2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

日本女子体育大学ダンス・プロデュース研究部:ぴちぴち ちゃぷちゃぷ らんらんらん'14「あらたな挑戦」(マチネ)

会期:2014/05/24~2014/05/25

アサヒ・アートスクエア[東京都]

11年前に発足した日本女子体育大学のダンス・プロデュース研究部。彼女らはかねてからコンテンポラリー・ダンスの旬な振付家を招聘し、在校生・卒業生がダンサーとして出演するための作品を委嘱してきた。今年は、(上演順に)川村美紀子『乙女のシンボル』、上野天志『Je me Souviens de toi』、鈴木ユキオ『Lay/ered』が上演された。こういう企画は面白い。作家本人による作品上演の場合よりも、作家の本質がはっきり見える気がするからだ。今回、鈴木ユキオの振り付けにとくにそれを感じた。以前ここで、小・中学生を振り付けた作品についてレビューしたことがあるけれど(『JUST KIDS(ジャスト・キッズ)』 )、そのときと同様、カンパニーのダンサーではない即席の学生グループに与えるが故のシンプルな振り付けは、鈴木のダンスの方法をわかりやすく示していた。舞台に登場するダンサーたちは、電車や街中で出会う若い女性の雰囲気が濃密に漂よっているのだが、そんな「ただの女の子」が、けいれんしたような引きつった動作を同時多発的に引き起こす。例えば、誰か巨大な存在に腕を掴まれて、強引にじわじわと引っ張られているように、ある女の子は腕を前に上げたまま、こちらに迫って来る。こうして日常が歪む。「ゾンビ」みたいではあるが、ゾンビの動きは記号的で単純なのに対して、こちらは予測不可能。身体内部に充填された未知のルールが世界を変貌させる。優れた振り付けとはそうした世界を変貌させる力をもつのだ。川村の作品は、ダンサーたちの等身大の性(欲)がテーマなのだが、告白調なのでむしろ「告白する自分を受け止めてほしい」という承認のメッセージを強く感じる。ダンサーの実存が語られるその意味で、ロマンチックバレエに相通じるものに映るが、観客は身の置き所がない。上野の作品は、「南仏を旅していたら地元のかわいい女の子に恋をした」みたいな印象を受けた。ピナ・バウシュの方法を踏襲しているように見える振りもあるのだけれど、美に対してあえて醜を対置するような、バウシュらしいコントラストはここにはなかった。リアリスティックな川村やファンタジックな上野と比べると、「歪む」と先に形容したような鈴木の試みに、この場を変容させる力をもっとも強く感じた。自家中毒的になったり、自己忘却的になったりするよりも、自己変容の機会を与えることが、ダンスの作品としての質という意味でも、学生たちに振り付けを与えるというダンスの教育的意義を考えるうえでも、重要なのではないかと思わされた。

2014/05/24(土)(木村覚)

クリウィムバアニー『ニューーーューーューー』

会期:2014/05/17~2014/05/18

シアタートラム[東京都]

売り文句が「300ぷんぶっとおし」だったものだから、よっしゃと12,000円の300分券を購入した。ただしこれ、「300分の公演」と受け取ることもできるが、四等分し「75分を1公演」としてチケット販売してもいるのだった(むしろ、実際はマジョリティはこれを買っただろう)。75分の最初の20分はシアタートラムの空間にあれこれと縁日の「店」みたいな、小さなアトラクションがありそれを楽しむようになっていて、残り時間が上演タイム。Open Reel Ensembleとの共作であることも手伝って、予想していたものよりずっと「ちゃんとした公演」だった。なにせ、前回シアタートラムで行なった『がムだムどムどム』は「遊覧型ぱふぉーまんす!」と銘打つだけあって、空想の公園のような空間に放り出された観客は散策路を伝い、あちこちで勝手に起きていることを歩きながら観察するというものだったから、今回はさらに濃密になって、徹底的にクリウィムバアニー・ワールドを体感することになるだろうと勘ぐっていた。なので、75分ワンパッケージを4回繰り返すだけなら、酔狂なファンが見たいだけ見たというだけのことになってしまうよと最初の75分が終わったとき、危惧したのだ。しかし、それは2回目以降、杞憂だったことがわかった。まず2回目で音楽が変わった。1回目の明るいOpen Reel Ensembleらしい色調が薄れ、ダークなニュアンスが濃くなった。すると、白シャツの清楚男子とキャミソールの女子の二組が、対立的に見えなくなって、その分、振付家・菅尾なぎさが伝えたいだろう、「女子の孤独感」や「見せたい欲求」や「そのことに飽きている感じ」や「クレイジーなユーモア」など、彼女の繊細な感覚が伝わりやすくなっていった。人間以下の動物のように、空間を徘徊し、見る者の欲求に応えるかわいい商品のごとく媚を売る彼女たちは、現今の社会が規定してくる女性らしさに囚われながら、囚われからの解放を希求するといったシンプルな結論に逃げ込めずに、囚われの快楽を味わいつつも憎悪を密かに蓄えているかのようだ。憎悪はときに、若干用意された椅子席にたまたますわった観客を「いけにえ」と呼んで、舞台に上げ、オブジェとしてさらす暴挙に出る。丸い舞台の周りを車の付いた台にのって、女の子(クリームちゃん)たちが周回すると、優雅だが、回転寿しにも見えてくる。実際、彼女たちから絞られた(ビーチチェアに寝そべる女の子の下からイクラの粒が製造されていたのだ)イクラが軍艦になって、宙を舞うなんて演出もあった。意外かもしれないが、「女子」を見つめるまなざしは関かおりのダンスに似ていた。ただし、ダンサーたちを身体の内部に至るまで造形する関に比べると、菅尾が振り付けた女の子たちは、振り付けと身体が分離して見える。だからこそ、ここでは疲労する身体それ自体が見るべきものになっているのだろう。3回目あたりの疲労がピークのクリームちゃんたちの倦怠が一番見応えあったが、4回目はほぼ1回目の内容と同じだったのがちょっと残念。300分見たひとにだけわかる大団円があったらよかったのに(筆者が気づかなかっただけか?)。

2014/05/18(日)(木村覚)

快快『へんしん(仮)』

会期:2014/05/09~2014/05/19

こまばアゴラ劇場[東京都]

篠田千明が在籍していた時期よりはそのトーンが抑えられているとはいえ、快快とは「つながり」の演劇を志向する劇団である。確かに、今作でも、上演前にお菓子が振る舞われたり、とくにぼくの見たのが子どもの観客を歓迎する回だったこともあって、子どもが舞台上の役者に話しかけたり、ものを放り投げたり投げ返したりするなど、客席と舞台とがインタラクティヴな関係を保っていたのは事実。けれども、舞台で展開されるお話は、そうした打ち解けた空気とはちょっと異質な、絶望や諦念がベースに漂うものだった。冒頭、女(大道寺梨乃)が語るのは、いまの自分に合った新しい洋服を買いたいとの思い、そしてそれが叶った直後に車に轢かれてしまったという話。次に男(山崎皓司)は、自分は同時にあらゆる存在であり得るのだと言い、しかも、床に水たまりをつくるおもらしをすれば、犬の遠吠えをはじめたりもする。タイトルの「へんしん(仮)」が暗示していると思われる、「変身の可能性」を無邪気に信じられないといった雰囲気が、細切れで連なったエピソードのなかから伝わってくる。何者にもなれるのが役者というものである。でも同時に役者は何者でもない。そんなメタ演劇的なメッセージも読みとれそうだ。ヴォードビルショーのような空間で、役者たちは踊ったり、コミカルなシーンをこしらえる。山崎が迫真の演技でゴリラになれば、観客は盛り上がる。自分たちが狙ったはずの変身の効果に、自分たちが戸惑ってしまう、そんなニュアンスが感じられると、どこまでも虚しさが消えない。変身は「死」を通過する。死を通過した再生。『りんご』という作品で取り上げられた「死」のテーマが、本作にも影を落としているように思われた。舞踏はこの死を通過する変身を扱ってきた。快快が死を通してつながる可能性を模索することもあるのだろうか。少なくとも彼らがいま触れているのは、そうした人間の暗黒部分ではないのか。

2014/05/11(日)(木村覚)

プレビュー:クリウィムバアニー『ニューーーューーューー』

会期:2014/05/17~2014/05/18

シアタートラム[東京都]

もう3年前になるのか、2011年に上演された『がムだムどムどム』は衝撃的だった。菅尾なぎさが主宰するクリウィムバアニーは、その前から、女性がとらえた女性的かわいさをむせかえるほど充満させた舞台で定評があったのだが、『がムだムどムどム』は「女の子たち」をいわばひとつの生物種として突き放しその生態を観察するといった作品で仰天させられた。日本のコンテンポラリーダンスには、ひとつの傾向として、エキセントリックな女の子=「不思議ちゃん」の生き様を見せるという特徴があった。ぼくはかつてから、その傾向には、踊り子と男性観客の疑似恋愛的関係が透けて見えるようで、その伝統的で保守的なところに問題を感じていた。菅尾のアプローチは、この傾向をなぞっているようで、それが徹底されることによって内破する不気味な力に満ちていた。なによりその「生態」を「観察」するといったつくりが凄かった。観客は、シアタートラムの会場につくられた公園のような、学校のような空間を遊歩する。あちこちで白い肌の女の子たちが生息していて、その肌を間近で眺めるともなく眺めながら、観客は音楽とともに突然始まるダンスタイムを待つのだ。いや、ダンスタイムはどこかこの上演のための口実みたいなもので、観客の喜びは「女の子たち」と一緒に時間を過ごすことそれ自体に向けられるのだ。新作『ニューーーューーューー』の会場は前作と同じくシアタートラム。それより気になるのはなんと上演時間が5時間(300分)ということ! こういうふざけた(=既成概念を無視する)上演を待ってました! これはきっと、上記したような徹底的な「生態」「観察」の作品となるに違いない。ぜひ、5時間チケットを購入して、「女の子たち」が生息する環境のなか、森林浴するみたいな気持ちで過ごしてみたいところだ。いっそそこで寝てしまいたい。寝ても覚めてもやっぱり「女の子たち」がいるって事態を体験してみたい。

2014/04/30(水)(木村覚)

かもめマシーン『ニューオーダー』

会期:2014/04/25~2014/04/29

北品川フリースペース楽間[東京都]

劇作家・萩原雄太が突然舞台で正座すると、役者たちは萩原に土を振りかけた。最後の場面がこれだった。「ああ、なるほど」と安堵のような気持ちに満たされた。本作の主題は「土地」。震災以後、これまで住んでいた土地を離れる者が少なからずいるなか、ここに生きていてよいのか、あるいはこの土地は本当に自分の生まれ死ぬ土地としてふさわしいのかと問わずにはいられない。そうした悶々とした思いが自分の内にあると、芝居が始まる前に萩原は舞台から客席に語りかけた。そして一言「これは僕のために上演する物語です」。つまり、最後の場面は、この最初の言葉にループしたわけだ。こうやって円環するまでの時間、要するに、芝居の中身はどんなだったかというと、暗澹たる話が続いた。アヤメとカホという姉妹がいて、カホは震災以後、住み慣れた土地を離れることにした一方、アヤメは離れなかった。しかし、アヤメは逡巡しており、バスターミナルで高速バスがあれこれの町へ旅立つのを眺めながら、時間を過ごしている。そこで猫がバスに轢かれてしまう。この猫はアヤメとカホがかつて二人の名にちなんで「アヤカ」と名づけた猫だ(時間がずいぶん経過しての再会だったから、野良猫を「アヤカ」と錯覚しただけかもしれない)。アヤメは猫を埋める場所を探す。町の公園にそんな土地はない。いや、奥の目立たぬところに丘があって、そこにアヤメは石で穴を掘りアヤカを埋めた。さて、最後の場面で萩原がかぶるのは、この猫を埋めるのに用いた土だった。彼は土だらけになったまま、「とてもよい土なので、とてもよい気持ちがします」みたいなことを口にした。この一言で、なんだか救われたような、妙だが「爽快な」気持ちにさえなった。暗澹たる話が語られてそのまま終わってしまったら、作家の不安や失望の念を観客はそこから読み取り、持ち帰るだけだっただろう。この上演が最後の場面を加えたことでさらに一層作家個人のために、ただただ彼の救済のために遂行された格好になったわけだが、そのことはかえって、見る者に納得する気持ちを与えていたように思う。演劇は何のためにあるのか? その答えは多様だ。萩原が「僕のためにある」と言い切ったことで、この上演は、とても独特なまとまりを宿した。土地を自分の土地と思うこと。この今日的難しさは、演劇を自分の演劇と思うことの今日的難しさともつながる。おそらくは、ぼくたちが共同体というものをどう獲得し、どう継続するかにかかっているのだろう。萩原が今回踏み出した一歩は、こうした大きな課題への一歩とも映る。

2014/04/28(月)(木村覚)

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