artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
仙台写真月間2015
会期:2015/09/01~2015/10/04
毎年、秋に仙台のいくつかのギャラリーを舞台に展開されている「仙台写真月間」。今回は酒井佑、花輪奈穂、阿部明子、小岩勉、佐々木薫、今泉勤、野寺亜季子、伊東卓の9人が参加した。たまたま9月の第一週に写真コンテストの審査で仙台に行く仕事があるので、ほぼ毎年足を運んでいる。今年はSARPでの花輪奈穂と阿部明子の展示を見ることができた。
花輪の「点O(オー)」というタイトルは、自分にとっての原点、あるいは定点を意味するのだという。日常のさまざまな場面を切り取っていくスナップショットなのだが、そこにはたしかに原点を確保していこうという志向をはっきり感じとることができた。特に半透明なスクリーン状の物質を介して向こう側を透過したり、その表面に何かが映り込んだりする状況を取り込んだ写真が目立つ。このスクリ─ンの所在を軸にして、不定形の日常を構造化していくことができるのではないだろうか。
阿倍の「不在の痕」も日常的な場面の蓄積だが、花輪の作品とはかなり肌合いが違う。阿部が暮らす「西武新宿線中井駅から徒歩3分のシェアハウス」の「共用台所のテーブルの上」が写真の舞台だ。そこに置かれている、鍋、コーヒーメーカー、ティッシュペーパーの箱、灰皿などを「ブツ撮り」で撮影したシリーズの他に、断続的にテーブルの上を撮影した5分間の画像を連続的に上映する映像作品や、30分ごとにシャッターを切った一日分の画像を重ね合わせ、そのプリントをコピーし続けていくシリーズも展示されていた。コンセプチュアルな手法を取り入れてはいるが、そこには花輪と共通する日常の構造化という視点があると思う。
残念ながら、ひと月以上続くリレー式の展示を、全部見るのはなかなかむずかしい。参加者の写真作家としての個性がしっかりと見えてきているので、できればこれまでの集大成となる、より規模の大きな展覧会を実現してほしいものだ。
2015/09/13(日)(飯沢耕太郎)
島尾伸三「二分心 Bicameral Mind」
会期:2015/09/01~2015/09/12
THE WHITE[東京都]
このところ、個展、写真集の刊行(『じくじく』Usiomada)、大学時代の仲間たちとの同人誌『number』の復活展(「Lost “number” Update」THE WHITE、エスパス・ビブリオ)と、島尾伸三の活動に弾みがついている。今回の東京・神田のTHE WHITEでの個展でも、新たな展示の形を試みていた。
60点あまりの写真はいくつかのパートに分けられている。仮に「夜空/空き地」、「ショーウィンドー/商品」、「椅子」、「青い光」、「黄色」、「ゴシックとアールヌーボー」などと名づけることができる写真群である。写真は東京だけでなく、ヨーロッパやアメリカへの旅の途上でも撮影されていて、リスボンの地下鉄の隣にニューヨークの中央駅の写真が、その隣に自宅の写真が並ぶ。つまり、これまで折に触れて撮影してきた写真を、もう一度シャッフルして、テーマごとに再構成しようという試みなのである。
その結果として見えてくるのが「二分心」ということなのだろう。写真家は「思うように撮影が進まない、もがくように困難な時間帯」に落ち込むときがあるが、それでも「そんな時でも私の目玉は景色の中に撮影に値すると思われる空間を見いだしている」のだという。その二つに分けられた目と心の動きを導いている「生命の根源に近い何か」を、写真の再構築を通じて浮かび上がらせようとしているのが今回の試みなのだ。写真を撮るという行為の根元にある「衝動と啓示」を探り当てようというその作業は、まだ始まったばかりのようだが、さらなる展開が期待できそうだ。
2015/09/11(金)(飯沢耕太郎)
角田みどり「Messages.I」
会期:2015/08/06~2015/09/19
キヤノンギャラリーS[東京都]
角田みどりは1977年、東京生まれ。2000年に上智大学外国語学部ロシア語学科卒業という、やや異色の経歴の持ち主である。その後、雑誌や広告の仕事をしながら、ここ10年余り世界中を旅して風景写真を撮りためてきた。今回の展示が最初の本格的な個展ということになる。
東京・品川のキヤノンギャラリーSは汎用性の高いスペースで、可動式の壁面とライティングを工夫して作品をインスタレーションすることができる。今回の角田の展示では、渡り廊下のような暗く、細い通路をくぐり抜けると、ロールペーパーを3枚つなげた巨大なプリントが並ぶ大きな空間が出現するように仕組まれていた。照明を極力抑えているので、最初のうちは画像の細部が見えてこないが、少し目が慣れてくると、世界各地の「聖地」をテーマにした構えの大きな写真群が浮かび上がってくる。数はあまり多くないが、写真はよく選び抜かれており「魂とはなにか? 祈りとはなにか? 神とはなにか?」という生真面目な問いかけに、彼女なりの答えを出していこうとする志の高さが充分に伝わってきた。
ただ、その「Message」の出し方があまりにも大上段にふりかぶり過ぎているので、気負い過ぎでやや単調になっているようにも見える。マクロコスモス的なイメージだけではなく、より小さな日常の宇宙にも目を凝らし、そこからも魂や祈りや神を引き出していくようになるといいのではないかと思う。次回の「Message.II」では、「壮大な大自然」だけではなく、人間の暮らしの細部も見てみたい。
2015/09/09(水)(飯沢耕太郎)
関口正夫「こと」
会期:2015/09/04~2015/09/27
関口正夫は1946年生まれ。1965~68年に桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄、三浦和人とともに大辻清司に写真を学び、卒業後の1971年に牛腸と共著の写真集『日々』を刊行した。その後も、気負いなく淡々と路上スナップを撮り続け、2003年に写真集『こと 1969-2003』を刊行、2008年には三鷹市美術ギャラリーで三浦和人との二人展「スナップショットの時間」を開催している。
今回の東京・四谷、Gallery Photo/synthesisでの個展でも、まったく変わりなく近作のスナップショット18点を披露していた。とはいえ、かつての動体視力のよさを感じさせる切れ味鋭い画面構成というわけにはいかない。70歳近い彼の街歩きのリズムは、より「ゆるい」ものになってきている。とはいえ、その精度の甘さは、逆に「瞬間」に凝固することなく、柔らかに前後の時間に広がっていく「こと」のありようを捉えることにつながっている気がする。会場に展示されていた中に、上野の不忍池の周辺で撮影されたと思しき写真があった。男女のカップルと中年の男が後ろ姿で写っていて、池から飛び立とうとしている水鳥の群れを見つめている。その中の女性の右脚が、足裏を見せて花壇の囲み石の上に振り上げられた瞬間に、シャッターが切られているのがわかる。別にどうということのない光景なのだが、微かなズレをともなって定着されたその場面は、なぜか胸を騒がせる。
このような現実世界の些細な揺らぎ、身じろぎをキャッチすることこそ、スナップショットを撮り、見ることの歓びにつながるのではないだろうか。関口の写真はそのことを証明し続ける営みの蓄積といえる。
(金、土、日曜のみ開廊)
2015/09/06(日)(飯沢耕太郎)
伊賀美和子「THAT'S NOT ENOUGH.」
会期:2015/09/01~2015/10/03
BASE GALLERY[東京都]
伊賀美和子の人形を使ったホームドラマのシリーズは、ひそかに変容と脱皮を繰り返しているようだ。前回のBASE GALLERYでの個展「悲しき玩具--Open Secret」(2010年)から5年を経た今回の「THAT'S NOT ENOUGH.」では、お馴染みの人形たちのたたずまいが、少し変わってきているように感じた。
以前は、家庭の日常に形をとってくるさまざまなドラマを、人形たちが不器用に演じ直しているような印象があったのだが、そのような物語性が希薄になり、「生きることの小さな欠落」が露になる瞬間に、彼らが素っ気なく投げ出されているように見えてくる。首だけ、手だけ、脚の裏からといった場面は、それぞれ孤立していて、あまり相互のつながりを感じさせない。人形たちが不在の「Swan Lake」や、家具だけの写真もあって、そこでは旧作の「Madame Cucumber」の1シーンが、ひっそりと引用されていたりもする。
考えてみれば、伊賀が1999年に写真新世紀優秀賞を受賞してデビューしてからもう15年以上も経つわけで、彼女の分身ともいうべき人形たちも、それぞれの生の厚みを積み重ねてきているということなのだろう。奇妙なことに、人形たちの単純な、固定した顔つきに「深み」が生じてきているように見える。「THAT'S NOT ENOUGH.」というタイトルは、その変容のプロセスがこれから先もさらに続いていくことを示唆しているのではないだろうか。青っぽい色調の画面の中に佇み、漂っていく、人形たちの行方を見守っていく楽しみがより増してきた。
2015/09/05(土)(飯沢耕太郎)