artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
橋口譲二写真展 Individual─日本と日本人
会期:2017/11/06~2017/12/20
写大ギャラリー[東京都]
橋口譲二は1987年から、のちに「日本人シリーズ」と呼ばれるようになる写真を撮影し始めた。全国各地の17歳の男女を撮影した『十七歳の地図』(文藝春秋、1988)を皮切りに、『Father』(同、1990)、『Couple』(同、1992)、『職 1991-1995 Work』(メディアファクトリー、1996)、『夢』(同、1997)と、次々に写真集として刊行されたこのシリーズは、橋口の代表作というだけでなく1980~90年代のドキュメンタリー写真の方向性を指し示す記念碑的な大作となった。
今回の写大ギャラリーでの展覧会は、5部作が一堂に会した初めての展示の試みだという。それらを通観すると、橋口がこのシリーズを通じて何を目指していたのかが、あらためてくっきりと浮かび上がってくる。まず目につくのは、テーマ設定の鮮やかさと、それを実際に形にしていくプロセスの細やかさである。例えば、パートナーとして人生を歩んでいるカップルを撮影した『Couple』の場合、結婚はしていないということが前提となっている。さらに男女のカップルだけではなく、ゲイのカップルも被写体として登場してくる。『職 1991-1995 Work』では、その職業について間もない新人と、何十年もその仕事を続けてきたベテランとが対比される。さらに、撮影する場所を注意深く選択しているだけでなく、同時に行なわれるインタビューでの質問も練り上げられている。今回の展示では、「今日の朝食」というすべての作品に共通する質問の答えしか読むことができなかったのだが、その内容も毎回微妙に変えている。
そのような細やかな配慮によって浮かび上がってくるのは、いうまでもなくこの時期の「日本と日本人」の、リアルな手触り感を備えた実像である。6×7センチ判、あるいは4×5インチ判のモノクローム写真は、ややノスタルジックなほどに「あの頃」の空気感を呼び起こす。そのことをきちんと確認できてよかった。むろん、いま「日本人シリーズ」を再構築しようとするなら、まったく別の方法論が模索されるべきだろう。それでも、この橋口の労作は、まさに「個」としての日本人のあり方を探求する営みの、原点に位置づけられるべき作品といえる。
2017/11/16(木)(飯沢耕太郎)
鈴木安一郎「原生林から来たきのこたち」
会期:2017/11/01~2017/11/25
さんしんギャラリー 善[静岡県]
きのこに対しては並々ならぬ愛着があるのだが、「きのこの写真」については以前から不満があった。どうしても図鑑的に情報を満遍なく伝えようという傾向が強く、表現としての面白味に欠けるところがあると思えていたのだ。だが、静岡県三島市のさんしんギャラリー 善で開催された鈴木安一郎の個展を見て、「きのこ写真」にも新たな流れができつつあるのではないかと感じた。
静岡県御殿場市在住の鈴木は、平面作品を中心に制作するアーティストだが、きのこ愛好家、研究家としてもよく知られた存在である。近年は、富士山麓の森をテリトリーとして、さまざまなきのこをテーマにした作品を発表し続けている。今回の展覧会には、森のきのこを「普通に」撮影した作品のほか、色のついた紙をバックにきのこたちをクローズアップでカメラにおさめ、大きくプリントしたシリーズと、夜にきのこをライトで照らし出して撮影したシリーズが出品されていた。
そのなかでも、特に「夜のきのこ」のシリーズが素晴らしい。森の深い闇を背景に浮かび上がるホコリタケやドクツルタケやムラサキフウセンタケの姿は幻想的で、不思議な生きものがうごめいているように見える。きのこが本来備えている魔術的な妖しさが、ありありと浮かび上がってきていた。このシリーズは、ぜひ写真集としてもまとめてほしいものだ。きのこはそれ自体があまり大きくないし、光線の状態がよくない場所に生えていることが多いので、写真の被写体としてはけっこう難しい。だが、撮り方、見せ方の工夫次第では、もっといろいろな魅力を引き出すことができそうだ。
2017/11/12(日)(飯沢耕太郎)
六田知弘「記憶のかけら Shards of Memory」
会期:2017/11/03~2017/12/02
知半庵[静岡県]
静岡県・大仁の知半庵は、江戸後期に建造された菅沼家の住宅を改築したユニークな展示スペースである。国登録の有形文化財に指定されている建物と、その周囲の環境を活かして、2007年から不定期的に「知半アートプロジェクト」の催しが開催されている。その第8回目にあたる今回、初めて写真作品の展示が実現した。
奈良県出身の六田(むだ)知弘は、ロマネスク美術などの撮影で知られる写真家だが、今回は屋内で東日本大震災の被災地で撮影した「モノの記憶」のシリーズを、野外では国内外の石の写真による「イシの記憶」のシリーズを展示している。カラー写真の「モノの記憶」は1.1×1.5メートルに大きく引き伸ばされたボロボロの本の写真をはじめとして、津波によって「非日常」のオブジェと化したさまざまなモノたちが、写真家の視点と呼応するように床に散りばめられていた。一方、「イシの記憶」は、トタン板やアクリル板にプリントされたモノクロームの石の写真が、裏庭の樹木に掛けられたり、地面に置かれたりして展示されている。こちらはむしろ目に馴染んだ「日常」の眺めが、あるべき場所から切り離されることで異化されていた。その「非日常」と「日常」を行き来する体験が、家族の記憶が畳み込まれた知半庵の空間で増幅され、観客に心地よい波動として伝わってきた。
これまで、音楽やパフォーマンスの上演を中心に企画されてきた「知半アートプロジェクト」に、写真という新たな要素が加わったのは、とてもよかったと思う。やや行きにくい場所ではあるが、一見の価値がある。次回の企画も楽しみだ。
2017/11/12(日)(飯沢耕太郎)
鈴木ノア「道化の森が眠る頃」
会期:2017/11/07~2017/11/19
プラチナ・プリント、サイアノタイプ、ゴム印画法といった、いわゆる「古典技法」に対する関心が高まりつつある。いうまでもなく、その背景にあるのは、デジタル化によって撮影やプリントのプロセスが簡略化されたことに飽き足らなく思っている人が増えているということだろう。さまざまな手法を使って、銀塩写真をクオリティの高い画像に置き換える「古典技法」は、手間はかかるが、出来上がった時の喜びは大きく、しかもデジタル写真では難しい深みや手触り感のある作品を得ることができる。今回の、東京・小伝馬町のギャラリー、Roonee247で個展を開催した鈴木ノアもそのひとりで、彼女が使っているのは、日本では大正~昭和初期に流行したブロムオイル印画法だ。
ブロマイド印画紙の画像をいったん漂白して、レリーフ状になった画面に、絵具を筆で叩きつけるようにして付けていくこの技法は、相当高度なテクニックが必要だが、鈴木はほぼ完璧にその技術を習得している。とすると、次に必要なのは、どうしてもクラッシックな雰囲気になりがちなブロムオイル作品を、なぜいま制作しなければならないかという動機づけをもっと明確にし、「何をどう見せるのか」をさらに絞り込んでいくことだろう。今回展示された17点のなかでは、水面に波紋が広がる場面や、カラスを写しこんだ作品に、不可思議な「道化の森」を立ち上げようとする、独自の視点と切り口が備わっているように感じた。そのあたりをさらに深く探求して、よりスケールの大きな作品世界をつくり上げていってほしい。ブロムオイル印画法では、かなり大きな作品をつくるのも可能なはずなので、サイズをもっと大きくしてみることも考えてよいかもしれない。
2017/11/08(水)(飯沢耕太郎)
「鏡と穴─彫刻と写真の界面 Vol.5 石原友明」
会期:2017/10/28~2017/12/02
gallery αM[東京都]
光田ゆりのキュレーションによる連続展「鏡と穴─彫刻と写真の界面」も5回目を迎えた。これまではギャラリーの空間全体を使ったインスタレーション的な展示が多かったのだが、今回の石原友明展では、壁面に平面作品が、床には立体作品が整然と並んでいる。だが内容的には、写真と彫刻という異質なメディアの結びつき方がスリリングで、かなり面白い展示が実現していた。
石原は1980年代からセルフポートレート作品を繰り返し発表してきたが、今回もそのテーマを追求している。「透明な幽霊の複合体」(5点)は、自分の髪の毛をスキャニングし、キャンバスに紫外線硬化樹脂インクで拡大プリントした作品で、その質感の、グロテスクなほどの生々しさがただごとではない。一方、立体作品の「I.S.M」(2点)は「3Dプリンターを使った立体セルフポートレート」で、発泡スチロールを貼り重ねて、彼の身体の輪切りを再構築している。もうひとつ、「透明な幽霊の複合体」の制作過程の副産物というべき、皺くちゃにした髪の毛の画像のプリントを、広げてアクリルケースに収めた作品があり、こちらも銀塩写真の印画紙そのものの物質感がうまく活かされていた。
石原はもともと写真と現代美術の融合を推し進めてきた先駆者というべきアーティストのひとりである。その彼がいまなお写真に並々ならぬ関心を寄せ、「断片化されたからだを寄せ集めてひとつの体を作りだそうとする」ことに執着し続けているのがとても興味深い。その探求の作業は、これから先も多様な作品群として結実していくのではないだろうか。
2017/11/08(水)(飯沢耕太郎)