artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

捩子ぴじん『no title』(「トヨタ コレオグラフィーアワード 2014 ネクステージ最終審査会」)

会期:2014/08/03

世田谷パブリックシアター[東京都]

2002年の第1回から12年、今年で9回目となる「トヨタ」で、ぼくがもっとも優れた上演であると判断したのは、捩子ぴじんの本作だった。今年冬の『空気か屁』も印象的だったが、F/Tでアワード受賞をはたした『モチベーション代行』も含め、捩子ぴじんの上演に特徴的なのは毎回その様式が異なるということだ。その点でいえば、神村恵と福留麻里が参加した『syzygy』のアイディアはまさに前代未聞、空前絶後だった。捩子ぴじん本人は大駱駝艦に所属したこともあり、舞踏をベースにした優れた踊り手だ。ただし、その能力をほとんど封印して、演劇ともダンスともつかない、ユニークでしかしいま見るべきと思わせる上演を続けてきた。あえて共通点をあげるならば、捩子ぴじんの上演にはドキュメンタリーの要素が濃い。そして、そうした作家の傾向をあらかじめ了解したうえで見ると、本作もまさに出演する二人の、ダンサーとしての出自を問うところに重点を置いたものだった。捩子ぴじんと共演するYANCHI.は、ハウスダンス出身のダンサー。二人は横に並んで、舞踏とハウスダンスという別々のテクニックを交換し、それぞれが踊りのなかで両者を掛け合わせた。そこに生まれたのは、快楽要素の強い、しかし同時に奇妙きてれつな踊りだった。体内に宿してしまったエイリアンが自己主張を始めているかのように、外見上はハウスダンスを踊る捩子ぴじんの体には、舞踏的な痙攣的運動が顔を覗かせる。だからといって、二つのダンスがぶつかり合い、結果共倒れになるわけではない。奇妙な掛け合わせは、その奇妙さを残したまま、しっかりと進んでいった。そこには、シンプルにいって美しさがあった。ダンス的な快楽があった。その点において本作は他の上演を圧倒していた。とはいえ本作は「次代を担う振付家賞」の受賞を逃した。逃した理由というものがあるしたら、まさにその点においてだったのかもしれない。優れたダンスだった、それ故に、そのことの評価だけで片付けられてしまったかもしれないということだ。彼がいまコラボレーションしている作家がYANCHI.のほかにもう一人いる。韓国の振付家イム・ジエなのだが、彼女との作品制作とも関連するであろう捩子ぴじんの目下の関心に、出自の異なる者たちとの交流という事柄がある。本作でもそうしたコンセプチュアルな事柄を彼は扱っていたのだが、エステティックな側面、つまり快楽の要素が明瞭なために、コンセプチュアルな側面が弱まってしまった。ただ踊っている。多くの観客にはそう見えてしまったかもしれない。言い換えれば、コンセプチュアルな側面を明示するための編集作業が疎かだったのではないか。『no title』というタイトルに、それが示されているようにも思う。しかし、難しい。エステティクな快楽も悪くない。あんなに長い時間、あんな風に生き生きと踊っている捩子ぴじんが見られただけで、個人的には眼福だったのだ。


TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2014

2014/08/03(日)(木村覚)

プレビュー:黒沢美香『薔薇の人 deep』

会期:2014/08/27~2014/08/28, 2014/10/22~2014/10/23, 2014/12/26~2014/12/27

横浜市大倉山記念館[神奈川県]

ぼくが「コンテンポラリー・ダンス」なるものに興味と期待を抱いて、あちこちの小さな会場の公演に足しげく通うようになったのは、20世紀の末。そのころに、もっとも独創的で奇怪で、しかし、もっとも「ダンスなるもの」を感じられるような気がして友人と通っていたのが、黒沢美香の主催するこの大倉山記念館での公演だった。『偶然の果実』と言っただろうか、その公演では、狭い舞台空間に、横一文字に二人か三人のダンサーが並んで、即興のダンスを行なう。時折、音楽が流れたりもしただろうか、見所は、その即興の時間のなかに、ふとした具合で生まれる「はっ」とする瞬間。タイトルの如き「偶然の果実」が生まれるときを、じっと待つ。釣りに似て、すっかり釣果の上がらないときもあるし、なんだかすごく取れ高の良いときもあった。観客としてそんな「果実」が生まれるのをじっと待つ時間は、いま思うととても贅沢なものだった。そういう「つれない釣りも釣り」と思いながらつき合うみたいな余裕が、情報の急流に足を浸しつつ、なにも得られていないような気持ちになるいまこそ必要なのかもしれない。と、思い出話をしてしまいましたが、今作は『偶然の果実』ではなく『薔薇の人』の最新作です。これは黒沢がソロで踊るシリーズ、今回で17回目を数えるのだそう。これはともかく見なければならない上演です。10月と12月にも上演が予定されていますが、きっと、季節が変わるごとにぼくたちは大倉山に行かねばならないことになるでしょう。

2014/07/31(木)(木村覚)

Aokid city vol.4: cosmic scale

会期:2014/07/26

SHIBAURA HOUSE[東京都]

1年前の前作公演でも思ったのだが、「Aokid city」は〈劇場のフォーマット〉では表現することの難しい上演だ。Aokid(青木直介)が作・演出・出演する「Aokid city」は、ある環境に観客が入り込んだという設定で展開する。今回、タイトルにあるようにその場は宇宙。でも、リアルというよりファンタジックな空間で、サメの巨大な背びれが床を走ったり、そうかと思えば、トマトパスタが振る舞われたり、宇宙を表現するのに観客一人一人が構成体になってポーズを決めさせられたりと、ここにはあれこれの出来事が詰め込まれている。Aokidのダンスはヒップホップが基になっている。まるで路上で練習している状態そのままに(実際、そんな映像もありつつ)、ダンサーとシンガーらは円陣を組みながら、時折こちらに顔を向けて、歌いかけ、踊りかける。これを黒い壁に囲まれた劇場という場で上演しても息苦しくなるだけだろう、そんなことをずっと思っていた。前回同様、会場はSHIBAURA HOUSE。ここは壁の二面がガラス張りで、天井が高く、都会で室内なのに開放感があって、野外フェスのような気分になれる。フジロックで見たらさぞかし気分が良いだろう。ストーリーはほとんどなく、伝わってくるのはパフォーマー側が観客と「愛」や「情熱」を交換したいというシンプルな思い。こういうものも〈劇場のフォーマット〉に置いたら、ちぐはぐな感じになるだろう。最後のほうで、入場の際に観客の腕に貼った小さな丸形の絵(星)を客席を回って回収し、ダンサーたちはその星を黒いシートに貼り直して宙に掲げた。観客の星が散らばる宇宙。こういう素朴にも感じられるアイディアをベタに推し進めてでもその場を成立させてしまうのはAokidの真骨頂。Aokidには芸術と評すに値する方法がないなどと言い切るよりも、既存の枠からはみ出してしまう彼のような表現を愛し続ける方法をぼくらが持っているかどうかのほうが重要なのかもしれない。

2014/07/26(土)(木村覚)

大友良英、contact Gonzo「Tokyo Experimental Performance Archive」

会期:2014/07/18

スーパー・デラックス[東京都]

日本パフォーマンス/アート研究所(小沢康夫)が企画する新イベントの第一弾。これはインターネット上にアーカイヴすることを前提として行なわれる上演であり、現在存在する、価値あるパフォーマンス表現を未来へとつなぐための試みであるという。今後は、8/30に室伏鴻と伊東篤宏、9/23に山崎広太と恩田晃のパフォーマンスが予定されており、9/15にはアーカイヴをめぐるカンファレンスも予定されている。さて、今回は音楽家の大友良英、ダンスのcontact Gonzoの上演が行なわれた。両者のパフォーマンスは、当然のごとく素晴らしく、とくに大友の二台のターンテーブルを駆使した演奏は「音を出す」というシンプルな出来事に「人間のあらゆる営み」が表われているように感じられた。たんに審美的な価値ではなく、倫理的な問題や自然との共生への問いが、生半可な通念がはぎ取られた状態で、問いかけられている、そんな気持ちにさせられた。レコードの代わりにシンバルがターンテーブルに乗っている、そんなシンプルな入れ替えがされただけなのにどうして上記したような気持ちが喚起させられるのか、不思議だ。それゆえ、パフォーマーの力量を感じる演奏だった。contact Gonzoは三人のダンサーがこれでもかと互いの体を素手でぶん殴り続けた。その凄まじい音とうめき声が、撮影という特殊な機会に促されてのことなのか、いままで見たなかでもっとも凄惨だった。この凄惨さは、映像に残るのだろうか。そもそもどうすればそうした生々しさが残るのかという課題も含めて、この企画のトライアルは、映像の可能性をめぐっても議論を引き起こすことだろう。約8台ものビデオカメラがパフォーマーを囲んでいた。カメラはなにを映したのか。のちに生み出されるアーカイヴ化された映像を見なければ、この企画を十全に観賞したことにはなるまい。なるほど「一生懸命に練習して、踊れるようになった振り付けを披露する」というだけでは、上演としては不十分なのだ。そういう状況へと突入していることを、この企画は示唆しているのだろう。「上演することに意義がある」という発想では足りないのだ。上演をどう記録・保存し今後の環境につなげていくか、そこまでも含めて上演である、そう考える時代になりつつある、そう予感させられた。

2014/07/18(金)(木村覚)

神村恵「訪問者vol. 7」

会期:2014/07/16

SNAC[東京都]

SNACで連続公演していたこの「訪問者」シリーズを、ぼくは今回初めて見た。前回は田畑真希が担当したというのだが、今回は、畦地亜耶加が招かれ、神村恵の与える「指示書」に従ってパフォーマンスを遂行した。「指示書」は観客にも配られる。その最初には「X(エックス)は、身体の中にある何かである」と記されている。この「X」をダンサーが自由に設定しその後の指示を遂行する。指示は五つに分かれていて、たとえば「1」にはまず「Xを身体から掘り起こす」とあり、具体的には「3種類の動きによって身体を物質的に確かめる(持ち上げて落とす/引っ張って伸ばす/縮める)/これらの動きにはそれぞれ方向を持たせ、空間のどこかの点に差し向ける/動きはその都度Xに響かせるようにし、そのありかや感触を確かめる/Xに仮の名前を付け、その名前を呼ぶ」と書かれている。畦地はこれを舞台に置いて時折読んで確認しながら指示を実行していった。ぼくが見たときには「ゼリー」と畦地はXの名前を声に出して呼んだが、その行為も含めて、すべてを畦地は即興で行なったという(アフタートークでの畦地の発言に基づく)。数日前に見た篠田『機劇』でも、スコアが配られ、観客の目は舞台とスコアを行ったり来たりしていたのだけれど、その点で本作は『機劇』ととてもよく似ていた。たんに「神村が振り付けし、ダンサー畦地が踊る」というベタな公演ではなく、「神村の指示に畦地がどう応答したか」といったメタ・レヴェルを観賞する公演なのだ。だから、畦地の動作の審美性は観客にとって見所の一部でしかなく、むしろなぜそこで畦地はそう動いたのかと問うことこそ観客の楽しみとなる。「指示とはなにか」あるいは「指示されるとはどういう事態か」そうした問いも観客のうちに生まれるだろう。観客は、頭に浮かぶそうした数々の問いを、畦地の身体の状態を通して惹起させられる。その意味で、最大の謎は身体そのものだ。指示書は言語で書かれるが、それが実現される場(身体)のうえに言語ははっきりと現われない。このもどかしく、判読し難い身体とどうつき合っていくか。アフタートークで、複数の観客が「これは(観客に)見せるものになっているのか」と神村に質問をしていたことは示唆的だった。こうした上演を観客が楽しむ際の方法的錬磨はさらに求められるだろう。ただし、これはたんに習慣の問題でもあろう。こうした上演が当たり前になるならば、ダンスをメタ・レヴェルで観察し、楽しむ習慣が浸透するのも、案外そう遠くないのかもしれない。

2014/07/16(水)(木村覚)