artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

川村美紀子『インナーマミー』(「トヨタ コレオグラフィーアワード2014 ネクステージ(最終審査会)」)

会期:2014/08/03

世田谷パブリックシアター[東京都]

2014年度の「次代を担う振付家賞」は川村美紀子が獲得した。ダンサーの動きの要素、空間構成、音響や舞台衣装などどの点においても凡庸な作品だった。にもかかわらず、どうして受賞したのか? 思いめぐらすうちに、ひとつの仮説が脳裏をかすめた。以下はその仮説に基づく推理である(受賞からすでに数カ月が経過しているがまとめておきたい)。推理とは、この作品が狡猾な「賞レースにかこつけたゲームの実演」だったのではないかというものである。「賞レース」とは抽象的な「賞一般」ではない、当の「トヨタ コレオグラフィーアワード2014」(以下「トヨタ」)である。川村は「賞レース」に出場しつつ、本来のレースとは別のゲームを設定した。そして実際にそのゲームを上演/実演したうえで、まんまとゲームに勝利した。さて、それはどういうことだろうか? 川村は会場で配られたコンセプト・ノートの欄にこう書いている。「【インナーマミー】 // これは、心の中にひそむ母親を撃退するゲームです // 自分の欲望を放棄する…1ポイント 全体の一部として機能する…1ポイント 他者の関心を惹き付ける…3ポイント 要求に応える身体を持ち合わせる…5ポイント 受身的な存在であり続ける…2ポイント/30秒毎 優しさと従順さを披露する…3ポイント 抱いた幻想を具現化する…4ポイント」このテキストはなにを示唆しているのか? たんなる「不思議ちゃん」的な振る舞いのひとつ? いや、そうではない。これはこの上演に際して川村が設けたゲームの内実を示すものではないのか。もっと積極的にいうならば、これは彼女が自身に課した指示であり、ゆえにこれこそ本作のコレオグラフィそのものであるはずだ。そうであるならば本作が「凡庸な作品」であったのは当然である。彼女はこのゲームに忠実に作品を制作し、自分とダンサーたちに振り付けを与え、上演を遂行した。では、なぜ彼女は、そんな凡庸なゲーム(=コレオグラフィ)を思いついたのだろうか? ヒントになるのはタイトル。「内なる母」。これは誰だ? おそらく「母」とは川村にとって、自分にそうした指令(「自分の欲望を放棄せよ」など)を課してくる存在だ。この「母」に忠実になるゲームを遂行することで、川村がいうとおりならば「母親を撃退する」のである。これはいささか奇妙なルールだ。このゲームでは、娘の忠実さが「母」を撃退する結果を招く。なぜそんなことが起きるのか? 「母」の理想が娘によって具現化されることで、母の抱いていた理想は凡庸で愚かしいということが露わになるからだ。さて、この「母」とは誰か? もし川村が賞を逃したならば、この「母」とは純粋に彼女の内に潜む母となり、本作は川村の娘性が作品化されたものと解釈すればそれでよいことになる(いや、筆者の仮説を例外的解釈とすれば、大方の理解はそうしたものだろう、だが、しかし、そうであるならば、なんであんな凡庸な作品を川村はあえて「トヨタ」に提出したのか)。川村が賞を受賞したことで、この仮説に従えば、「母」は「トヨタ」になった(「トヨタ」は川村の母になることを選んでしまった)。そして「トヨタ」は、川村に賞を与えることで、川村によって撃退されてしまった。川村はゲームを完全犯罪的に遂行し、そして勝利した。しかし、この二重の勝利は自爆的ではないか。その余波はどれほどのものとなろう。ただし、上記のすべては、あくまでも仮説に基づいたひとつの推理である。

2014/11/30(日)(木村覚)

安達哲治『バレエコンクール──審査員は何を視るか?』

発行所:健康ジャーナル
発行日:2014年8月8日


日本には100あまりのバレエコンクールがあるらしい。さらに、海外留学を提供しているコンクールも七つ以上はあるのだという。日本は世界有数のバレエ人気国だ。本書は、そうした日本にあって、コンクールのなかでバレエの審査はどう行なわれているのかを明らかにした、とても画期的な著作である。作者の安達哲治は日本バレエ協会の理事で、全日本バレエコンクール組織委員を務めている──つまり審査を長らく務めてきたインサイダーによって審査の内実が語られているものなのである。故に研究書ではなく、きわめて実践的な観点から本書は編まれている。ところで筆者(木村)は、コンテンポラリー・ダンスの批評を10年以上行なってきた。そのなかで、コンテンポラリー・ダンスではダンスの価値が過去と現在においてどのように定められてきたのかにずっと興味をもってきた。筆者自身の評価の基準はいくつかあげられるけれども、個人というよりは社会がどのようにジャッジしてきたのか、その審査のもとにはどんな考え方が横たわっているのかが知りたくて、BONUSというサイトで「トヨタコレオグラフィーアワード2014」の審査委員に依頼し、選評を執筆してもらうプロジェクトを先日行なったばかりだ。コンテンポラリー・ダンスは、古典的なダンスをベースにしていながら、それとは別の道を進んでいくところに固有性がある、それゆえにその価値は多様だ。それに比べれば、安達哲治が指し示すバレエの審査基準は、じつにさっばりと簡潔なところがある。ひとつの強いメッセージは、基本をきちんと習得せよ。個人的に解釈することで、基本を歪めてはならない。なるほど、以前、赴任している大学の教え子から、日本のバレエ教育は、実践ばかりで理論や歴史を学ぶ機会はとても乏しいと聞いたことがある。YouTubeなどが隆盛を誇っている時代にあって、うわべを真似ることは容易くなった反面、一つひとつの動きが秘めている本質は見過ごされがちだということも起きているのだろう。「教養」を学べと強調するところに安達の筆致からは、いらだちも感じられる。バレエ人気の背後に隠れた大きな課題が露わになっている。

2014/11/28(金)(木村覚)

アダム・クーパー主演『SINGIN' IN THE RAIN──雨に唄えば』

会期:2014/11/01~2014/11/24

東急シアターオーブ[東京都]

この上演作は、ややこしいと言えばとてもややこしい。ミュージカル映画をつくる過程を舞台にした映画がまずあり、それをもとにした舞台ミュージカルである。舞台のミュージカルがトーキー映画の台頭とともに映画のなかに吸収されていった。本作はその過程を映画スタジオではなく舞台の上で描いてゆく。舞台なのか映画なのかで時折目眩を起こしそうになる。いや、舞台に繰り広げられる華々しいパフォーマンスを素直に見ればよいのだ、きっと。ただ、そうは言っても、あの傑作映画のディテールがいちいち心に浮かんできて素直になれない。休憩を挟んで二部構成の本作は、かなりの程度映画に忠実につくられている。映画の名場面では確かに舞台も盛り上がる。あの一番有名な夜の街を傘をささずに唄い踊る場面は、この舞台でも一番の見所になっていて、アダム・クーパーの演じるドンは、びしゃびしゃになった床を蹴り上げる。すると、水しぶきが美しい弧を描いて、最前列の観客を水浸しにする。まるでシャチのショーのように、水しぶきに観客は湧く。踊りはきわめてスマートだ。涼しい顔で水たまりと遊ぶ姿は、ジーン・ケリーのようなユーモアとは別の雰囲気を湛えている。踊りの場はどれもとても洗練されている。とくに印象的だったのは、踊りの統一性だ。澱みのない美しさは群舞のなかでも薄まることはない。ただ、そうしたダンスの力に舞台が支配される分、物語の細部はそれほど重視されない。とくに発音の教師とのコミカルなやりとりで有名な「モーゼス・サポーゼス」のシーンでは、俳優のドンとコズモは、トーキー映画に出演するために発音の再教育を受けなければならず、その境遇に腹を立て、発音の教師に食って掛かる。この場面は、サイレントからトーキーへの移行に際して俳優たちがその変化に苛立ちつつどう対応していったかというこのお話の大きなテーマを語る大事なところだ。しかし、2対1の関係は、あまり強調されずに、しばしば3人は対等な関係になって仲良く踊りの輪をつくってしまう。まあ、息のあった踊りが見られるならばそれで良いよねという意見もあるのだろうし、まあ固いことは言わずに娯楽を楽しみましょうという雰囲気に会場は満ちていたのだが、とはいえその分物語の細部が重視されないのはもったいないのでは?と思わずにはいられなかった。

2014/11/23(日)(木村覚)

プレビュー:『とつとつダンスpart.2 愛のレッスン』

会期:2014/11/28~2014/11/30

アサヒ・アートスクエア[東京都]

ぼくはかねてから、未来を明るくする最大の焦点は、身体に障害のあるひとや高齢になって身体が十分に働かないひととどう共存し、互いの幸福を高めていくかを考えることではないかと思っています。「健常者」がノーマルでありそのノーマルを基準に社会をつくるべきだという通念から自由になること。例えば、オリンピック/パラリンピックの区別がなくなったら、それだけでも社会はよくなる気がするのです。既存の価値が転倒し、混乱するだろうけれども、その混乱から始めることなしに、明るい未来はないはずです。身体というメディアで表現をする振付家・ダンサーこそ、美しく優れた身体を誇示するエリート主義から自由になって、そうした混乱を引き出す存在でいて欲しいと思います。さて、砂連尾理は第1回のトヨタ コレオグラフィーアワードで「次代を担う振付家賞」を寺田みさことともに獲得したダンス界を牽引する存在。これまでも、ベルリンの劇団ティクバとの共作などを通じて、健常者と障害のあるひととの交流のあり方を模索してきました。砂連尾が今回取り組むのは、車椅子の高齢者。特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」との四年におよぶ交流を通して生まれた上演作品が『とつとつダンス part. 2 愛のレッスン』。ダンスは社会において、どんな価値を発信できるのか? 砂連尾はときどき「フィクション」の意義ということを発言していますが、そうした考えが本作を通してどう示されるのか、期待してしまいます。

2014/10/31(金)(木村覚)

Q『油脂越しq』(『flat plat fesdesu vol. 3』Aプログラム)

会期:2014/10/15~2014/10/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

Qの演劇は微妙なバランスを保って進む。人間へのまなざしというか距離感が絶妙で、人間の暗部を暴露するとはいえ、それを遂行する際の対象に向けたまなざしが誠実で優しい。チェルフィッチュや岡崎藝術座に似てしばしば役者は観客に顔を向けて独白する。中身は「現実にそんな告白されたらちょっと困るな」と思うような性的な妄想だったりするのだけれど、特徴的なのは、肉体に宿した突き上げてくる衝動がすべての言葉の動機になっているところだ。肉体が言語を生む。そんなスタンスの劇団はこの世にそんなに多くは存在しない。そのうえで付け加えたいのだが、コメディともとれるユーモアの要素が今回際立っていた。まさに絶妙な人間への距離感がそれを可能にしていた。30分程の短編。コンビニの女店員2人と魚肉ソーセージを大量に購入する女1人の物語。3人それぞれ性の記憶と妄想にとりつかれている。共通の趣味(GLAYのファン)が元で男の部屋に遊びにいった太めの女。58才の男と恋愛している若い店員。2人の存在に刺激されてオナニーばかりしているもう1人の店員。今回のQがユーモラスだなと思わされたのは、そうした3人の性衝動が、いつものQのように背後に暴力性を漂わせていながらも、「止むに止まれぬ内側からの突き上げ」として描かれていたからだろう。人間のおかしさや悲しさやかわいさが、それを源に溢れ出していた。魚肉ソーセージは、たんに魚だけではなく、人間も含めた多様な動物たちの肉をミンチにしてできているという妄想が語られる。いつものQらしい異種性交のイメージがコンパクトにこの妄想に収められた。それにしても、市原佐都子の、肉体と肉体が接触することへの執拗な興味というのは強烈で、ぜひここだけ取り出して現代美術のフォーマットに落としてみて欲しいなどと思ってしまう。そのインパクトはより広くそして的確に鑑賞者に受容されるだろうとも。

2014/10/19(日)(木村覚)