artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:大橋可也&ダンサーズ「ザ・ワールド・シーズン2」(『クラウデッド』、『ヘヴィメタル』)

会期:2015/03/20~2015/03/26

清澄白河周辺、江東区文化センターホール[東京都]

かつて大橋可也&ダンサーズが恵比寿のナディッフという書店で踊ったことがあった★1。書棚の通路を夢遊病者のように徘徊するダンサーたち。彼らの踊りは、日常と薄皮一枚隔ててそこにあった。ダンサーがいると気づかずに棚から目を離さない客もいた。そんな客には彼らは幽霊なのであり、そうやって見過ごされていればそのぶんだけ、うろつくダンサーたちの存在/不在が際立った。不思議な時間だった。今回、大橋可也は「散歩型」と称して、ナディッフでの試みをもっと広大なエリアで展開するようだ。場所は出発地点がSNACという指定があるだけ。かつて(10年ほど前か)「横浜ダンス界隈」という企画があった。横浜の街のあちこちに移動しながら、ビルの空きスペースなどでダンサーたちが踊るというものだ。あるいはやはりそのくらい前だったろうか、岸井大輔の企画で神村恵が駒場アゴラ劇場の周辺で踊るという上演もあった。観客を引き連れて街を劇場にしていくこうした試みはけっして多くないが、成功すると驚くほどのダイナミズムが生まれ、街がダンスが観客という存在がこれまでとまったく異なった相貌を見せるだろう。今回の大橋の試みに、ぼくはそんな認識の転倒が起きることを期待するし、ダンスが劇場から解放されるその解放感を堪能したい。

★1──「大橋可也&ダンサーズ「高橋恭司展『走幻』パフォーマンス」(木村覚)

2015/02/28(土)(木村覚)

岡崎藝術座『+51 アビアシオン, サンボルハ』

会期:2015/02/13~2015/02/20

STスポット[神奈川県]

役者が3人。聞いて、記憶して、すべての言葉を抱えて芝居の進行を追いかけるには多すぎる台詞。役者たちは、そんな台詞を口にしていきながら、観客の心に、ペルー、メキシコ、沖縄という街の景色を浮かび上がらせていく。役者たちがある感情を宿したキャラクターに扮し、その感情を闘わせるという(よくある)芝居ならば、理解はしやすい。しかし、神里雄大の書く台詞は、詩のようでもあり、ドラマのナレーションのようでもあり、とはいえそれらのどちらともいえない、語り手の身体的な熱も帯びていて、不思議な角度で観客に迫ってくる。「演劇を通じ、乳首を出した社会を見つめ」など詩のような言葉は、すぐには飲み込めず、だから「乳首」という言葉が異物として浮遊する。それと、場所やものの固有名が目立つ。「那覇」「久高島」「大宜味村」など場所の固有名は、「タブレット」「ダークスーツ」「チェーホフ」「失神」などの名詞とともに混ざりあい、独特の情景をつくり、心を満たす。話の大筋は、神里本人を連想させる主人公が「メキシコ演劇の父」と称された日本人・佐野碩と、夢幻的な仕方で沖縄で出会い、また金融業で財を成した神内良一のエピソードがペルーの地で語られるというもの。この三者の関連は、物語としては掴みにくく、またすべての舞台上の出来事を線で結ぶようなことはできそうにない。その点では難解だろうし、易しい芝居ではない。けれども、ストレートにずしんと言葉が届く感じがあって、この感じは見過ごせない。声を発するひとの言葉のリズム、ろれつに、聞き手として体を委ね、ついていく。ついていけなくなるところもあり、またそれもふくめて、声の主体に触れることを観客は促される。細かい台詞のなかの葛藤や社会や歴史の問題以上に、そのことにこの劇の倫理的側面を感じた。

2015/02/18(水)(木村覚)

篠田千明『The 5×5 Legged Stool──四つの機劇より』

会期:2015/02/13~2015/02/15

高架下スタジオSite-D 集会場[神奈川県]

昨年7月に上演された『機劇』Aプロの一部「ダンススコアからおこしてみる[譜面]」をリニューアルしたのが本作。もっとも大きな変更点は、映像にあった。この作品の趣向は、ダンサー福留麻里がアンナ・ハルプリンの「5 Legged Stool」という作品をひとりで演じるというもの。ひとりで五つのパートをどう演じるかというと、福留がひとつ目のパートを演じ終え、次に二つ目を演じる際に、ひとつ目の演技の内容が会場に設置してあるモニターに映されるという形式をとる。そうやって、ひとつのパートの演技が終わるたびにモニターでは映像が重ねられ、映像のなかでパートがひとつずつ増えてゆくというわけだ。舞台上の演技が映像によって編集され統合されていくという点に、篠田千明の独創的なアイディアは凝縮されているわけだが、初演の際には映像を重ねた結果福留の姿が映像内で薄くなってしまうという難点があった。ところが、今回は映像を重ねる代わりに、福留が映っている部分を周りから切り取るようにすることで、薄くなる傾向が改善されていた。福留が複数映ると画面の枠のなかが複数に切り分けられる。その映像自体新鮮で面白いのだけれど、それがたんに映像としてあるのではなく、舞台のなかにモニターとともに設置され、舞台表現の一部となっているところに、本作の最大の驚きがある。じつは、映像のなかの福留は、別撮りだ。別の場所で撮ったものであり、目の前の演技をその場で撮影し、即座に編集し、上映したというものではない。とはいえ、それでもその映像は、目の前で演技を行なう福留と響きあう。このことはなによりひとつの「福留麻里の身体」だからこそ与えられる共鳴だろう。時間の経過とともに「福留麻里の身体」は増殖する。複数のパートは、普通は異なる複数の人間によって演じられるわけだが、ここではひとつの「福留麻里の身体」がそれを実現させる。そのことは奇妙で、異常でさえあるのだけれど、しかしひとつの身体によってであるがゆえの統一感もあって、映像が生み出す演劇なるものに、今後起こりうる「未来の演劇」としての手応えを感じた。

2015/02/15(日)(木村覚)

セバスチャン・マティアス&チーム『study / groove space』

会期:2015/02/09~2015/02/10

横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]

冒頭2、3分、白いフラットな空間の壁に貼付けられたたくさんの資料を見てほしいと観客は促される。ドイツからやって来たダンサーたちはにこやかに観客に話しかける。少しずつ、さっきまで話しかけていたダンサーたちが動き出す。滑らかな動き。動きはたんなる動きではなくなって、次第にダンサーは観客一人一人に迫り、体の輪郭を模倣したり、観客と目を合わせようとする。観客が恐る恐る後ずさりすると、ダンサーはさらに追う。ここには客席と舞台という区別がない。ないので、観客はダンサーのプロップ(美術道具)となって、ダンスを動機づける。いや、おそらく観客を道具にするつもりではないのだろう。もっと民主的で対等な関係性が意図されているのだろう。翻って見れば、ダンサーの動作は観客に動機づけられているわけで、観客がダンサーを振り付けているともいえる。そうしてダンサーと観客との相互的なコミュニケーションが円滑に進んでいくことに、この上演の狙う理想的なラインがあるようではある。しかし、この場を生み出しているのは、相互の動きが次の動きをつくる具体的でときに熾烈なコミュニケーションというよりは、あくまでも「仮想された民主主義」とでもいうべきものではないか。観客は迫ってくるダンサーに微笑みつつとまどい、そして石になる。日本だったら、Abe "M"ARIAの即興ダンスでこうした状況がしばしば起こる。激しいアクションで(この点は彼らと違うのだけれど)観客席に乗り込み、観客にぶつかったり、観客の頭をかきむしったり、眼鏡を奪ったりする。そうしたコミュニケーションは、観客席と舞台の垣根を壊す快楽を引き出すものの、壊したところで、観客はダンサーのムチャブリに微笑みながら凍るほかない。例えば、ここでは、観客がAbe "M"ARIAになる可能性もAbe "M"ARIAが石になる可能性も与えられていない。それと同じ事態をぼくはここに見てしまった。つまり、ここではカンパニーの課すルール(政治)に、観客は従うほかない。それは観客席が取っ払われたという開放感を味わう余地なく、むしろそのときよりも強固に従属(いいひとであること)を求められる(観客席があれば、観客はダンサーから侵害されることなく自分の妄想のなかで自由でいられるし、凶暴にもなれる。妄想に浸る余地を奪われた観客は自由になる代わりにもっと根本的なルールに支配されることになる)。ぼくはあるダンサーがぼくににじり寄って来たときに、彼が行こうと望んでいるだろうコースをさりげなく塞ぎ、結果彼をマウントするような状態をとってみた。が、そんな弱々しい「テロリズム」も虚しい。「仮想的な民主主義」の主体になる以外の道は、この場では用意されていないと感じてしまう。そんなぼくは、この場に、南北問題あるいはヨーロッパ世界とイスラムの人々との関係などを透かし見ていたのだ。このダンスを受け容れることは、ヨーロッパ的な「仮想的な民主主義」を彼らをルーラーにした状態で受け容れるということなのではないか。こう問いを投げたら、チームたちから「いやいや、あなたが動けばダンサーたちもそれに従うのだから、あなただってこの場の主体だし、この場を作るひとりなのです、だからどうぞ踊ってください」なんて言われるかもしれない。そうなのかもしれない。そうやって、みんなで踊れば、社会は理想的な状態へと進むのかもしれない。いや、違う、そういう策略こそが、彼らの手口(と思うとき、ぼくは彼らというよりは彼らの背後にある秘められたイデオロギーを見つめている)なのだ、とぼくのなかの誰かが叫ぶ。

セバスチャン・マティアス&チーム『study / groove space』

振付・コンセプト=セバスチャン・マティアス
ダンス=リザン・グッドヒュー、アイザック・スペンサー、寺山春美
ドラマトゥルク=中島那奈子、ミラ・モシャルスキ

2015/02/10(火)(木村覚)

関かおり『マアモント』

会期:2015/02/09

横浜にぎわい座 のげシャーレ[神奈川県]

2010年に初演され、2012年のトヨタ コレオグラフィーアワードでは次代を担う振付家賞を獲得した『マアモント』。本作はその再演になる。白い舞台空間に現れるのは、白いダンサーたち。じっくりゆっくりとした動作は、ダンサーたちを見たことのない奇怪な動物に変容させる。振り付けを与えることでダンサーを人間ではないなにかに変えるという試みは、バレエにもモダン・ダンスにもあるいは舞踏にもあるし、伝統的な芸能にもあるものだ。それぞれの試みには異なるそれぞれの目的があり、それぞれ別種の達成を目指している。関の目的はなんだろう。たんなる記号としてのモンスターではなさそうだし、わかりやすい恐怖でも美しさでもないようだ。おそらくそれは、別種の生物の「気配」を出現させることなのではないか。気配は目に見えるものではない。見えるもののなかでただ察せられるものだろう。この「察知」の感覚を観客から引き出すこと。関がそこを目指していたとすれば、それは特異な芸術的挑戦であろう。数分のパフォーマンスが終わるたびに暗転し、再度照明がつくと別のパフォーマーがすでに動作をはじめている。それはまるで、珍獣を次々と「スライドショー」で観察しているかのようで、観客席も含めた劇場空間が博物学の教室になったのかと錯覚するような、不思議な感覚に襲われた。気配の出現のための緻密な努力はいかほどのものだろう。ただ、欲をいえば、もっと緻密であってほしかった。関の抱く美意識を想像するに、きっともっと到達したい高みがあるはずだ。すべてのダンサーからそのような気配を感じられたかというと、そうは言い切れない。目指すべきイメージと達成されたものとのギャップを感じてしまうこともあり、そういうときには、CGが高度に発達している現在、あえて人力で未知の生物を劇場に出現させる意味があるのかとつい思ってしまう。いや、そうではないのだろう、ダンサー(人間)こそが「気配」を生み出せる媒体なのだ。でも、本当にそうなのか、CGのクオリティーがダンサー(人間)を上回る日が来るのかもしれない。と、こういう対話がつい心のうちで起きてしまうのだが、ひょっとしたら、目指すべきイメージ(完成形)を見る側が推測してしまうから、CGとの比較なんてことも考えてしまうわけで、イメージを推測させないなにかを踊るのならば、そこをかいくぐれるのかもしれない。


マアモント:marmont - excerpt -

2015/02/09(月)(木村覚)