artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

室伏鴻《Dancing in the Street》(「六本木アートナイト」サイレントダンスプログラム)

会期:2015/04/25

三河台公園[東京都]

室伏鴻の日本では久しぶりとなる舞踏上演が、六本木アートナイトの一演目として行なわれた。当夜六本木では、アートというよりもお祭りが好きな人の群れが各所で騒ぎを起こしていたが、室伏が舞台として依頼されたのは三河台公園。夜10時半の野外上演では致し方ない面もあるだろう。とはいえ、係員が「静かにしてください」と書かれたプラカードを観客たちに掲げ、頻繁に注意を促すという状況は、周辺住民を慮ってはいるかもしれないが、さすがに踊り手への配慮を欠いている。なんと終幕の際の拍手もNGという徹底ぶり。そんないわば「アウェイ」な環境のなか、室伏のパフォーマンスは、しっかりとしたテンションを感じさせる、とても充実したものだった。広い円形の砂場。真ん中には、遊具の組み合わされたすべり台。その空間を舞台にして、冒頭、白いレースの布で顔を覆い、黒い衣服から銀色の両手足を露にし、室伏は、ときに力をみなぎらせ、ときにそのこわばる身体を脱力して、観客のまなざしを虜にしていく。野外で踊るときに、室伏はみずからの本領を発揮する。室伏の踊りはただのつくられた踊りではない。それは、その場の環境で起こるすべてを吸っては吐くことで展開する。いくつかの約束事は決められているのかもしれないが、ほとんどは即興的な行為である。不意に、すべり台を上り始めた。どうするのだろう? 上ったからには下りなければならないだろうが……と思っていると、力なく黒い体はゆるゆると坂を下り、地面に不格好に落ちた。思わず笑ってしまうのだが、その笑いは、その場につくられつつあった空気をぶちこわし、代わりに違うテンションを持ち込む、その発端に鳴り響く「サイレン」となった。慣性の法則に抗えず放り出された死体? いや、死に切れずそれはもう一度、すべり台を上る。今度は、直立状態で着地すると、何度かバウンドしたあげく横に倒れた。そうして繰り返す、死体と生体の往還。死体であり生体である室伏の口から黒澤明『生きる』で主人公が唄う「命短し~」のフレーズが漏れる。この映画も公園が重要な舞台となるお話だ。と、思っていると今度は、黒い衣服を脱ぎ、銀色の全身が現われた。肉体は砂に混ざり合い、公園の灯に照らされる。異形の体が、六本木アートナイトの喧噪の端っこで、その喧噪とは別の物語を紡いでいた。最後は、四つん這いになり、人間であることとも別れを告げ、室伏の肉体は六本木の異生物となった。

2015/04/25(土)(木村覚)

Aokid《KREUZBERG》(第12回グラフィック「1_WALL」展)

会期:2015/03/23~2015/04/16

ガーディアン・ガーデン[東京都]

Aokidが第12回グラフィック「1_WALL」でグランプリを獲得した。Aokidは10代でブレイクダンスの世界で活躍し、その身体性を活かして、コンテンポラリー・ダンスの分野で、いやその枠では収まりきれない独特のスタンスで、ダンスをつくり続けている。そのダンサーAokidにはまた別の才能があった。「1_WALL」でのグランプリというかたちで、今回それは評価された。ただ、彼のダンサーとしての才能とグラフィック(イラストレーション)の才能は、相補的なものではないかと僕は思っている。Aokidのダンスはまるでイラストのようだ。身体の重さに頓着しないで、まるでソフビの人形を乱暴に扱う子どものように自分の身体を扱う。その手法の一端は、ブレイクダンスに由来するのだろう。けれども、イメージはそうしたテクニックの幅を超えて自由に羽ばたく。Aokidのダンスは、だからあえていえば二次元的なのだけれど、対して今回の彼のグラフィックでの試みは、イラストを「立てかける」といったもので、これもあえていえば二次元を三次元に化けさせるという試みだろう。イメージに物理的な居場所を与えたというべきか。すると、彼のイメージ宇宙は、物理空間へと一歩踏み出す。これを、20世紀のアメリカの美術史をコンテクストにして整理することは容易いだろうが、むしろそうした美術史をかすめつつも、そこからさらに日本の「つい立て」や「ふすま」などのコンテクストへとスライドできる柔軟な広がりにこそ、注意を傾けるべきだろう。ちっちゃいものに向けたささやかな遊び心。そうした遊び心が、建築的な思考へと突き進み、さらに街作りへと思考が展開する。Aokidは何年も前からAokid Cityというイベントを行なっているが、彼が用いる「City」の意味合いが、実際こうした「立てかける」を発端に、イメージが自由に三次元化して踊りだすという発展的な状況を予示していたのだとわかってくる。ファンタジックなイメージ世界とリアルな物質の世界とを自由に柔軟に往還していく彼の創作は、まだまだこれから何倍もフレキシブルな広がりを示すことだろう。

2015/04/14(火)(木村覚)

プレビュー:マームとジプシー『ヒダリメノヒダ』

会期:2015/04/03~2015/04/12

神奈川芸術劇場KAAT 大スタジオ[神奈川県]

先月、先々月の公演ラッシュから考えるとずいぶん「凪」な状態で、推薦したくなる公演はさほど多くないのですが、見逃せないのはこの1本。2月に『カタチノチガウ』で新作上演を行なった藤田貴大(マームとジプシー)が早くも新作を発表します。本作『ヒダリメノヒダ』は、藤田自身が幼少期に陥った視力の極端な低下がテーマになっている作品とのこと。物語性の高い藤田の戯曲で実体験が参照されているのは、珍しいのでは。実体験に基づいた考察が、どこまでそこに反映されることになるのかに期待したくなります。また「マームとジプシーとして、かなり挑戦的な作品になることでしょう」とも、フライヤーには書かれています。マームとジプシーのテイストは、もうかなりの程度、世に浸透していきています。その文学的な感触を味わいたくて足を運ぶファンも多いことでしょう。「挑戦的」とは、そのファンも裏切るようななにか突拍子もないことであるのか、否か。そのあたりに、興味があります。

2015/04/01(水)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『クラウデッド』『ヘヴィメタル』

会期:2015/03/20~2015/03/26

清澄白河周辺、江東区文化センター[東京都]

「土地の記憶を吸う吸血鬼」をテーマに、大橋可也&ダンサーズは、2013年から江東区のリサーチを続けている。そのプロジェクト「ザ・ワールド」のシーズン2として上演されたのがこの二作。『クラウデッド』は、SNACを出発点に、2~4時間かけて江東区の点在するエリアを周遊しながら鑑賞する「散歩型」の公演。こうしたスタイルは、演劇の分野ではおなじみになっていて、ぼくならば2010年の飴屋法水の『わたしのすがた』やPort B『完全避難マニュアル 東京版』などを思い出す★1。あるいは、越後妻有や瀬戸内などの地域型国際トリエンナーレも「散歩型」の鑑賞スタイルの代表例だろう。ダンス分野では、かつて「横浜ダンス界隈」という企画もあった。今作に限らず、こうした鑑賞の面白いところは、点在する鑑賞エリアに導かれて進むうちに(渡されたマップには「舞踏譜」の文字が。移動経路も振り付けの一部ということか)、作品鑑賞よりも町並みに目を奪われ、思わぬ発見や、予期せぬ出来事に遭遇するという点にある。今回であれば、コーヒーショップのサードウェーブが江東区でこんなにも華々しい展開になっているのかと驚かされたり、昔ながらのスナックでのパフォーマンスでは、はじめて入る空間に新鮮な気持ちになったりした。よそ見の効用というか、芸術云々より、街(あるいは自然)の持つ力を発見するところに魅力がある、しかし、そのぶん、よっぽどのことをしないと芸術は街や自然に敗北してしまう。町に住む吸血鬼=ダンサーという設定は、舞踏にひとつのルーツをもつ大橋のダンス性とマッチしていて、喫茶店やスナックなどでのダンサーの振る舞いは、街が宿す不可視の部分を一瞬感じさせてくれる。けれども、今作の特徴だと思われる、親愛の情を湛えた男女の関係性は、呈示されると事柄がわかりやすくなるぶん、めくれた不可視の部分への驚きを薄くしてしまう。吸血鬼というフィクションと江東区という土地を結びつける仕掛けが見えにくかったのだ。「劇場型」の上演『ヘヴィメタル』は、その傾向がより一層濃厚で、舞台上のダンサーたちはどこかに迷い込み、生息しているのかもしれないが、そこがどこだか判然とせず、観客は置いてけぼりをくってしまう。音響に圧倒され、映像にも引きつけられる要素があった一方で、ダンスには総花的な印象をもってしまった。大橋は「ザ・ワールド」を継続させるという。とくにダンス分野による「散歩型」の上演には、期待も高まるに違いない。だからこそ、欲が出るのだが、大橋にはダンスでしかできない「散歩型」の上演とはどんなのか、ぜひ考えてみてもらいたい。それはおそらく、肉体と土地との驚くべき具体的な接点を探すことだろうし、思案すべきはその接点にひと匙のファンタジーを用意することだろう。

★1──飴屋法水『わたしのすがた』(artscapeレビュー、2010年12月01日号)
URL=http://artscape.jp/report/review/1225400_1735.html


「ザ・ワールド シーズン2」トレーラー

2015/03/21(土)、2015/03/26(木)(木村覚)

木ノ下歌舞伎『黒塚』

会期:2015/03/11~2015/03/22

駒場アゴラ劇場[東京都]

木ノ下裕一=監修・補綴、杉原邦生=演出・美術。初代市川猿翁が昭和14年に書いた戯曲を、現代的な手法で演出したというのが今回の『黒塚』。老婆を演じる武谷公雄がともかく力みなぎる名演技を見せた。東北の人里離れた土地に舞い降りた僧侶の一団が、老婆に一夜の宿泊を乞う。老婆はあの部屋だけは見るなと言い残して、薪を取りに出て行くと、僧侶たちは我慢できずに、部屋を覗いてしまう。部屋は死体の山、老婆は狂った鬼のごとき女だった。武谷演じる老女は、僧侶たち(現代の若者ファッションを身に纏っている)が現代語を話すのとは異なり、古語を唄うように話す。僧侶たちと老婆との対話は、だから異国の言語を交わしあうようになるのだが、その古語と現代語のぶつかり合いがなかなか面白い。現代劇と時代劇が共存しているタイムトリップ感に酔う。話が進むにつれて思うのは、『黒塚』という戯曲の持つ力で、古典的な手法で書かれており、古代ギリシア悲劇に似て、絶望的な状況に老婆を追い込むことで、人間の普遍的な苦悩を引き出している。老婆はかつて城に住む姫の乳母だった。ささいなことで姫の体が不自由になると濡れ衣を着せられ、占い師に問えば、生きた胎児の肝を煎じて飲めばなおると言われる。ある日、老婆にチャンスが到来する。身重の女が宿を乞いに来た。女を殺めた後、その女が自分の娘であることに気づく。こうした鬼女と化した女の精神的苦悩が、舞となって表われる。この苦悩を舞台に表わした武谷の演技は、驚くべき力強さを湛えていた。これが、歌舞伎の役者によるものだったら、もう少し収まりのよい演技になっていたかもしれない。歌舞伎など古典芸能に肉薄しつつ、それに収まらない武谷の演技は、表現は悪いが着ぐるみを纏うようなコスプレ的要素がなくはない。けれども、それだからこそ、「成りきる」エネルギーに圧倒されることとなったし、古典との距離が遠い、今日の観客にとって、リアリティある演技に映るものだった。

2015/03/19(木)(木村覚)