artscapeレビュー
吉村芳生 超絶技巧を超えて
2019年01月15日号
会期:2018/11/23~2019/01/20
東京ステーションギャラリー[東京都]
吉村芳生のまさに「超絶技巧」の極致というべき画業の数々を見ていて、思い起こしたのは高橋由一(1828~1894)のことである。
言うまでもなく、高橋由一は幕末から明治初期にかけての西洋画のパイオニアのひとりであり、日本の近代絵画の成立に決定的な役割を果たした。その由一にとって、写真と絵画との区別はほとんどなかったのではないだろうか。彼は、友人から借りた石版画があまりにもリアルであることに驚き、西洋画の習得を志すのだが、もしそれが写真であったとしても同じように反応したに違いない。由一は写真を下絵にした絵を何枚も描いているし、横山松三郎撮影の写真印画に油彩で着色を施している。つまり、由一の《鮭》や《なまり節》の油彩画は、まさに「写真よりも写真らしい絵画」をめざして描かれていたのではないだろうか。
吉村芳生の絵画作品にも同じことを感じる。「写真的なリアルさ」を極限まで肥大化させ、写真そのものをペンや色鉛筆で克明に写し取っていくことによって、写真と絵画の境界線は次第に溶け合い、写真でも絵画でもない奇妙な眺めが出現してくる。高橋由一の油彩画が、どれもリアルだが魔術的としか言いようのない物狂おしさを感じさせるように、吉村の巨大な花や新聞紙に描かれた自画像にもまた、写実を超えた“魂”が宿るようになる。高橋由一以来の写真と絵画の交流の歴史の成果が、吉村の画業に突然変異のように出現し、恐るべき厚みと密度で展開していくことに、何度も驚嘆の目を見張るしかなかった。
特に興味深く見たのは、1970年代後半~80年代に制作された「河原」「ROAD」「SCENE」などと題されたモノクロームの作品である。これらは白黒写真をグリッド状に区画し、その濃淡をそのまま引き写すことによって制作されたものだが、あたかも「アレ・ブレ・ボケ」のプリントのように見える。そのモチーフも佇まいも中平卓馬の『プロヴォーク』時代の作品とそっくりなこれらの作品を見ると、吉村がまさに同時代の空気感に鋭敏に反応していたことが伝わってくる。
2018/12/18(火)(飯沢耕太郎)