうなものたちをパーツにして、下から上へと積み上げていく。他愛のないおしゃべりが続く。時折、本人は現われることなく(だから「オバケ」なのだろう)、青柳いづみの言葉で「よく見ろよ!」みたいなゲキが飛ぶ。その度に、失笑が会場を満たす。2メートルほどのスカルプチャーが立ち上がると、白いペンキを上からかけて出来上がり。テレビやニコ動的な鑑賞のあり方のなかに、すっぽり当てはめられたレクチャー・パフォーマンス。それは、テレビやニコ動の可能性を拡張するもののようでいて、芸術表現の可能性をこそ拡張する試みに思われた。芸術のテレビ(ニコ動)化といえばよいか。案外こういったささやかなチャレンジのなかに、先取りされた未来があるのかもしれない。このパフォーマンスは、チェルフィッチュ『わかったさんのクッキー』関連イベントとして上演された。

2015/07/26(日)(木村覚)

Q『玉子物語』

会期:2015/07/08~2015/07/15

こまばアゴラ劇場[東京都]

「モテたいんじゃなくて、育てたい」。ぴったりそう言ったかは定かではないけれど、こんな台詞が飛び出した。舞台はアパート。屋上が鳩小屋?みたいに金網張りになっていて、そこにちゃぶ台とテレビとしゃがんで漫画を読む女たちがいる。そこでは女たちが卵を産み、その卵を食すのがそこに住む女主人公の楽しみになっている。異生物同士の交尾やそれによるハイブリッドが話題になったり、ストレスフルな女性の狂気じみた1人語りが取り上げられたりと、女性のまなざしから見える世界が描かれるのはいつものQらしいところ。今作でとくに際立っていたのは、そうした一場一場がまるでひとつのコント(小話)になっていて、それぞれがそれだけでひとつのテンションを保って築かれていたことだ。物語の展開を追う面白さだけでなく、一つひとつの場が形成する人と人の関係の妙に没頭してしまう。白眉だったのは、きゃしゃでチワワのような目をしたある登場人物が、小太りでグレーのスウェット姿の男とバレエを踊るシーン。男はこの女性のオルター・エゴであることが後でわかるのだが、女のいわゆるバレエ的な踊りを、醜い男が繰り返し模倣する場面は、異性というよりは異文化の接近遭遇の瞬間のようで、爆笑ものだったし、なんといえばよいか、エロティックだった。以前の作品にも取り上げられていたケンタウルスと暮らす女のイメージは、今作でも出てきた。過剰な性欲をなだめてくれる女の脇で、何度も何度も白い液体を放出せずにはいられないケンタウルスは滑稽だが、その滑稽で気味の悪いものと、どう共存すればよいのかと本作は問いかける。「育てたい」は、だから、この世をどうにか肯定したいがゆえの一言だろう。Q(市原佐都子)の「肯定する意志」の射程が見えた作品だった。

2015/07/15(水)(木村覚)

プレビュー:Q『玉子物語』

会期:2015/07/08~2015/07/15

こまばアゴラ劇場[東京都]

先月、舞踏家・室伏鴻が逝去した。享年68才。ブラジルでの公演を終え、ドイツでのワークショップに向かう最中、メキシコの空港で心臓発作に倒れたと聞く。ドゥルーズを愛した室伏らしいノマデックな旅の途中のことだった。筆者は15年ほど前に『edge』という公演を見て、あまりのことに驚愕し、この舞台を言葉にしてみたいと切望するところからダンスの批評をはじめた。室伏が踊るから、ダンスにはなにかがあると信じることができた。拙サイトBONUSでも第2回の連結クリエイションに室伏を招いていた。『牧神の午後』をテーマにしたダンスの制作を依頼していたのだが、最後の舞台となってしまったブラジル公演でも、ほんの数十秒とはいえ、『牧神の午後』を彷彿とさせる振りを踊っていたのだそうだ。亡骸の脇で、そのビデオを拝見した。本人は不在となったものの、なんらかのかたちで室伏が心に宿した『牧神の午後』を辿る試みをするつもりです。
さて、室伏と同じ舞台に立つはずだった市原佐都子の劇団Qの新作公演が迫っています。タイトルは『玉子物語』。Qは、女の子の自意識や性を含めた欲望や普段は隠されている部分を丁寧にひらいて見せてくれる。それは、ときにどぎつく映ることもある。けれども、Q以外の劇団のつくる演劇の多くが、いかに男性のためにつくられたものであるのかを知らしめてくれる。男性にとって心地よいシュガー・コーティングされた女性像を脱ぎ捨てた女性の姿は、ひょっとしたら醜くも滑稽にも見えるかもしれないけれど、人間が次の段階へと至る際の変容中のさまなのかもしれない。Qの舞台には、そうした未来が懐胎されている。

2015/06/30(火)(木村覚)

捩子ぴじん『Urban Folk Entertainment』

会期:2015/06/25~2015/06/27

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんの新作公演を見た。「ぽっかり」とした舞台と10人ほどの演者たち。そこはかとない空虚感。演者たちのほかに登場するのは「水」。天井から吊り上げられた蛇口から水は滴り落ち、ポリバケツに収められる。水入りペットボトルを演者たちは仰向けで額に置き、起き上がろうとしては、床に落とす。遠くでは祭りの音が聞こえている。祭りの輪の外、そのさらにはずれの出来事。水道メーターが床に浮き上がるかたちで置かれているので、舞台の「高さ」はコンクリートやアスファルトをめくり、土を少し掘り出した位置であるようだ。ならば、この演者たちは地の霊? ぽっかりとした集団は同じ動作をともに行ない、ときにそれがポストモダン・ダンスのような「タスク」の遂行のようにも映り、また、『牧神の午後への前奏曲』をバックに、みなが方々であくびを繰り返しつつ前進するところには、捩子ぴじんがかつて所属していた大駱駝艦の舞台を連想させる集団性があった。ぼくはここに、バレエともモダンダンスとも異なる、ポストモダン・ダンスや舞踏に近いがそれとも一致しない、新しいダンスの萌芽を見た。祭りの一体性からはずれたところで起きる、もうひとつのダンス。それは目下のところ水のモチーフに引きつけるなら「無味の味」のダンスだ。甘くも苦くも辛くもない。そうしたわかりやすい味でひとを引きつけたり、引きはがしたりするようなことは、このダンスはしない。その点で、支配にも排除にも加担しない、正しいところがある。けれども、「無味の味」には味がない。「いや、ある!」と好事家を気取って言うこともできよう。でも、その味は、甘さや苦さや辛さで麻痺した人たちを、「やっぱり、こっちが美味しい!」と魅了するほどの力は、まだない。本公演はコンテンポラリー・ダンスの「ゼロ地点」を指差した舞台だったともいえるだろう。かつてBONUSサイト上で行なった座談会で、捩子は自分の制作姿勢を「ニッチ」と呼んでいた。さまざまな方法が群雄割拠するなか、それらの方法の盲点に、自分のするべき仕事が隠されているのではないか、そんな話だった。「ニッチ」を選択するのは「反ダンス」の態度でもあるだろうが、未知のダンスを発見する冒険でもあるはず。反ダンスでありダンスであるダンス。それを目指す地平に、かつてレイナーも土方巽も立ったはず。捩子ぴじんがその地平にまずは立ったというのが本公演だとしたら、さて、どうやってそれでもダンスを踊ろうか?(あるいはなぜそれでもダンスなのか?)という問いが次の公演で掲げられることになるのでは、そうであると期待をかけたい。

2015/06/26(金)(木村覚)

山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』

会期:2015/06/02~2015/06/14

STスポット[神奈川県]

永らくチェルフィッチュを役者として牽引してきた山縣太一が自ら脚本・演出を務めた本作、間違いなく誰もが驚いたのはその主演が大谷能生であったことだろう。台詞や出演時間を考えると大谷のパフォーマンスは1時間を少し超える舞台の約8割を占めていた。それどころかもっとびっくりさせられたのは、大谷の身体所作が奇妙なメソドロジーを背景にしているということに違いあるまい。初期のチェルフィッチュのようだと形容されもしよう。いやしかし、その根底にあるのは岡田利規の存在以上に、パフォーマーの手塚夏子の存在が無視できない。山縣本人もアフタートークで口にしていることだが、手塚夏子が15年ほど前に同じSTスポットで『私的解剖実験2』という舞台を上演したことは、山縣の役者活動に大きな影響を及ぼしたという。身体のある一部に極端に注目すると、その意識は身体のその他の部位へと波及し、身体は自走の状態になる、手塚はこの作品でそうした発見を「実験」と称して上演した。山縣はこの舞台を見ながら「なんで手塚さんは自分の身体のことがわかるのだろう」と思ったという。ひとつの衝撃が形を結ぶまで15年かかるのか。長いようでも短いようでもある。ともかく、過去は未来を温存しているのだ。役者となった大谷は稽古に6カ月ほどをかけ、独自の「太一メソッド」を体現した。驚くのは「体現」といえるほど十分に、大谷の身体が変身を果たしていたと言うことだ。そこには、手塚を通して感じていた独特のグルーヴがあった。ゆえにこの舞台はダンス公演でもあった。さて、問うべくは、この舞台を現在の観客たちがどう評価するかという点だろう。懐古趣味に映る? そういうことも否定できまい。ようは、この独自の身体性の価値を、今後山縣がどう社会に訴え続けるかにかかっているだろう。まるで山縣の分身とも映る主人公の男は、繰り返し、「ねえ、ぼくの話を聞いてくれる?」と飲み屋で、会社の若手社員2人にそう話しかけるが、無視され、一向に望みは達成されない。しかし、今作で人々は山縣の思いを結構ちゃんと受けとめてくれたはず。だからこそ、今作で終わりにせず、腰を据えて、自分のメソドロジーを継続的に社会に訴え続けてほしい。

2015/06/05(金)(木村覚)