artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

GUN 新潟に前衛があった頃

会期:2012/11/03~2013/01/14

新潟県立近代美術館[新潟県]

1967年に新潟県長岡市で結成され、その後も新潟県内を拠点にしながら活動を続けた前衛美術のグループ「GUN」の回顧展。美術家の前山忠と堀川紀夫らメンバーによる作品をはじめ、関係する美術家や美術評論家による作品や資料など、合わせて130点あまりが一挙に展示された。これまでにも、例えばトキ・アートスペースが「GUNの軌跡展」(2009)を催すなど、先行事例がなかったわけでないにせよ、本展は「GUN」の全貌を本格的に解き明かした画期的な展覧会である。
「GUN」の大きな特徴は、それが地方都市を拠点にしながらも、東京やニューヨークなど世界的な大都市の美術の動向と同期していたという点にある。ランド・アートやコンセプチュアル・アート、ポリティカル・アートなど、「GUN」の作品は絶えず変容していたが、そこにはたしかに60年代後半から70年代にかけての世界的な美術の流れが入り込んでいた。1964年に開館した日本で最初の現代美術館である長岡現代美術館の影響力は無視できないとはいえ、地方都市にいながらにしてこれだけの作品を制作していたことには驚きを隠せない。
なかでも代表的なのが、《雪のイメージを変えるイベント》(1970)である。十日町市に流れる信濃川の河川敷に降り積もった大雪原をキャンバスに見立て、農業用の噴霧器などで顔料をまき散らしながら絵を描いた。記録写真やそれらを編集したスライドショーを見ると、冷たい雪の上に広がる色彩の抽象画がじつに美しい。半裸の堀川が真っ赤に染まりながら雪に挑んでいるから、この作品はすぐれたランド・アートであると同時に、肉体パフォーマンスという一面もあったことがわかる。雪という無尽蔵にある素材を最大限に活用することで、世界的な文脈と接続しうる作品を制作したのである。
古今東西、芸術はつねに自然からの贈与によって成り立ってきたことを思えば、「GUN」の活動は自然と近い地方で制作している美術家にとって、ひとつの希望となるのではないか。「GUN」の由来は、「がーん」であり「眼」であり「癌」であり「gun(銃)」でもあったが、もしかしたらそこには「願」も含まれているのかもしれない。

2013/01/12(土)(福住廉)

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美術にぶるっ! ベストセレクション日本近代美術の100年

会期:2012/10/16~2013/01/14

東京国立近代美術館[東京都]

近代と現代は何がどうちがうのだろう? 長年気になっていた疑問が、この展覧会を見て少しだけ解けたような気がした。
本展は、同館が所蔵する美術品のなかから、日本の近代美術を中心に厳選して展示したもの。萬鉄五郎《裸体美人》や横山大観《生々流転》から和田三造《南風》や福沢一郎《牛》まで、日本の近代美術にとって欠かすことのできない名品が続く展示はたしかに圧巻だ。とりわけ川端龍子《草炎》は、群青色を背景に金色の草花を描いた、きわめてシンプルな屏風絵だが、その鮮やかな対比が美しいのはもちろん、まるで左方向に草花が行進していくような躍動感を感じさせるところがすばらしい。日本近代美術の底力をまざまざと見せつけた展観である。
しかし、戦後の現代になると様相が徐々に変わってくる。物が描かれなくなる代わりに、コンセプトが重視されるようになるのである。そのような転換をていねいに解説する仕掛けがあれば、理解のための努力も惜しまなかったのかもしれない。だが、それが欠落しているばかりか、珠玉の近代を目の当たりにした直後では、なおさら薄ら寒い印象しか残らない。いったい、「現代」は私たちに何をもたらしたというのだろう?
そして、何よりの疑問が、そのようなコンセプチュアルな傾向を「現代美術」の末端に位置づけている反面、1950年代に焦点を当てた「実験場1950s」を「第二部」として外在化している点だ。いわゆる「肉体絵画」やルポルタージュ絵画、雑誌「暮しの手帖」、デザイン、写真などの豊かな成果を考えれば、この「実験場1950s」こそ、本来は「第一部」のなかに組み込まれなければならない。それをわざわざ傍流に外し、コンセプチュアル・アートを主流に含める展示構成に、いったいどんな根拠があるのか、まったく理解に苦しむ。
近代美術に「ぶるっ」としたことはまちがいない。だが、現代美術の貧しさが私たちの背中に冷たい汗を落としたこともまた事実である。次の100年を歩むには、現代美術の歴史を本格的にオーバーホールすることから始めるべきだろう。

2013/01/09(水)(福住廉)

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007スカイフォール

会期:2012/12/01

日劇[東京都]

アクション映画の敵役といえば、冷戦時代ならソ連、その後はイスラム諸国や中国、そしてロシアなど、いずれにせよアメリカを中心とした覇権的な構造から導き出されることが多かった。ところが、「007」シリーズの最新作に登場する敵は、MI6の元エージェント。組織に忠誠を誓って奉仕してきたにもかかわらず、組織に裏切られ、復讐の鬼と化してMI6を恐怖と危機に陥れる。いわば身から出た錆だが、そのような敵対性のありようが、外部に敵を対象化することのできない今日の複雑な政治的リアリティーと同期していたように思えた。ラビリンスのような上海や退廃的で甘美なマカオなどの映像はたしかに美しい。しかし、この映画の醍醐味は、その映像美も含めて映画の全編に漂っている、言いようのない哀愁感である。それが、時代の趨勢から取り残されつつあるボンドやMの衰退に起因していることはまちがいない。だが同時に、敵を内側に抱え込まざるをえない私たちの悲哀にも由来していたのではないだろうか。

2013/01/01(火)(福住廉)

ポコラート全国公募展vol.3 アール・ブリュット? アウトサイダー・アート? ポコラート!福祉×表現×美術×魂

会期:2012/12/14~2013/01/20

3331 Arts Chiyoda[東京都]

「ポコラート」とは、Place of “Core+Relation” Art を意味する造語で、障がいのある人と障がいのない人、そしてアーティストが出会う場として考えられている。3回目となる本展では、1,300点あまりの応募作のなかから厳選された214点の作品を展示した。
会場を一巡してみて感じるのは、空間に満ち溢れたエネルギーの凄まじさ。すべての作品と向き合うと体力を消耗するほど、一つひとつの作品からは得体の知れない何かが放たれている。それは外向的な存在感というより、むしろ内向的な磁力と言うべきもので、それらが錯綜することで磁場が乱れていたように見えた。
刺繍の作品が数多く出品されていたが、その内実はじつに千差万別だ。緻密なステッチによって図像を描くものがあれば、ストロークがやたらに大きい大作もある。いわゆる「刺繍作品」として括ることが難しいほど、さまざまなベクトルが入り乱れていたのである。
なかでもひときわ目を引きつけられたのが、金崎将司の《百万年》。灰色の物体が転がっているが、よく見ると断面には幾重にも層が折り重なっている。随所に文字らしき痕跡が見えるから、きっと雑誌や広告などを堆積させたのだろう。聞くと、それらから切り取った図像を水糊で貼り合わせていき、時折サンドペーパーで表面を削り取るのだという。その単純明快な手作業を反復することで、ぺらぺらの紙片を立体にまで仕上げた迫力! この他に類例を見ない造形の力があってこそ、障がいのある人とない人、そしてアーティストを出会わせることができるのだろう。
「ポコラート」は生まれてまだ日が浅い。それを流行のキーワードとして消費させないためには、たえず新しい出会いに挑んでいくほかない。そのためにはまず、私たちが内面化してしまっている「美術」のフレームをあえて外す意欲が必要である。「はだかの眼」がなければ、新たな出会いは期待できないからだ。その難しさを楽しむ知恵を磨きたい。

2012/12/28(金)(福住廉)

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黄金町バザール2012

会期:2012/10/19~2012/12/16

黄金町周辺[神奈川県]

5回目を迎えた黄金町バザール。横浜の黄金町・日の出町界隈のスタジオや旧店舗を舞台に、33組のアーティストによる作品が展示された。2008年以来持続してきたせいか、今回の作品はモノとしての作品があれば、コトとしての作品もあり、観客参加型やプロジェクト型など、以前にも増して作品のバラエティが豊かになっていた。
たとえば近年独自のアニメーション映像を精力的に発表している照沼敦朗は、アニメと同じ薄暗い色合いで空間じたいを塗りあげ、同じ街並みを描きこんだうえで、その壁面のひとつにアニメーション映像をプロジェクターで投影した。ふつう映像を見る場合、映像のこちら側とあちら側ははっきりと分断されているが、照沼はその境界線をあえて溶かしあわすことで、映像の世界に没入するような感覚を巧みに引き出していた。
一方、照沼とは対照的にシンプルな空間をつくったのが、中谷ミチコだ。浮き彫りとしてのレリーフではなく、彫りこんだ内側に着色する「沈み彫り」(村田真)の作風で知られるが、今回も会場に入ると白い壁面に動物を描いた作品があった。もともとある壁に直接彫ったのかと思ったら、壁面全体に白い壁を仮設したうえでいくつかの図像を彫り込んだようだ。かつて違法風俗店が軒を連ねていた猥雑な街並みとは明確に一線を画して、白い空間を徹底してつくりあげた潔さが気持ちいい。
さらに中谷とはちがい、黄金町の街に正面から介入したのが、太湯雅晴である。自らに与えられた展示会場を、その近辺で働く日雇い労働者の男性に宿泊場所として提供し、ここにいたるまでの経緯を記録した映像もあわせて発表した。じっさい、会場の一角には彼が寝泊まりする仮設小屋が設置されていた。社会から切り離しがちなアートという領域を、あえて社会に向けて開き、その生々しいダイナミズムを持ち込もうとする志は、高い。ただ、太湯が「ホームレス」に声をかけている映像を見ると、宿泊場所の住人として当初「日雇い労働者」ではなく「ホームレス」を想定していたことがわかるが、その趣旨を説明するときに用いる「アート」「作品」「展示」という言葉が、彼らにはことごとく通じていないのが一目瞭然となっている。社会に直接的に介入しているにもかかわらず、アートと社会の隔たりが際立つという逆説があらわになっていたのである。
アートに社会を持ち込むだけでなく、社会にアートを持ちかけること。太湯の作品は、社会に介入するアートにとって今後乗り越えるべき課題を、じつに明快に提示したといえるだろう。そして、これは黄金町バザールをはじめ、全国各地のアートプロジェクトが考えるべき問題でもある。

2012/12/15(土)(福住廉)