artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

篠田千明『機劇──「記述」された物から出来事をおこす』

会期:2014/07/11~2014/07/13

SNAC[東京都]

快快脱退後、本格的なものとしては初となる篠田千明の公演は、演劇を「『記述』された物」という点から考察し上演するという、言ってみればとても意外なものだった。篠田と言えば「つながり」を重視する快快のなかにあって、おもに演出を担当していた中心人物。「パーティ・ピープル」と受け取られることもある彼らのなかで、もっともパーティ寄りの存在ではないかとぼくは勝手に思っていた。もちろん『アントン、猫、クリ』などでは、多重のレイヤーを駆使して、きわめて方法的なアプローチも見せてはいた。それにしても、正直、今作ほど方法的な考察を重視した上演をするなどとは想像していなかった。とはいえ、それは、やや大げさに言えば、今後の日本の演劇やダンスの環境に強い刺激を与えるものであったと確信させられる上演だった。
本作は、二つの作品で構成されていた。最初の『The Short Chatri / タイトルコール』は、同じく快快を脱退した中林舞が伝統的なタイ舞踊を習った過程をめぐる作品。幼少のころからバレエに親しんでいた中林が、継承者の絶えたタイ舞踊とどう出会い、どうそれを咀嚼し、体内化したのかを舞台にしたのだが、それを説く構成が丁寧だった。最初中林が登場し、自分のルーツを話し、またタイ舞踊との出会いを紹介した後、バレエの動きから次第にタイ舞踊独特の動きへと身体を変容させていった過程を踊りながら示し、次にリハーサルと称して踊りの確認を行なったうえで、最後に、猫のかぶり物を身につけ、音楽も鳴らして、いわば「本番」を踊った。それぞれの段階にそれぞれの身体がその個別の表情を見せていたことが興味深かった。そしてなによりも、師匠が体内化しているタイ舞踊をバレエの身体へ転写していく、そのブロセス自体を演劇(篠田はそれをまた独特な言い回しで「機劇」と呼ぶ)にしていることに、驚きに近い感動があった。
二作目のタイトルは「ダンススコアからおこしてみる」。ポスト・モダンダンスの文脈で理解されることの多いアンナ・ハルプリンの『ファイブ・レッグド・スツール』(1962)をダンサーの福留麻里(ほうほう堂)が1人で上演した。興味深いのは、95分ほどの作品を6分で行なったことと、五つのパートを1人で遂行したことだ。どう1人で遂行したか、それは舞台に置いた3台のモニターのなせる技で、スコアの一番上に書かれたパートを遂行し終えると、次に福留は舞台では二番目に書かれたパートを遂行するのだが、その際、舞台の福留とタイミングをあわせて、モニターに先のパフォーマンスが映写されるのだ。舞台上ではライブの身体と記録された身体が同時にディスプレイされているというわけだ。三番目のパートが遂行されると、モニターは一番目と二番目のパートを重ねた映像を映した。95分が6分になった時点で「正しい」上演ではないと評定することもできよう。しかし、この「正しくない」アレンジによって、スコアから「出来事をおこす」仕方を、ぼくたちは驚きとともに考えることができるのだ。篠田の「機劇」はさしあたり、そうした地平をひらいたことにその意義を見出すことができるだろう。

ちなみに、この上演をめぐって、筆者がディレクターを務める「BONUS」にて篠田千明にインタビューを行なった。これもレビューとあわせてご覧ください。


BONUS 篠田千明インタビュー「機劇」(Aプロ)をめぐって

2014/07/11(金)(木村覚)

プレビュー:トヨタコレオグラフィーアワード2014──次代を担う振付家の発掘

会期:2014/08/03

世田谷パブリックシアター[東京都]

8月3日にトヨタコレオグラフィーアワード2014が開催されます。これは、必ずしもそう限定されているわけではないのですが、日本のコンテンポラリーダンスの分野にとって最大のアワードです。今回のファイナリストたちは、いまのダンスの状況を反映した、バラエティに富んだ顔ぶれです。
ここには、「日本のコンテンポラリーダンス」というかたちでまとめられるひとつの傾向は見いだせないことでしょう。むしろ多様な試みが、踊りの場を活性化し続けている、そういう光景に遭遇できるのではないでしょうか。8月の公演ですが、チケットが早々に売り切れる可能性が高いので、今月のプレビューで紹介します。必見です。ちなみに、ぼくは7月からBONUSという「ダンスを作るためのプラットフォーム」をインターネット上でスタートさせます。このなかに〈ジャーナリズム〉というコーナーがあります。今回、〈ジャーナリズム〉が最初に取り上げるテーマが他ならぬこの「トヨタコレオグラフィーアワード」です。かもめマシーンの主宰として活躍している萩原雄太さんに取材・執筆をお願いしました。このアワードに初めて触れる人にもよくわかる内容になっていると思います。ご一読ください。

2014/06/30(月)(木村覚)

大駱駝艦・天賦典式『ムシノホシ』

会期:2014/06/26~2014/06/29

世田谷パブリックシアター[東京都]

今作は、ぼくの大駱駝艦鑑賞歴のなかで、もっとも素晴らしかった。これは「舞踏」ではないかもしれない。けれども「舞踏」ではないが故に、まったく新しいなにかだった。圧倒的にユニークなのはその動きのありようだ。いわゆる「舞踏」にありがちな、じとーっとした動き、緩慢さのなかに緻密さが内包されているといえばいいだろうか、そうした動きはほとんどない。代わりにあるのは、シンプルで短い動きの反復だ。いつもの「キーッ」と叫ぶ声が漏れ、その都度、動きは変わるのだが、合図のたびに変わる動きは、どれも単純で短い。それは過去のダンス史を振り返っても前例がほとんどないもので、でも、たとえば、ゲームのキャラクターがプレイヤーによって動かされるのを待っている際のあの反復的な動きとか、あるいは短い動作を繰り返すGIFの画像に似ているなんて連想が膨らむと、それが日常見慣れている動作であることに気づかされる。そうした動きを、男性10名弱、女性10名弱がいくつかの小グループに分かれつつ、揃って行なうのである。最近知り合ったGIFマニア(20代)はGIFの魅力を、起承転結がなくて、起きる出来事に揺らぎがなく、故に安心して見ていられるところにあると話してくれた。演劇はもちろんのことダンスにおいても起承転結がないことは、しばしば欠点として語られがちだ。だが、彼のような感性からすれば、起承転結は余計な仕掛けに映るのであって、ひとつのGIF画像として閉じ込めたかのような動作の完璧な反復は、けっして裏切ることはないし、それどころか陶酔的な誘惑を秘めている。単純な反復がもつグルーヴということならば、テクノ・ミュージックはまさにそういうものだ(そして、たしか舞台に用いられていた音楽はジェフ・ミルズだった)。タイトルにあるように、登場するダンサーたちは、冒頭、人間のまま(しかし、白塗りの状態)で現われたあと、再び登場したときには、男はやかんを被ってあちこち歩き回り、女は脚を折り畳んでダンゴムシのように転がり、「ムシ」へと変貌した。そこへ「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と口走るいかにもな格好をした松尾芭蕉(村松卓矢)があらわれ、いつのまにか女たちを奪っていった。麿赤兒はその女たちに混じって突然あらわれた。女たちとは異なり、麿の足は赤い靴を履いている。ならばムシではなく人間か? そうかと思っていると、同じ格好の赤い靴を履く女の子たちが群れであらわれ、捕虫網を宙に遊ばせる。ムシと人間とが行き来し、渾然一体となっているかと思うと、松尾芭蕉と麿赤兒とが二人だけになり、向き合う格好に。麿が踊れば、松尾芭蕉は「違う!」「No!」と絶叫。今回も、やはり後半部に「父殺し」のモチーフが展開された。しかし、圧巻だったのはラスト。男たち女たちの群舞が最後に用意されていたのだが、彼らはほとんど全裸の肌に銀粉を塗り、顔をマスクで覆っていた。その効果で、舞台がメタリックなきらめきに包まれた。背中を向くと、本人とおぼしき顔写真が背中に大きく貼付けられている。全員が背中を見せれば、写真の顔がずらっと並ぶ。この光景がこれまた奇想天外で、シュルレアルにも映るし、同時に何やらSNSの顔写真のようでもある。「舞踏」よりもリアルななにかを感じながら、それが指す風向きへと大駱駝艦は帆を進めていた。ぼくは今度、大駱駝艦の公演に上記したGIFマニアの知人を誘ってみようと思う。きっといまの大駱駝艦にピンとくるのは、彼みたいな感性の人に違いないのだ。

2014/06/26(木)(木村覚)

生西康典『瞬きのあいだ、すべての夢はやさしい』

会期:2014/06/06~2014/06/16

MAKII MASARU FINE ARTS[東京都]

あらかじめ予約する際のウェブサイトにそう書いてあったのだから、承知していたこととはいえ、やっぱり観客はぼくひとりきりだった。案内してくれる女の人(桒野有香)とともに扉をくぐると、そこは小さく暗く細長い空間。指差すほうに椅子があり、座ると左右に耳とちょうど同じ高さのスピーカがこちらを挟むように設置してあった。案内を終えた女の人は向かい端でこちらに顔を向け、椅子に腰掛ける。薄暗い。程なくして目の前の女の人ではなくスピーカからの声。「私の声が聞こえますか?」つい「はい(聞こえてますよ)」と答えそうになるが、ここは「観客」でいるべきなのだろう。それにしても「私」とは誰のことか? 誰の声か? それよりも「私」が誰かが気になる。「私」の主は判然としないのだが、声は執拗に語りかけてくる。空間は薄く暗い。なんだか、目の前の女の人が肖像画に見えてくる。彼女が「私」ではないことはスピーカの位置から判断できる。でも、ならば一層「私」とは誰なのだろう。今度は声の主が男(飴屋法水の声だ!)に変わる。彼も「私」と言う。しかも「あなた」と語りかけもする。「あなた」はきっとぼくではない。なぜなら、この上演は複数回繰り返されている以上、ぼくではない誰かもここに座ってきたはずだし、あるいはこれからここに座るのだから。でも、それにしても、執拗に「あなた」への呟きは繰り返された。ときに「あなた」はぼくに寄り添い、ときにぼくに入り込み、それでいてさらにぼくと距離を取った。声の呼ぶ「あなた」に対して観客が受け取る遠かったり近かったりする感覚があり、それこそこの上演のメタ演劇的本質であろう、そうぼくは思った。生命の存在や死をめぐる話題が、世界や自然のあり方についての考えが、語られる。きっとこれが、再生装置による「声」だけならば、自分がたったひとりの観客であることを多少気軽に思えたことだろうが、目の前に女の人がいる。生身の人の存在は、いまの自分が他人と代替しうるただの観客であるという言い訳めいた思いを、許してくれない。独特の緊張が自分の身を意識させる。ああいつもの観劇の際の「複数の観客の一人」でいるときの、気楽さよ! 闇は、しかし、じつにデリケートにコントロールされた。そのたびに、自分の体に刻まれた記憶が喚起された。複数の声が聞こえているときも、心は繰り返し勝手な像をこしらえては崩した。その体験中に起こるすべての出来事が、この作品なのだ。そうだ、そう断定してしまおう。だって、それを知っているのはぼくしかいないのだから。

2014/06/16(月)(木村覚)

プレビュー:ダンス・アーカイヴ in JAPAN──未来への扉

会期:2014/06/06~2014/06/08

新国立劇場[東京都]

「ダンス・アーカイヴ in JAPAN──未来への扉」という公演が行なわれる。昨今、あちこちでダンスを「アーカイヴ」するプロジェクトのことを耳にするけれども、これは「日本の洋舞100年」を振り返る企画だそう。伊藤道郎、江口隆哉、石井漠、高田せい子ら、20世紀前半に、欧米のダンスの流れに影響を受けて、独自のダンスを生み出していった振付家たちの作品が再演される。かつてNYを旅したとき、ハンター・カレッジの学生たちが、マーサ・グレアムやトリシャ・ブラウンの作品を、自分たちのルーツを讃えるかのように上演しているのを見て、彼らのダンス史とのつき合い方に感銘を受けたことがある。若い国アメリカ合衆国にとって、20世紀の芸術は彼らの誇りであり、繁栄の象徴なのだろう。かたや日本では、自分たちの先達の作品と自分たちとのつながりを反省する機会というのはほとんどない。「歴史家とは、後ろ向きの予言者である」(シュレーゲル)なんて言葉もあるが、過去から未来を掘り出して来ることも可能であるはず。少なくとも、そう信じることは無駄ではあるまい。

2014/05/31(土)(木村覚)