artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
深瀬昌久「救いようのないエゴイスト」
会期:2015/05/29~2015/08/14
DIESEL ART GALLERY[東京都]
深瀬昌久は2012年に78歳で亡くなった。1992年に事故で倒れて以来、ずっと療養生活を送っていたのだが、ついに社会復帰はかなわなかったのだ。その間、深瀬の作品の管理は「深瀬昌久エステート」がおこなってきたが、複雑な事情を抱えて機能不全に陥っていたため、展覧会や写真集の出版などの活動も途絶えがちになっていた。深瀬の没後、遺族の元にネガとプリントがいったん返却されることになり、準備期間を経て、その管理団体としてあらためて発足したのが「合同会社深瀬昌久アーカイブス」である。今回、東京・渋谷のDIESEL ARTGALLERYで開催された「救いようのないエゴイスト」展は、そのお披露目として開催されたものだ。
展示は「屠」(1963年)、「烏・夢遊飛行」(1980年)、「家族」(1971年~89年)、「私景」(1990~91年)、「ブクブク」(1991年)、「猫」(1974~90年)の6部構成、82点。代表作だけでなく、カラー多重露光による「烏」シリーズの異色作「烏・夢遊飛行」や、のびやかなカメラワークが楽しめる「猫」など、ほぼ未発表の作品も並んでいる。今回の展示のタイトルである「救いようのないエゴイスト」というのは、「アーカイブス」のメンバーでもある深瀬の元夫人、深瀬洋子(現姓は三好)が『カメラ毎日』別冊『写真家100人 顔と作品』(1973年)に書いたエッセイに由来する。だが逆に「エゴイスト」に徹することで、ここまで凄みのある作品に到達できたことがよくわかった。
「深瀬昌久アーカイブス」は、今後展示活動だけでなく、出版なども積極的におこなっていくという。今回の展示にあわせて、SUPER LABOから写真集『屠』が、roshin booksから猫の写真集『Wonderful Days』が刊行された。海外での展示も、今年のアルル国際写真フェスティバル、来年のテート・モダンでのグループ展参加などが決まっている。深瀬昌久の作品世界が、若い世代を含めて、より大きな広がりを持って受け入れられていくことを期待したい。
2015/06/17(水)(飯沢耕太郎)
古い写真を通して台湾を知る 台湾の懐かしい風景と人々の生活 1930s~1970s
会期:2015/06/13~2015/08/12
台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター[東京都]
台湾には1990年代にかなり頻繁に足を運んでいた。展覧会に付随したレクチャーやシンポジウムに参加することも多く、何人かの写真家やキュレーターと知り合った。その度に感じたのは、日本とのかかわりが深く、文化的にも共通性が多いにもかかわらず、写真表現のあり方にはかなりの違いがあるということだった。
今回、東京・虎ノ門の台湾文化センターで開催された「古い写真を通して台湾を知る」展は、写真史家の簡永彬がキュレーションして、2014年に国立台湾美術館で開催された「看見的時代」展を元にしている。もっとも、台湾写真の1940年代から70年代までを500点近い作品でふりかえる国立台湾美術館の展示と比較すると、今回の東京展は数10点規模であり、ダイジェスト版ということになる。それでも、1930年代の営業写真館の勃興期、40年代に「三剣客(三銃士)」と称された張才、 南光、李鳴 の活躍、50年代のリアリズム写真とサロン写真の対立、そして写真家としての存在の根拠を問い直す、60年代以降の張照堂ら若手写真家たちの台頭など、台湾写真史の要点を押えて紹介していた。ここでも、「写実攝影(リアリズム写真)」という言葉の範囲が、台湾では日本よりかなり幅が広いことなど、日本との微妙なずれが目についた。
6月15日に開催されたトークライブにもパネラーとして参加したのだが、そこでの金子隆一の発言が興味深かった。政治的な圧力への抵抗や、東京中心の写真ジャーナリズムとの微妙な距離感など、台湾の写真と戦後の沖縄の写真とは共通性があるというのだ。たしかに台湾でも沖縄でも、戦前・戦後に日本(東京)で写真を学んだ写真家たちが指導的な位置に立ち、より若い世代が民族的なアイデンティティを主張して新たなスタイルを模索するということがあった。日本、韓国、中国(大陸)を中心とした東アジアの写真史を、台湾や沖縄のようなファクターを導入することで、細やかに組み換えていかなければならないということだろう。
2015/06/15(月)(飯沢耕太郎)
赤鹿麻耶「ぴょんぴょんプロジェクト vol.1 Did you sleep well?」
会期:2015/06/05~2015/06/14
松の湯2階[東京都]
2011年度の「写真新世紀」でグランプリを受賞し、翌年ビジュアルアーツフォトアワード受賞作『風を食べる』(発売=赤々舎)を刊行した赤鹿麻耶が、新たなプロジェクトを始動した。
不穏な空気感を醸し出していた前作の勢いを受け継ぎつつ、「笑い」をともなったパフォーマンスの要素をより強化している。起点となる「イメージ」は、「誰しもが目にするモノや風景」からヒントを得ているという。たとえば「コンビニのソフトクリームだったり、おばさんのゴミ出しの様子だったり」なのだが、それをそのまま再現するのではなく、一ひねり半くらいねじって、過剰な身振りで身近な友人たちに演じさせる。同じ人物が何度か登場してくるので、もはや「赤鹿劇団」と呼びたくなるほどだ。
ただ、パフォーマンスの内容があまりにも支離滅裂なのと、着地点が曖昧なので、どうしてももどかしさがつきまとってしまう。『風を食べる』と比較すると、人物やモノをかなり近い距離でストロボを焚いて撮影しているものが多く、画面処理が単調なのも気になる。もう少しテーマ性、ストーリー性をくっきりと打ち出してもいいと思うし、中心場面から外れた場所で起こっている出来事も取り入れていく余裕もほしい。展示と同時に上映されていた無題の映像作品(コント風の場面がアトランダムにつながる)の方に、むしろ可能性を感じた。今のところ写真作品のメイキング的な扱いだが、こちらが主役になる形も考えられそうだ。
特筆すべきなのは会場設定のユニークさで、営業中の銭湯の2階スペースを、とてもうまく使いこなしていた。写真を床に敷き詰めたり、浴槽に浮かべたりするトリッキーなインスタレーションにまったく違和感がないのが、大阪出身の赤鹿の持ち味というべきだろう。なお、本展は4月24日~30日には大阪市生野区の「桃谷の空き地」で開催された。展示場所へのこだわりも、さらに突き詰めていってほしいものだ。
2015/06/12(金)(飯沢耕太郎)
新納翔「築地0景」
会期:2015/06/09~2015/06/27
ふげん社[東京都]
新納翔は1982年、横浜生まれ。早稲田大学中退後、2009~10年にGallery Niepceのメンバーとして、本格的に写真制作活動をスタートさせた。前作の東京・山谷を7年かけて撮影した「Another Side」(2012年にLibro Arteから写真集として刊行)もそうだったのだが、新納は徹底して「内側からの視点」にこだわり続ける写真家だ。今回、東京・築地のギャラリーと書店とカフェが合体した「コミュニケーションギャラリー」ふげん社に展示された新作の「築地0景」でも、警備会社のガードマンとして勤務しながら、メインテーマである築地市場を撮影し続けたのだという。
愚直といえば愚直なドキュメンタリーの手法だが、結果として、とてもユニークな感触を備えた作品として結実したのではないかと思う。市場内のモノたちに寄り添うように撮影することで、普通は「見えない」それらの細部がありありと浮かび上がってくる。それだけでなく、商品や人がめまぐるしく動き回っているはずの高度資本主義経済のメカニズムが、むしろ冷ややかな距離感で捉えられているのが興味深かった。
いうまでもなく、築地市場は2016年中には豊洲に移転することになっている。いま写し出されている眺めは、近い将来には「失われたもの」になるわけだ。新納が、そのことを踏まえて撮影を続けているのは間違いないだろう。ぜひ移転後も撮影を続けて、いったん「0」に戻った市場の景色が、どんなふうに変質しつつ次の時間を刻んでいくのか、過去・現在・未来を包摂したシリーズとして成長していくことを期待したい。
2015/06/09(火)(飯沢耕太郎)
鈴木崇「Form-Philia」
会期:2015/05/29~2015/07/12
IMA Gallery[東京都]
2014年8月~9月の「これからの写真」展(愛知県美術館)に出品された鈴木崇の「BAU」は、なかなか面白いシリーズだった。カラフルなスポンジを重ねて、さまざまな「構築物」を作るというコンセプトが鮮やかに決まっており、作品自体のサイズを小さめにしたのも成功していた。鈴木はアメリカのアート・インスティテュート・オブ・ボストンを卒業し、ドイツ・デュッセルドルフの芸術アカデミーではトーマス・ルフに学び、トーマス・シュトルートのアシスタントをするという華麗な経歴の持ち主だが、正統的な「ベッヒャー派」の作風からはやや逸脱した、軽やかで「カワイイ」たたずまいが、むしろ新鮮に感じられた。
その鈴木の新作を見ることができるというので、期待して個展の会場に足を運んだのだが、いささかがっかりさせられた。今回は「BAU」以外に、影をテーマにした「ARCA」、新作の「Fictum」のシリーズが展示されていたのだが、どちらも「悪くはない」レベルに留まっている。特に、京都を中心に日本の都市の光景を断片化して切り取り、3面~5面のマルチ・イメージとして並置した「Fictum」は、発想、仕上げともに既視感を拭えない。日本の都市環境を、瓦屋根のような伝統的な素材と近代的な素材とのアマルガム(混合物)として捉える視点が使い古されているだけでなく、その並置の仕方に工夫が感じられなかった。疑いなく、一級品の才能なのだから、それにさらに磨きをかけていってほしいものだ。
2015/06/07(日)(飯沢耕太郎)