artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
グレート・ザ・歌舞伎町写真展
会期:2015/07/25~2015/08/12
Bギャラリー/トーキョーカルチャートby ビームス[東京都]
何年か前から、「グレート・ザ・歌舞伎町」という真面目なのかふざけているのかよくわからない名前を、雑誌等で見かけるようになった。クリアーな切り口の、面白い写真が多いので気になっていたのだが、今回の展覧会でようやく彼が何者なのか、その全貌が見えてきた気がした。新宿・Bギャラリーでは、200点余りのプリントが壁にびっしり並び、原宿・トーキョーカルチャートby ビームスでは、大判プリントを中心の展示だった。それとともに、バイブルっぽい装丁の全432ページの写真集『グレート・ザ・歌舞伎町写真集』(デザイン・町口景)も刊行されている。
見ながら感嘆したのは、被写体をキャッチするアンテナの幅の広さと感度のよさ、そして抜群の行動力と編集能力だ。皇居の一般参賀、全身入れ墨の男女の集会、ネバダ州のイベント「バーニングマン」、ダライ・ラマ法王、反原発デモ、富士山、靖国神社、原発事故現場、北朝鮮のマスゲーム等々、次々に目の前で繰り広げられる場面を見ていると、現代社会のパノラマをめざましい速度で見せられている気分になってくる。「ワシが面白いと思った場所に行って、会いたいと思った人に会って、撮る」というストレートな思いが貫かれていて、「見たい」、「見せたい」という欲求が、空転することなく撮るエネルギーに転化しているのだ。
見ていて思い出したのは、篠山紀信の『晴れた日』(平凡社、1975年)である。篠山が1974年5月~10月に『アサヒグラフ』に連載したシリーズをまとめたこの写真集と同様に、「グレート・ザ・歌舞伎町」の作品からも、時代を見尽くしてやろうという疾走感が気持ちよく伝わってくる。雑誌メディアの勢いがなくなっているにもかかわらず、あえてプライヴェート・フォト・ジャーナリズムの原点回帰という難しい仕事にチャレンジしている心意気にワクワクさせられた。
2015/07/27(月)(飯沢耕太郎)
インベカヲリ★「誰かのためではなく」
会期:2015/07/24~2015/08/09
神保町画廊[東京都]
インベカヲリ★の東京・神田の神保町画廊での展示は、新作、旧作とりまぜて22点。それぞれの写真にタイトル(あるいはキャプション)がついている。今回の新作でいえば、「目が見えないから何でも口に入れちゃう怪獣」、「私は普通の人です、普通になりたい普通の人です」、「ハイソサエティは息がしやすい」、「誰かのためでなく」という具合だ。だがこれらの言葉が、写真の内容とどのように関係しているのかは、ぱっと見ただけではわからない。
たとえば、展示ケースのようなものの中にオールヌードの女の子が入っている写真には、「目が見えないから何でも口に入れちゃう怪獣」というタイトルがついている。こういうタイトルは、インベとモデルの女性たちとの話し合いを経て決まっていくようだ。インベ自身の手記「わたしを撮ってください 自分を見失った女性たち」(『新潮45』2015年8月号)によれば、彼女の撮影は「話を聞く」ことから始まる。「写真は被写体にとっても「表現手段」だから、写真を通して語りたいことがあるだろうし、日常生活で抑圧されている何かがあるから表現衝動が起きるのだろうと思う。そうした動機を質問しながら引き出していくことが、撮影をする上で必要な過程になる」というのだ。その結果として、「ちゃんとしよう」という意識に囚われ、感情を抑圧している女性は「水の入った容器に一人ポツンととどまっている」姿で撮影され、「雨に住む人」というタイトルが与えられた。また「赤い水」というタイトルの作品は、少女時代を母子寮で過ごし、「毎日、母親から赤い水をぶっかけられてるみたい」と感じていた女性のポートレートだ。
このような、それぞれの写真の背後の潜んでいるストーリーは、タイトルで暗示されているだけなので、ストレートに観客に届いてこない。たしかに、あまりにもバックグラウンドを語り過ぎると、写真を見る時の想像力が固定されてしまうということになりかねない。だが、逆に今のままでは、インベとモデルたちとの共同制作のプロセスの、スリリングな面白さが抜け落ちてしまう。そのあたりを微妙にコントロールしつつ、最終的な写真と言葉の関係のあり方を構築していってほしいものだ。
2015/07/24(金)(飯沢耕太郎)
瀬戸正人「瀬戸家1941-2015──バンコク ハノイ 福島」
会期:2015/07/14~2015/07/27
新宿ニコンサロン[東京都]
家庭アルバムは写真家の自己表現をめざすものではないゆえに、逆に撮ることの原点を指し示し、写真本来の輝きを刻みつけることがある。ただ、今回瀬戸正人が新宿ニコンサロンで開催した「瀬戸家」展は、その中でもやや特異なありようを呈していると思う。というのは、「瀬戸家」の来歴そのものが、普通の日本人の家庭アルバムにはおさまりきれないものだからだ。
瀬戸正人の父、武治は1941年に会津若松の写真館で撮影した記念写真を残して出征し、上海、ベトナム、ラオス、タイと転戦して終戦を迎える。ところが、引揚げの機会を失って、タイ国ウドンターニ市に留まり、当地でハノイから来たベトナム人の女性、ジンと結婚して写真館を経営するようになる。1953年、トオイ(日本名、正人)が誕生。1962年になって、ようやく故郷の福島県梁川町(現伊達市)に帰郷することができた。
つまり、日本の戦前から戦後にかけての歴史と社会状況を、あまり例のない角度から照らし出しているのが「瀬戸家」に残された写真群であり、それらのスナップ写真、記念写真には、その断面図が重層的に畳み込まれているのだ。今回の展示では、小さい写真をスキャニングして大きく引き伸ばし、実物と一緒に並べていた。写真の表面の傷や染み、印画紙の凹凸までくっきりと浮かび上がることで、実物以上の物質感を体験できるのが興味深い。そのことによって、タイ、ベトナム、日本の時空が入り混じり、行き交うような、カオス的といえる展示空間が成立していた。
会場には、福島やハノイで撮影した瀬戸自身の「作品」も展示されていたのだが、今回はむしろ「瀬戸家」のアルバムだけで構成した方がよかったような気もする。「作品」はまた別の物語を呼び起こしてしまうからだ。
2015/07/20(月)(飯沢耕太郎)
黒田菜月「ファンシー・フライト」
会期:2015/07/13~2015/08/08
東塔堂[東京都]
2013年に第8回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞し、翌年個展「けはいをひめてる」を開催した黒田菜月。2014年には吉開菜央監督の映画『ほったまるびより』の撮影現場の写真をおさめた写真集『その家のはなし』を刊行するなど、順調にキャリアを伸ばしている。今回の東京・渋谷の東塔堂での展示では、彼女の日常の場面に眼差しの触手を伸ばしていく感覚が、繊細に研ぎ澄まされ、より深く対象の奥へと届いてきていることがしっかりと伝わってきた。
黒田は、展覧会にあわせて刊行された同名の写真集にこんなことを書いている。
「からだを通りこころで受け止めるものや、こころで感じていることの身体への現れには、飛躍がある。それは、夢のチェンジのような無差別なものではなく、どこかにその人自身の因果が隠れ潜んでいる。」
このような「飛躍」の感触は、写真を撮り続ける中で少しずつ育っていったのだろう。「からだ」と「こころ」のズレは、うっとうしさや居心地の悪さにもつながるが、ほのかな、だが心ときめくエロスを呼び起こす元にもなっていきそうな気がする。今回展示されたシリーズでは、ウサギやヤギなどの動物、若い女性を撮影したポートレートなどにそれをはっきりと感じることができた。今はむしろ、その「飛躍」をより積極的に拡大していくべきではないだろうか。写真家としても、一皮むけて、新たな方向に一歩踏み出していく時期に来ているように思える。
2015/07/20(月)(飯沢耕太郎)
鈴木理策「意識の流れ」
会期:2015/07/18~2015/09/23
東京オペラシティアートギャラリー[東京都]
2015年2月1日~5月31日に丸亀市猪熊源一郎美術館で開催された鈴木理策「意識の流れ」展が東京オペラシティアートギャラリーに巡回してきた。同展のカタログにおさめられた倉石信乃との対談「写真という経験の為に」で、倉石の「鈴木さんはわりと、経験主義者なわけですよね」という問いかけに対して、鈴木は「はい、とても」と答えている。だが、この場合の「経験」というのは、微妙なバイアスがかかった概念だと思う。
ひとつには、今回の展示作品のテーマとなる熊野(鈴木の故郷でもある)の自然や祭礼を、直接的ではなく、あくまでも写真を通じて「経験」しているということだ。むしろ、現実と写真との間のズレこそが鈴木の最大の関心のひとつになる。同カタログに「人間の目とカメラの目には必ずズレが生じるという事実は、私が写真に魅かれる最大の理由である」と書いている。もうひとつは、あくまでも自分の個人的な「経験」にこだわりつつも、それを狭隘な「経験主義」に封印することなく、より広く開いていこうとする態度が見られることだ。鈴木の写真を見ていると、むしろ彼自身の眼差しや身体性が消え去り、より普遍的な、人類学的とすらいいたくなるような「経験」が姿をあらわすように思えてくる。
それにしても、鈴木の写真作品の展示には、ある程度以上の大きさを持つ器が必要になるのではないだろうか。今回は「海と山のあいだ」の連作を中心に、「水鏡/Water Mirror」「White」「SAKURA」「 tude」の5作品、約150点が並んでいたのだが、プリントを「見せる」ことを作品発表の基本と考える彼にとって、作品をインスタレーションする環境のあり方が大事な要素となることがよくわかった。全体にバランスのとれた展示だったが、むしろそのバランスを突き崩す仕事、近作の花のシリーズ「 tude」(2010~14年)や動画作品「The Other Side of the Mirror」(2014年)などに、この写真作家が止まらずに動き続けていることが、くっきりとあらわれてきている。さらなる「経験」の広がり、深まりが期待できそうだ。
2015/07/17(金)(飯沢耕太郎)