artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

田辺知美+川口隆夫『めっひっひ まあるめや「病める舞姫」をテキストに、2つのソロダンス』(特別公開リハーサル in 女子美術大学)

会期:2014/10/18

女子美術大学(杉並キャンパス)[東京都]

最近、川口隆夫の活動が活発だ。8月から始めた『Slow Body』の公演は続いているし、毎週のようにタイトルの異なる上演に挑んでいる。その最中での今作上演。11月に青森で予定されている本公演のための公開リハーサルとして、川口が今年度非常勤講師を務める女子美術大学を会場に、教え子たちが運営に関わるほのぼのとしたムードのなか行なわれた。全体60分ほどのなか、前半に踊ったのは田辺知美。畳一畳の上で踊る。時折、暗黒舞踏の創始者・土方巽が書いた小説『病める舞姫』の一部分がスピーカ越しに朗読される。例えばそれは「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう」なんて台詞。確かに田辺の身体は畳の上で唸る。時折痙攣する。しかし、その状態を起こすための作為がなんとなく透けてしまっていて、あまり乗れない。とくに全身を(顔までも)覆う肌色のタイツはエロティックと見えなくもないけれど、一方で身体のあり様はタイツのせいで隠れてしまう。最後に、自らストッキングを破るのだが、その手の非ダンス的な能動性がダンスを消している。田辺がそうして身体を隠したのと対照的に、川口はどこまでも曝す気満々だ。田辺と交代で舞台に現われた川口は顔にオレンジの袋を被り、足に赤いジャージを履いて、あとは裸だった。ぎょっとさせられたのはジャージの股に開いた「穴」。それは明らかに男性にはない位置に開いたものだ。ろくでなし子(事件)へのアンサー? そんな気持ちも過りつつ、興味深かったのは、これが女性でなく男性だからこその表現に映ったこと。女性にはもともと女性器はあるので、このように衣服で暗示してもわざとらしい。男性にはない分、この「穴」が男性の股にあると暗示として機能しやすい。そう思っていると、浄瑠璃の一節を川口は朗誦しながらパフォーマンスを続けた。自分で自分の身体を縛るような奇妙な悶絶の時間もあった。「踊り」ではなく「パフォーマンス」であることが、田辺と比べ川口を自由にしているようにも見えたし、個人的には相対的により土方性を感じた。扉を開け放ち、中庭に出ると、二枚の畳を合わせて、そこに馬乗りするのだが、尻が脱げて、全裸になってしまうと、なんとなく、土方へのテンションが緩くなってしまった。土方に対峙するのは並大抵のことではない。なにより、テキストを朗読しただけで、その独特な「湿っぽさ」に心奪われて、結局土方の強さばかりが目立った時間だった。

2014/10/18(土)(木村覚)

悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』

会期:2014/10/11~2014/10/13

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくの目は悪魔のしるしに、というよりは危口統之に厳しいようだ。彼の偽悪性にしばしば乗れないことがその理由だ。おそらくこの上演には賛辞が多く寄せられるだろうから、ぼくが少し辛く書いたところで誰にも、おそらく本人にも嫌がられないだろう。危口の表現する「悪」は同時に彼のある部分を隠すために機能している気がする。観客の一人として「悪さの哲学」に没頭したい気持ちにそのことが水を差すことがある。他人をひどい目にあわせる仕掛けに、危口本人は一人静観している。今作は、でも、危口本人が出演し、しかも、彼の父が舞台で彼とともに演じるという、その意味では静観してはいられないシチュエーションである。フランス留学の経験がある父は、自分をジャコメッティと勘違いする「ボケ」の状態にある。危口はその父の息子役で舞台にいる。もう一人、父の介助役にミュージカル女優を志望する大谷ひかるも出演。物語はとくにない。点鼻薬の代わりに木工用ボンドを鼻に入れてしまったというコミカルなエピソードが何度も取り上げられる他は、当人たちのリアルなエピソードが過去の記憶を辿るように語られていく。通奏低音として、繰り返しジャコメッティと彼のモデルだった矢内原伊作のことが話題に上がる。ジャコメッテイは見えるがままに描くという不可能を本気で目指した。そんな話題から、すべて人生は不完全な演劇であるとの話になったり、父の演技の下手さ(演技不可能性)の話になったりする。だが、観客としてむしろ驚いたのは、父・木口敬三の演技の確かさだった。こんなふうに、本当の父は父の演技ができるだろうか(例えば、私の父は無理だろう)。「ジャコメッティ」という主題に身を隠さず、この「本物の父と演劇を上演している」というかなりの異常状態に、もっと迫っても良かったような気がする。危口はある場面で父の絵が好きだと口にした。父の絵のどこがどう好きなのか、そこにこだわったときには、血のつながった息子・危口と父・木口が2人でこの舞台に(あるいはこの世に)居ることの特殊性や不思議さへとスライドしたのかもしれない。


悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』トレーラー本篇

2014/10/12(日)(木村覚)

プレビュー:悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』

会期:2014/10/11~2014/10/19

KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ/京都芸術センター 講堂[神奈川県/京都府]

最近はcore of bellsとの共作『子どもを蝕む“ヘルパトロール脳”の恐怖』でその無気味な才能を発揮していた悪魔のしるしの危口統之。今作は、彫刻家の父・木口敬三と危口本人が出演する。おそらくリアルな(血縁関係のある)二人の人生と演劇というフォーマットとが重ねあわされたところでどんなことが起きるのかという、ひとつのドキュメンタリー演劇の試みとして注目できる。とはいえ、危口のことである。先述したcore of bellsとの共作では緻密なルールを課したアドベンチャーゲームのように会場を設えつつ、結果的には観客をただただ混乱させ、ひたすら目を瞑った状態でその場歩きをさせる、そういう拷問のごとき「悪巧み」を仕掛ける作家だ。きっと観客はおちおち座っていられまい。ただし、今作でぼくが期待しているのは、観客ではなく危口本人に「悪巧み」の矢が向けられているかもしれぬということだ。この場が危口演出のお化け屋敷のようになるのか? それとも危口本人が自らの変容を促されるトラップを用意しているのか? 観客への仕掛けと危口本人への仕掛けとがあるテンションを生み出しつつ共存していたら、それはそれは面白そうである。

横浜公演=2014/10/11~2014/10/13
京都公演=2014/10/16~2014/10/19


悪魔のしるし×KAAT 『わが父、ジャコメッティ』

2014/09/30(火)(木村覚)

室伏鴻×ASA-CHANG&巡礼『アウフヘーベン Vol. 1』

会期:2014/09/23

CAY[東京都]

室伏鴻はけっして一人では立たない。室伏はつねに誰か「と」立つ。そのためには「誰か」はたしかに必要なのだが、問題は立つそこに「と」があること。室伏鴻と「○○」ないし「○○」と室伏鴻。この「と」が機能すること。それは室伏と誰かが歩調を合わせることを意味しない。息を合わせ、互いの思いを同じにしようとすることは、望ましいというよりむしろせっかくの「と」がもつ危うさや緊張を回避してしまう間違った狙いというべきだ。だからといって、それぞれがただ勝手に自分自身を主張している状態では、やはり「と」で立つ意味はない。さて、その微妙なパランスを模索しながら両者がどう立ったかという点がこの公演の見所となるのだが、その結果もまた述べるのが難しい。ASA-CHANG&巡礼の音楽は、多様な楽器が用いられているばかりではなく、音声サンプリングが多用され、にぎやかで、それ自体が多様な要素の共存する「と」の演奏だった。音楽演奏が始まった後から室伏が登場すると、まるで諸要素が絡まってできたひとつの束の上に、さらにもうひとつの要素を貼付けるみたいで、両者が拮抗するように見えてこない。一番気になったのは、3人の演奏者たちは、つい立ての裏でその姿が一切見えないことだ。気配はちゃんとするので、演奏へのリアクションを室伏は時折するのだが、反対に演奏者からの応答はない。少なくとも見えない。姿を見せぬ者たちと姿をさらした者とはかくも拮抗しづらいのか。いっそ、室伏も姿を隠して、どちらも姿を見せぬままで、声で3人の演奏者と向かい合ったなら、拮抗したのかもしれない。

2014/09/23(火)(木村覚)

山崎広太『Running』(「Tokyo Experimental Performance Archive」での上演)

会期:2014/09/23

SuperDeluxe[東京都]

アメリカン・ヒットチャートのポップソングたちが立て続けに10曲以上かかっただろうか、40分超のパフォーマンスはほとんど同じbpmの音楽が観客と山崎広太の耳を覆うなかで進められた。構成は大きく三つに分かれていた。冒頭、山崎は浴衣に白いつば広の帽子を被り、うつむき加減で踊った。舞踏にも映る。手の指が小刻みに揺れる。でも、せわしなく動く足が体を平行移動させるのは、舞踏というより黒人系のダンスのようだ。強烈に内側に籠るのではない。その分、軽い。軽いが足と腕が別系統で動いているように見えるときなど、スリリングな瞬間が頻発する。浴衣と帽子を取ると、スポーティな短パン姿で、山崎はファッションショーのウォーキングのように、舞台奥か前に歩いて来ては退く。何十回と繰り返しても、そのたびニュアンスが違う。頻出する動きもあった。それは身体に障害をもっているかのような引きつった動作。ウォーキングが崩れてくると、突拍子のない動きが連なる。連結は滑らかなのだが、それでも、意外なイメージが飛び込んできて驚かせる。山崎らしいスリリングでユーモアも漂うダンスがあらわれた。そう思ってみていたのだが、終幕に近づくにつれて、とくに曲がアップテンポになると、それに合わせて激しくなる分、山崎の動きがエクササイズに見える場面が出てきた。エクササイズが舞台に持ち込まれてもよいけれども、印象として残念なのは、音楽に山崎の動きが支配されているように見えたことだ。ポップソングの力を舞台に置いてみたかったということなのだろうか。そうなのかもしれない。けれども、ポップソングと対峙するならば、音楽に身体を合わせるのとは異なる、もうひとつ別のアイデアが置かれても良かったのではないか。そうすると、あえてアメリカのポップソングを用いる批評的な意味があらわれたのではと思う。

2014/09/23(火)(木村覚)