artscapeレビュー

「うらめしや~、冥土のみやげ」展──全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に

2015年10月01日号

会期:2015/07/22~2015/09/13

東京藝術大学大学美術館[東京都]

幽霊画を見せる展覧会。落語家の三遊亭圓朝が蒐集していた幽霊画を中心に、およそ150点が展示された。円山応挙をはじめ、曾我蕭白、河鍋暁斎、葛飾北斎、歌川国芳らによる恨み辛みの表現がなんとも凄まじい。会場の随所に灯籠を模した照明を設置したほか、客席の上の天井から蚊帳を吊り下げるなど、展示上のさまざまな工夫が幽霊画の迫力をよりいっそう倍増させていた。
とりわけ来場者の視線を集めていたのが、上村松園の《焔》である。長身の女の幽霊が髪の毛を噛みながら肩越しにこちらを見返している。膝下まで届かんばかりの長髪は、それ自体で怨念の深さを物語っているが、それが幽霊の足元とともに背景に溶け込んで消えているところが、見えないはずのものが見えてしまった幽霊の恐ろしさを効果的に表わしている。着物の柄に描かれた蜘蛛の巣ですら、この女の底知れぬ執着心を象徴しているようだ。
本展によれば、足のない幽霊という定型的なイメージをつくり出したのは、応挙である。実際松園の《焔》をはじめ、足が消えた幽霊のイメージは数多い。だが幽霊たちを次々と目撃していくなかで注目したのは、むしろ彼らの手。足がないことが、逆説的に手を饒舌にさせているのだろうか、幽霊の手はさまざまなメッセージを伝える豊かなメデイアであることを知った。
例えば谷文一の《燈台と幽霊》。描かれているのは、燈台の灯りに浮かび上がる年老いた女の幽霊。か細い右手は燈台の土台に触れているようだが、左手はちょうど画面の右端をつかんでいるように見えるのだ。肉体的には弱々しくとも、まさしく怨念の力で画面の向こうからこちらに身を乗り出して来るかのような迫力が感じられるのである。
一方、嶋村成観の《子抱き幽女図》は恐ろしい形相で赤ん坊を抱きかかえている幽霊の女を描いたもの。顔面は正視に耐えないほど醜いが、不思議と嫌悪感を催さないのは、赤ん坊を抱く彼女の手がじつにやさしいからだ。その手は明らかに包容力と慈愛に満ちており、手に限って言えば、幽霊というよりむしろ観音様に近い。幽霊であるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、赤ん坊を慈しむ情愛が痛いほど伝わってくるのである。怨念には恐ろしさだけでなく、ある種の切なさも含まれている。だからこそ「うらめしや」という言葉に、私たちはとても他人事とは思えない響きを聴き分けるのではないか。

2015/09/03(木)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00031819.json l 10115149

2015年10月01日号の
artscapeレビュー