artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

田代一倫「ウルルンド」

会期:2017/09/05~2017/09/24

photographers’ gallery/ KULA PHOTO GALLERY[東京都]

田代一倫は2013年に東日本大震災の被災地域を中心に撮影したポートレートの写真集『はまゆりの頃に 三陸・福島2011~2013年』(里山社)を刊行した。丁寧に向き合って撮影した「肖像写真453点と覚え書き」で構成されたこの写真集は、「震災後の写真」のあり方を模索した成果として高い評価を受けた。田代にとって、このシリーズの次のかたちを見出すことは簡単ではなかったのではないかと想像できる。その後photographers’ galleryで、韓国で撮影したポートレートの展覧会を3回ほど開催するなど、試行錯誤が続いていた。だが、今回の「ウルルンド」を見ると、少しずつその輪郭が定まりつつあるように見える。
「ウルルンド」=鬱陵島は竹島(独島)のすぐ西に位置する島で、日韓の領土問題にからめて言及されることが多い。だが、田代のアプローチはそのような政治的な文脈はひとまず括弧に入れ、『はまゆりの頃に』と同様に、被写体となる人物に正対し、「写される」ことを意識させてシャッターを切っている。結果的に、前作と同様に人物とその背景となる環境が絶妙のバランスで捉えられているのだが、シリーズ全体にそこはかとなく漂う緊張感が、これまでとは違った手触りを生じさせている。これから先は、より「人々の暮らしや立ち居振る舞い」に対する感覚を研ぎ澄まし、竹島(独島)や対岸の日本/韓国をよりくっきりと浮かび上がらせる工夫が必要になりそうだ。福岡出身の田代にとって、韓国との距離感はかなり近いものであるはずだ。そのあたりを意識して、もっと強く打ち出していってほしい。

2017/09/08(金)(飯沢耕太郎)

田淵三菜「FOREST」

会期:2017/09/08~2017/09/26

Bギャラリー[東京都]

田淵三菜は、2016年に第2回入江泰吉記念写真賞を受賞し、写真集『into the forest』を刊行した。2012年、23歳の時から北軽井沢の森の中の山小屋に移り住み、1年間かけて、ひと月ごとに驚くべき勢いで変化していく森の姿を捉えきったそのシリーズは、新たな自然写真の可能性を指し示す鮮やかなデビュー作となった。今回の新宿・Bギャラリーでの展示では、森の落ち葉をそのままガラスケースに詰め込んだインスタレーションなどとともに、「それ以後」の彼女の写真の展開を見ることができた。
田淵はいまもなお北軽井沢で暮らしているが、その生活のかたちは少しずつ変わりつつある。2年前からは、難病のパーキンソン病を患っている父も同居するようになった。そのためもあって、森そのものよりはその周辺にカメラを向けることが多くなってきている。今回の「FOREST」のシリーズは、北軽井沢の住人たちや訪ねてきた友人たち、父が同居するために改装工事が進行中の山小屋、森で出会った犬たちなどが前面に出ることで、圧倒的な自然と向き合っていた前作とは異なる、「ひと」の気配が濃厚なシリーズとして成立していた。
その変化を、むしろポジティブに捉えるべきだろう。彼女にとっての「森の生活」がこれから先どんなふうになっていくのかはわからないが、山小屋という拠点を中心として、さまざまな生き物たちが織りなす小宇宙を、あくまでも等身大の視点で見つめ続けるという視点は揺るぎのないものがある。前作と今回の展示とを合体した、もう一回り大きな「FOREST」のシリーズも視野に入ってきそうな気もする。

2017/09/08(金)(飯沢耕太郎)

第6回EMON AWARDグランプリ受賞作 大坪晶展

会期:2017/08/18~2017/09/09

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

毎年開催されるEMON AWARDのグランプリ受賞者は、EMON PHOTO GALLERYで個展を開催する権利を得る。大坪晶はその第6回目の受賞者で、今回は受賞作の「Portrait and Crowd」のシリーズのほかに、新作の「Portrait of Women」、「種の起源/On the Origin of Species」、そして立体作品の「Collective Memories of a Family─ある家族の集合的記憶」を展示していた。
大坪の作品は、パネルに大量の画像を貼り付けたコラージュ作品である。一見すると、ただのポートレートのようだが、細部に目を凝らすと、それらが豆粒のように小さな群衆の集合写真でつくられていることがわかる。「無数の見知らぬ人々の記憶のつらなり」と「作者の個人的系譜」が重なり合う「Portrait and Crowd」のシリーズは、コンセプトと技術とが完璧に融合した質の高い作品群だった。今回発表された新作の「Portrait of Women」では、その試みをより社会性、歴史性のほうへ押し広げて、樋口一葉、平塚らいてう、ヴァージニア・ウルフという、ほぼ同時代に生きた3人の女性作家、活動家のポートレートをテーマに大作にチャレンジしている。
たしかに、「政治性や社会性について考察するケーススタディ」として面白い試みなのだが、以前の作品に見られた写真そのものの生々しい物質感が希薄になっているので、どこか平板な印象を受ける。第二次世界大戦に従軍した祖父の記憶を辿る「種の起源/On the Origin of Species」や、顔の形の立体にコラージュした「Collective Memories of a Family─ある家族の集合的記憶」のほうが、写真の使用については積極的であり、よりダイナミックな構造を備えた作品として成立していた。このままだと、写真をもとにコラージュすることの意味が、薄れていってしまうのではないだろうか。

2017/08/31(木)(飯沢耕太郎)

志賀理江子 ブラインドデート

会期:2017/06/10~2017/09/03

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

今回の展示の中心になる「ブラインドデート」は、2009年の夏にタイのバンコクで撮影された作品だ。展覧会の準備のためにバンコクに滞在していた志賀理江子は、二人乗りのバイクに乗るカップルの女性たちが自分に向ける強い「眼差し」に興味を持ち、それらを「集めてみたい」と考える。知り合ったタイ人の女の子とそのボーイフレンドに協力してもらって、ひたすら夜の街でバイクに同乗するカップルに声をかけ、車で併走しながら写真を撮り続けた。
そのうち「背後から目隠しをして走り続け心中した」というような事件があったのではないかという「妄想」が湧きあがってきた。調べると実際にはそんな事件はなかったようなのだが、それをきっかけとして「目が見えない」というのはどんなことなのかと考えるようになる。タイでは生まれつき全盲のカップルのポートレートも撮影した。その時に盲目の女性が語った、世界中のすべての宗教の生死についての解釈が「私には当てはまらない気がするのです」という言葉に衝撃を受ける。写真家として、視覚に強くかかわる仕事をしている彼女にとって、まったく異質な世界があることに気づいたのだ。
だが今回の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での展示は、その「ブラインドデート」のシリーズだけに留まるものではない。会場には21台のスライドプロジェクターが並び、さまざまな画像が壁に投影されている。その多くは2012年にせんだいメディアテークで開催された「螺旋海岸」展以降に撮影されたものだ。プロジェクターが画像を送る時の機械音、点滅する赤い光、会場の奥の一角には、臨月の時にエコー検査で録音したという心臓音が響いてくる。さらに最後のパートの壁には長文のメッセージが掲げられている。彼女が今回の展示でもくろんだのは、単に写真を見せるだけではなく、視覚、聴覚、触覚など身体感覚のすべてを動員し、映像も言葉も一体化するような全身的な体験を、観客とともに味わうことだったのだ。
そこから浮かび上がってくる、今回の展示のメインテーマというべきものは「弔い」と「歌」である。志賀は展覧会開催にあたって「もしも、この世に宗教もお葬式という儀式も存在しないとしたら、大切な人が亡くなった時、あなたはどのようにその方を弔いますか?」という問いに対する答えを、アンケートのかたちで募集した。その回答の一部は会場の最後のパートに掲げられているのだが、そのなかに「思い出す、思い出す、思い出す、思い出す、飽きるまで」というものがあった。この死者を「思い出す」ことこそが、写真という表現行為の根幹にあるという考え方が、展示の全体に貫かれている。
もうひとつの「歌」については、まだ明確なイメージは掴み切れていないようだ。だが、いまはまだおぼろげではあるが、もしかすると、歓び、哀しみ、怒りなどを体現した「歌」を求め続けることが、彼女の写真家としての営みの中心になっていくのではないかという予感が僕にはある。東日本大震災以後に、2008年以来住みついていた宮城県名取市北釜を離れ、結婚、出産を経て、いまは宮城県小牛田で制作活動を展開している彼女の「次」の展開が、しっかりと形をとりつつある。

2017/08/20(日)(飯沢耕太郎)

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七菜乃「My Aesthetic Feeling」

会期:2017/08/11~2017/08/20

神保町画廊[東京都]

主にヌードやコスプレで撮影される「特殊モデル」として活動していた七菜乃(なななの)は、2015年ごろから撮る側に回るようになった。神保町画廊で最初に開催した個展「裸体というドレス」(2015)では、「セルフヌード」作品を展示したのだが、次の「私の女神たち」(2016)では、ほかの女性モデルたちにもカメラを向けるようになった。今回の神保町画廊での個展「My Aesthetic Feeling」でも、前回に続いて「集団ヌード」の撮影にチャレンジしている。
今回は「裸は単に裸で、もともと裸体に特別な意味はない。ただ私の美意識がそこにあるだけ」ということを表現したかったというが、たしかに、都内のスタジオで11人のモデルたちをヌードで撮影した写真には、気負いのない、自然体の撮影の仕方が貫かれている。窓からの自然光で浮かび上がる室内の空気感はまったりとしていて、ことさらにポーズをつけない、あるがままの「裸」のあり方がとてもうまく定着されていた。デジタルのほか、フィルムやチェキでも撮影しているが、その淡い色味や粒子の感触もしっかりと使いこなしている。そう考えると、モデルとして「撮られる」側の心理や身体の置きどころを心得ているということは、「撮る」立場になった時には、かなり有利に働くのではないだろうか。いまの方向を突き詰めていくことで、日本ではあまり例の見ない、複数の裸体が互いに反響していくような「集団ヌード」の可能性が、もっといろいろな形で拓けていくのではないかと思う。次の展開も楽しみだし、このシリーズはぜひ写真集にまとめてほしい。

2017/08/18(金)(飯沢耕太郎)