artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

混浴温泉世界2012

会期:2012/10/06~2012/12/02

別府市内各所[大分県]

大分県別府市で催されている国際展の2回目。「混浴」というフレーズに示されているように、現代アートをはじめ、ダンス、音楽、パフォーマンスなど、さまざまなジャンルをミックスした国際展で、温泉街や商店街、空き店舗、海岸の埠頭などに作品が展示された。
小沢剛が作品を展示したのは、別府のランドマークである「別府タワー」。もともと常設されている「アサヒビール」という電光掲示板の文字を任意に明滅させることで、「アサル(焼いた/スペイン語)」や「サール(公会堂の/フランス語)」など、世界各国の言語を次々と表示した。留学生をはじめ、多くの外国人が居住する別府の国際都市としての性格がよくわかる。その明滅にあわせながら単語を唄い上げた合唱団のパフォーマンスも、まるで別府タワーが擬人化されたようで、おもしろかった。
とりわけ印象に残ったのは、旧ストリップ劇場を舞台にした「永久別府劇場」。毎週末に大友良英や東野祥子など気鋭のアーティストが先鋭的なパフォーマンスを見せたが、ひときわ観客の度肝を抜いたのが、「The NOBEBO」による金粉ショー。全身に金粉を塗布した男女3人が、妖艶かつ恐ろしい身体表現を存分に見せつけた。皮膚呼吸が難しいからなのだろうか、身体からは尋常ではないほどの汗が滴り落ち、激しいアクションのたびに飛び散る汗に観客席は大きくどよめいた。ショーの斎藤さん「撮影タイム」が設けられていた点も、芸が細かい。
現代アートと大衆演芸の協演。そのような国際展がグローバルなコンテンポラリー・アートの規準から大きく逸脱していることは疑いない。けれども、逆に言えば、そのような特異な国際展だからこそ、凡庸なコンテンポラリー・アートには到底望めない魅力が生じていたこともまた事実である。日本という極東の島国で国際展を催す意義があるとすれば、それは本展や、越後妻有の「大地の芸術祭」のように、ローカリズムというより、もっと直接的にいえば「ガラパゴス化」を徹底的に追究するという方向の先にしかないのではないか。

2012/11/20(火)(福住廉)

絵はがきの別府展

会期:2012/11/13~2012/11/27

P3/BEP.lab(旧草本商店2階)[大分県]

大分県の別府市で行なわれている国際展「混浴温泉世界」は、じつは「別府アートマンス」というより大きな枠組みのなかに位置づけられている。これは市民による総合芸術祭で、現代アートのみならず、工芸、陶芸、書、ダンス、音楽など、さまざまな芸術ジャンルのイベントが、「混浴温泉世界」の会期に合わせて連続的かつ同時多発的に催されるのだ。
「混浴温泉世界」の作品を探して街をうろうろ歩いていると、いたるところで不意に小さな展覧会に出くわすほど、おびただしい。小規模な文化事業とはいえ、これだけ充実させている点は、横浜や妻有、愛知、神戸、瀬戸内などの国際展都市には見られない、別府ならではの大きな特徴である。
この展覧会もそのひとつ。観光都市・別府の絵はがきを、街中の共同浴場の上にある旧公民館で一挙に展示した。絵はがきに用いられた写真には、巨大な旅客船や砂風呂、外国人など、いずれも往時を偲ばせる図像が小さなフレームの中に収められている。なかでも港に停泊した巨大な旅客船の真下で砂風呂を楽しむ観光客を写した写真は、一瞬合成かと疑ってしまったほど、別府のセールスポイントを凝縮して構成されていて、その気迫と工夫がおもしろい。
別府の栄華を物語る絵はがきの数々を、その勢いを失ってしまった空間で見るという経験。その時間と空間の圧倒的なギャップに目眩がするが、「混浴温泉世界」とは異なるさまざまな水準が設けられ、いろいろな角度から別府に想像力を働かせることができるようになっているところに、アートの大きな意味を見た。

2012/11/20(火)(福住廉)

みちのく鬼めぐり

会期:2012/10/06~2012/12/02

東北歴史博物館[宮城県]

鬼についての展覧会。日本酒の「鬼ごろし」にはじまり、鬼の仮面、鬼を描いた錦絵、鬼にまつわる神社、地名、名所など、とにかく東北各地を中心に鬼のイメージを一挙に展示した。昨年、神奈川県立歴史博物館が「天狗」についての充実した展覧会を催したが、それに匹敵するほど見応えのある展覧会である。
鬼といえば、酒呑童子や邪鬼のように人間にとって邪悪な妖怪として理解されているが、本展に陳列された数々の鬼を見ると、必ずしも悪の存在とは限らないことがよくわかる。水不足に悩む村の上流でせき止められていた川の水を鬼が開通させたという伝説が残されているように、鬼はむしろ神に近い存在でもあった。つまり、鬼とは人間社会の周縁に広がる異界に住まう両義的な存在であり、そのことによってこの世の暮らしを合理的に機能させる神話的な存在でもあった。
かつて土門拳は、写真家の意図を超えた偶然性が写真に映りこむ事態を指して「鬼が手伝った」と言い表わした。このように鬼は神話的な存在として実在的に生きているというより、むしろ私たち自身が鬼を生かしながら私たちの暮らしをうまい具合に成立させているのである。山奥の空間的な周縁というより、日常生活の周縁のなかで生かしていると言ってもいい。
鬼が商品のなかに埋没しつつある現在、それを再び暮らしの周縁に取り出し、鬼をうまく生かす知恵を磨くことができれば、経済的な豊かさとは別の水準で、暮らしをより豊かにすることができるのではないだろうか。そのとき、アートはどんなかたちで関わることができるのか。

2012/11/16(金)(福住廉)

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志賀理江子 螺旋海岸

会期:2012/11/07~2013/01/14

せんだいメディアテーク[宮城県]

「北釜」を歩いた。
仙台駅から仙台空港駅まで鉄道で30分弱。駅のロータリーから延びる道に沿って海に向かう。ひしゃげた欄干の橋を渡ると、目前に現われたのはだだっ広い平原。神社と一軒の民家以外、何もなかった。乾いた雑草と、せわしなく往来するダンプカーの光景からすると、まるで荒涼とした埋立地のような印象だが、いたるところに残された剥き出しの基礎が、この街を壊滅させたすさまじい破壊力を物語っている。平原のなかにポツンと立つ一軒の民家は、奇跡的に破壊から免れたのだろうかと思って近寄ってみると、健在なのは2階だけで、1階は大半の壁が打ち破られ、数本の大黒柱が辛うじて2階を支えていた。
軽い丘を超えた松林のなかに志賀理江子のアトリエ跡があった。海風にあおられて陸のほうを向いた松林や硬い砂浜の上に転がった松ぼっくり。薄い雲の隙間から夕陽が差し込んでくる。護岸工事のために奮闘しているショベルカーの駆動音が聞こえなければ、とても現実とは思えないほど、荒涼とした光景である。まるで志賀理江子の写真そのものではないか。
そのとき、ふと気がついた。そうか、志賀理江子の写真は幻想的で非現実的な構成写真だと思っていたが、その構成と演出は、虚構の世界を構築するというより、むしろ現実社会のなかの幻想性を極端に強調したものだったのだ。此方と彼方を明瞭に区別しているわけではなく、此方が内蔵する彼方を引き出していたのだ。彼女の写真に描かれる死の世界が恐ろしいのは、それがいずれ訪れる死の光景を予見させるからというより、それが私たちの内側にすでに広がっていることを目の当たりにさせるからだ。そして何よりも恐ろしいのは、そのような写真をつくり出す志賀理江子の眼差しである。いったい、どんな世界を見ているというのだろう。そこに戦慄を覚えながらも、その視線が生み出す新たなイメージに、よりいっそうの期待を抱かずには入られない。

2012/11/16(金)(福住廉)

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坂田和實の40年 古道具、その行き先

会期:2012/10/03~2012/11/25

渋谷区立松濤美術館[東京都]

古道具坂田の店主・坂田和實の展覧会。坂田が収集してきた古今東西の古道具150点あまりを一挙に展示した。古道具といって侮るなかれ。一点一点の造形は、並大抵の現代アートを蹴散らすほどの迫力がある。
野良着や質屋の包み紙、水中メガネ、ブリキの玩具。雑巾があれば伊万里の小椀もあり、仮面や聖者像もある。いずれも古色蒼然としているが、いずれも味わい深く、なおかつ美しい。この展覧会のもっとも大きな特徴は、展示された造形が、文字どおりひとつも漏れなく、すべておもしろいという点である。これほどの珠玉をそろえた展覧会は珍しい。
例えば長剣のような造形物が屹立しているのでどこかの国の武器だろうと思ったが、キャプションを見るとコンゴの鉄通貨とある。ナイジェリアの鉄通貨も展示されていたから、アフリカには両手で抱えるほど大きな通貨が流通していたのだろうかと想像が膨らむ。
民俗学的な関心だけではない。出品作品のうち頻出していた図像はキリスト像だったが、その表現形態は木彫や金属、刺繍などさまざま。同じ図像だからだろうか、細密であったり簡素であったり、表現手段のちがいも際立っておもしろい。
しかも特筆すべきは、こうした造形物がいずれも無名性にもとづいているという点である。これだけ名もない人びとによる創意工夫の数々を目の当たりにすると、有名性を志向する「作品」のなんと浅薄なことだろうと思わずにはいられない。限界芸術の魅力が古今東西にわたって脈々と受け継がれてきたことを実証する画期的な展覧会である。
ただ唯一の難点は、一部の展示の仕方と図録のすべての写真に、中途半端な「アート」の色がつけられていたこと。ボロ雑巾をあえて「絵画」のように見せたり、図録の写真をすべてホンマタカシに一任することで造形の生々しさを根こそぎ「脱色」したり、造形の迫力を伝えるはずの美術館がそれをみずから損なってしまっていたのは理解に苦しむ。そんな小細工をせずとも、造形そのものが語りかける声に耳を澄ませばよいのだ。

2012/11/14(水)(福住廉)