artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで
会期:2019/03/16~2019/05/12
府中市美術館[東京都]
「奇想の系譜」の次は「へそまがりの系譜」だ。へそまがりとは言い得て妙だが、ぼくなら「トンチの系譜」としたいところ。いずれも「負けるが勝ち」「ヘタでなにが悪い」みたいな逆転の発想ですね。ま、開き直りともいえるが。 へそまがりのトップを飾るのは禅画。「奇想の系譜展」にも出ていた白隠の《すたすた坊主図》は、腹の出た布袋が裸で文字通りスタスタ走ったり踊ったりする様子を軽快なタッチで捉えた脱力系の墨絵。白隠と並ぶ禅画界のアヴァンギャルド仙厓も《布袋図》では負けていない。これも腹の出た布袋がしりあがり寿の描く目元パッチリのキモカワおやじに変身しているのだ。同じく仙厓の《十六羅漢図》は、最高の悟りに達したはずの羅漢たちを俗物おやじとしてササッと描いているのだが、余白は墨でごまかすいいかげんさ。
そして彼らにも増して破壊力があるのが、畏れ多くも徳川三代将軍の家光および四代将軍の家綱なるぞ。家光の《兎図》は縦長の画面の下のほうにちょこんと虫ケラみたいなものが描かれていて、なんだろうと思って近づくと、触角だと思ったのが長い耳だと気づく。下のほうに伸びる羽根のようなものは、ウサギが乗る切り株だそうだ。《鳳凰図》もスゴイ。鳳凰といえば伝説の霊鳥なだけに絢爛豪華に表わされるものだが、これはまるでスズメ。家綱の《鶏図》はいちおうニワトリの特徴を備えているが、それだけにかえってマンガチックに見える。これらは殿様が描いたものでなければとっくに捨てられていたはず。それをわざわざ軸装して大切に保存してきたのだから、殿にとっては思わぬ恥さらしとなったのではないか。
まあこれ以外にも、額がビヨ~ンと伸びた若冲の《福禄寿図》、笑顔がグロテスクな岸駒の《寒山拾得図》、そして現代の湯村輝彦や蛭子能収によるヘタウマまで集めている。でもどうせなら現代のサブカルだけでなく、河原温の「日付絵画」や赤瀬川原平の「模型千円札」、高松次郎の「単体」シリーズなど第一線の現代美術も加えれば、日本美術における「へそまがりの系譜」(それは「トンチの系譜」でもある)も完璧なものになったのに。
2019/04/07(日)(村田真)
荒木悠「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」
会期:2019/04/03~2019/06/23
資生堂ギャラリー[東京都]
「見ること、撮ること」がはらむ欲望、視差やショットの複数性の提示、それらを異文化への視線や時代差が内包する偏差と絡めて問う映像インスタレーション。そこには観客自身の眼差し(の全貌把握の不可能性)についての問いも含まれ、映像それ自体への反省的な問いが、極めて理知的な構成によって提起されている。ここでは、メイン出品作品の《The Last Ball》と《戯訳》シリーズについて取り上げる。
映像インスタレーション《The Last Ball》の素材には、フランス語と日本語の2つのテクストが用いられている。ひとつは、明治期に日本を訪れて紀行文を残したフランス人作家、ピエール・ロティの『秋の日本』(1889)の中の「江戸の舞踏会」の章。これは、明治18年に鹿鳴館で開催された舞踏会を訪れたロティによる見聞録で、工兵将校の令嬢と「美しき青きドナウ」を含むワルツを3度踊ったことが記されている。もうひとつのテクストは、このロティの紀行文を下敷きに創作された、芥川龍之介の短編小説『舞踏会』(1920)。ロティのダンスの相手をした17歳の日本人女性、明子が主人公となっている。
ゴージャスでレトロなホール空間。中央に座る四重奏が優雅なワルツを奏でる。だが、その周りをめぐる正装した欧米人男性と日本人女性は、手にしたiPhoneでお互いを撮り合いつつ、自らは相手のカメラに捕捉されまいとして逃げ回っており、優雅なワルツとは裏腹に、「撮る/撮られる」視線の主導権の闘争と逃走のバトルが繰り広げられている。さらにこの記録映像は、壁面と天吊りスクリーンの表/裏の計3面に、それぞれ異なる撮影者やショットのものが投影されており、観客はそれらの視差を含む映像のすべてを一望の下に眼差すことができない。天吊りスクリーンの表にはロティ役が撮影した明子の映像が、裏には明子役が撮影したロティの映像が投影され、淡い残像のように透けつつも重なり合わない二つの映像は、不安定に揺れ動く手持ちカメラの運動と相まって、眩暈のような感覚をもたらす。それは、「相手をイメージとして捕捉する」ことで支配下に置こうとする存在(男性、ヨーロッパ)に対して、眼差しの主導権を奪還しようとする抵抗(女性、アジア)を示唆すると同時に、男性/女性、西洋/アジア、ドキュメント/フィクションのどちらの視座に身を置いて眼差すのか、見る者に選択と自覚を突きつける。
また、壁面の映像は、撮影監督がステディカムで撮った映像、俯瞰とローアングルによる映像、主役2人と撮影監督をさらに外側から撮った映像、の3つが切り替わる。ステディカムによる臨場感ある映像はドキュメンタリー性を強調する一方で、俯瞰(ヨーロッパ映画の舞踏会シーンでよく用いられるアングル)とローアングル(日本映画でよく使われるアングル)の挿入は、劇映画性(とその複数の形式)を主張する。さらに、主役2人と撮影監督を同時にフレーム内に収めた引きの映像は、「お互いを撮り合う」2人を「撮影する者」をさらに外側から撮影する視点(非人称のカメラ)という視線の入れ子構造を形成し、視線の無限的な連なりを暗示する。そして観客は、異なる複数の主体、撮影スタイル、機材による多視点が同時並置される迷宮のただなかに身を置きつつ、すべてを一望で把握する「全能の視点の欠如」を反省的に突きつけられるのだ。
一方、映像作品《戯訳》シリーズでは、同じくロティの『秋の日本』から抜粋された三編のテクスト「聖なる都・京都」「日光霊山」「江戸」が引用される。ロティの眼差しを追うように、130年以上前に記述された場所を、映像は淡々と記録する。だが、映像の中の現在の光景はテクストと時に呼応しつつ、解消不可能なズレとのあわいを往還しながら、クリアな焦点を結ぶことをどこまでも逃れていく。「寂れた寺院に続くひとけのない参道」と字幕は告げるが、画面に映るのは行き交う観光客のにぎわいであり、「神聖な仏像や神像」は土産物屋に並ぶ安価なフィギュアに裏切られる。見ているうちに、見聞を記録したテクストの方が、「フィクション」性を帯びて虚構へと近づいていく。それは、両者を隔てる時代差という不可避の差異によりながらも、記述者のロティ自身が異文化へ向ける視線に内包されたオリエンタリズム的幻想性を示唆する(この手法は、マルコ・ポーロの《東方見聞録》のテクストを、現代の同地域の映像とオーバーラップさせたフィオナ・タンの《ディスオリエント》とも共通する)。
他者や異文化への眼差しを、映像それ自体への再帰的な眼差しとともに解体/再構築した、秀逸な個展だった。
2019/04/06(土)(高嶋慈)
兼子裕代「ガーデン・プロジェクト」
会期:2019/04/02~2019/04/20
Gallery Mestalla[東京都]
タイトルの「ガーデン・プロジェクト」とは、1992年に弁護士のキャスリン・スニードが、アメリカ・サンフランシスコ郡刑務所の第5庁舎に隣接する敷地で立ち上げた農場経営のNPOである。キャスリンは低所得者やマイノリティ・コミュニティの人々に職を与え、地域に貢献する目的で有機野菜や草花を育て、ホームレス・シェルターや高齢者施設に寄付する活動を始めた。カリフォルニア州オークランド在住の兼子裕代は、縁があって2016年から「ガーデン・プロジェクト」のスタッフとなる。同施設は「おそらく政治的な背景で」、2018年に閉鎖に追い込まれたという。
兼子が展覧会に寄せたコメントで認めているように、スタッフとして仕事をしながら撮影された写真群は、ドキュメンタリーの仕事としてはやや厚みを欠いているように見える。だが、6×6判のカメラで撮影され、柔らかい調子でプリントされたカラー写真には、そこで働く人々の姿だけでなく、「光や風、木々や花、そして土地から受ける自然のエネルギー」がしっかりと写り込んでいる。白人とアフリカン・アメリカン、中南米やアジア系の人々が混じり合って、自然を相手にして働くことで醸し出されてくる、不思議な安らぎに満ちた空気感の描写がこの作品の魅力といえるだろう。2017年に銀座ニコンサロンで開催された「APPEARANCE──歌う人」展でも感じたのだが、兼子のカメラワークは、被写体となる人たちの身振りの定着の仕方に特徴がある。瞬間ではなく、その前後の時間をも含み込んだ「途中」の動作を写しとめていることが、彼女の写真に余韻と深みを与えているのではないだろうか。
2019/04/04(木)(飯沢耕太郎)
MOTコレクション ただいま/はじめまして
会期:2019/03/29~2019/06/16
東京都現代美術館[東京都]
ポモドーロの彫刻のある吹き抜けからギャラリーに入ると、いきなりリキテンスタインの《ヘア・リボンの少女》がドーン。四半世紀前、この作品に約6億円を費やして都議会で問題になったことを覚えている人はもう少ないだろう。「マンガに6億円?」と疑問視されたものだが、いまなら安い買い物だったとホメられるかもしれない。なにしろマンガは現代美術より高く評価されてるからな。おかえり《ヘア・リボンの少女》。
コレクションは意外な作家の作品が多く、その意味では楽しめた。さかぎしよしおうの90年代から現在までのツウ好みの作品が10点近くもあるのは驚き。末永史尚、中園孔二、荻野僚介、五月女哲平、南川史門、今井俊介ら若手(もう中堅?)の絵画もけっこう集めている。髙田安規子・政子、寺内曜子、手塚愛子ら繊細な素材による危うい作品もよくコレクションに入れたもんだ。これらの作品の大半がここ2、3年に購入されたものなので、お披露目も兼ねているのだろう。だから「はじめまして」。
余談だが、コレクションに関して興味深いデータが掲示されていた。それを見ると、収蔵作品の制作年代(作品の購入年代ではない)は70年代が圧倒的に多く、次いで60年代、50年代と下がり、80年代は前半は多いけど後半は激減している。これは意外だった。80年代後半以降はこれから増えるだろうからいいとして、70年代というとモダンアートが行き詰まった「低迷」「不作」の時代という印象が強く、なんとなく60年代、50年代、70年代の順かと思ったからだ。70年代の作品が多いのは、その年代にデビューした作家ではなく、50-60年代にワッと登場した作家による70年代の安定した作品が求められたからではないか、と勝手に想像する。ところで、具体やもの派の近年の再制作はどうなるんだろう?
もうひとつ、作品の貸し出し件数も公表していて、これを見ると、1位が岸田劉生の《武者小路実篤像》、2位が東山魁夷の《彩林》、3位が小倉遊亀の《コーちゃんの休日》と続く。現代美術館なのに戦前の作品や穏当な日本画が上位を占める皮肉な結果となっている。せめて《ヘア・リボンの少女》はベスト3に入ってほしかったね。
2019/04/03(水)(村田真)
百年の編み手たち ─流動する日本の近現代美術─
会期:2019/03/29~2019/06/16
東京都現代美術館[東京都]
3年ぶりのリニューアル・オープンだそうだが、館内に入ってみてそれ以上の懐かしさを覚えた。なんだろうこの感覚……実際より長く感じられるというのは、どういう心理だ? そんなに待ち遠しかったわけでもないのに。たぶん内観も外観もほとんど変わっていなかったから、逆に「久しぶり感」が増幅されたのかもしれない。すっかり変わっていたら懐かしさなんて感じなかったはずだし。
企画展示は、第1次大戦の始まった1914年を起点とし、ここ100年間の美術の流れを14章に分けて概観するもの。これは元号でいうと、ほぼ大正、昭和、平成の3つの時代に収まる。平成最後の年としてはタイムリーな回顧といえる。1章は、文展から独立して二科会が結成され、日本美術院が再興し、詩と版画の同人誌『月映』が発刊された「はじまりとしての1914年」。これはいいとして、鹿子木孟郎の記念碑的な「震災画」や、震災後の中原實によるモダンな絵が壁面に広がる2章の「震災の前と後」は、あまり知られていない作品が多く、とても興味深い。さらに4章の「戦中と戦後」には、藤田嗣治の《千人針》や敗戦直後の中原實の奇妙な敗戦画など、実物を見るのが初めての珍しい作品が並ぶ。中原實はこれまでほとんど知らなかったので、もっとまとめて見たくなった。また、桂ゆきや朝倉摂といった先駆的な女性作家をしっかり紹介しているのも新鮮だった(時代の趨勢とはいえ)。
しかし首を傾げてしまう選択もある。60-70年代のネオ・ダダからもの派までの作品が手薄に感じられる一方、9章では「地域資源の視覚化」として環境問題をテーマにする磯辺行久ひとりにスポットが当てられていて、違和感は否めない。確かに磯辺の仕事は重要かつユニークではあるが、それだけにこの1章だけ浮き上がってしまっている。
80年代以降はほぼ見慣れた作家や作品が選ばれている。11章は杉本博司、村上隆、大竹伸朗、柳幸典ら世界を目指した「日本と普遍」、12章は豊嶋康子、風間サチコ、Chim↑Pomら社会に目を向けた「抵抗のためのいくつかの方法」と、分類もわかりやすい。
ユニークな視点を示したのが、巨大な吹き抜け空間を使った13章の「仮置きの絵画」だ。貧相な襖や屛風を支持体にした会田誠の「戦争画RETURNS」や、キャンバスを張りながら手で描く小林正人の《Unnamed#18》、壁の隠れた部分に寄生するように展示した末永史尚の《Tangram-Painting》など、変則的絵画を集めたもので、これらをひとつに括る発想はなかったなあ。これまで親しんできた東京国立近代美術館的(つまり優等生的)な日本近代美術史観とは違う、MOT的美術史観を示してくれた。
2019/04/03(水)(村田真)