artscapeレビュー
荒木悠「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」
2019年04月15日号
会期:2019/04/03~2019/06/23
資生堂ギャラリー[東京都]
「見ること、撮ること」がはらむ欲望、視差やショットの複数性の提示、それらを異文化への視線や時代差が内包する偏差と絡めて問う映像インスタレーション。そこには観客自身の眼差し(の全貌把握の不可能性)についての問いも含まれ、映像それ自体への反省的な問いが、極めて理知的な構成によって提起されている。ここでは、メイン出品作品の《The Last Ball》と《戯訳》シリーズについて取り上げる。
映像インスタレーション《The Last Ball》の素材には、フランス語と日本語の2つのテクストが用いられている。ひとつは、明治期に日本を訪れて紀行文を残したフランス人作家、ピエール・ロティの『秋の日本』(1889)の中の「江戸の舞踏会」の章。これは、明治18年に鹿鳴館で開催された舞踏会を訪れたロティによる見聞録で、工兵将校の令嬢と「美しき青きドナウ」を含むワルツを3度踊ったことが記されている。もうひとつのテクストは、このロティの紀行文を下敷きに創作された、芥川龍之介の短編小説『舞踏会』(1920)。ロティのダンスの相手をした17歳の日本人女性、明子が主人公となっている。
ゴージャスでレトロなホール空間。中央に座る四重奏が優雅なワルツを奏でる。だが、その周りをめぐる正装した欧米人男性と日本人女性は、手にしたiPhoneでお互いを撮り合いつつ、自らは相手のカメラに捕捉されまいとして逃げ回っており、優雅なワルツとは裏腹に、「撮る/撮られる」視線の主導権の闘争と逃走のバトルが繰り広げられている。さらにこの記録映像は、壁面と天吊りスクリーンの表/裏の計3面に、それぞれ異なる撮影者やショットのものが投影されており、観客はそれらの視差を含む映像のすべてを一望の下に眼差すことができない。天吊りスクリーンの表にはロティ役が撮影した明子の映像が、裏には明子役が撮影したロティの映像が投影され、淡い残像のように透けつつも重なり合わない二つの映像は、不安定に揺れ動く手持ちカメラの運動と相まって、眩暈のような感覚をもたらす。それは、「相手をイメージとして捕捉する」ことで支配下に置こうとする存在(男性、ヨーロッパ)に対して、眼差しの主導権を奪還しようとする抵抗(女性、アジア)を示唆すると同時に、男性/女性、西洋/アジア、ドキュメント/フィクションのどちらの視座に身を置いて眼差すのか、見る者に選択と自覚を突きつける。
また、壁面の映像は、撮影監督がステディカムで撮った映像、俯瞰とローアングルによる映像、主役2人と撮影監督をさらに外側から撮った映像、の3つが切り替わる。ステディカムによる臨場感ある映像はドキュメンタリー性を強調する一方で、俯瞰(ヨーロッパ映画の舞踏会シーンでよく用いられるアングル)とローアングル(日本映画でよく使われるアングル)の挿入は、劇映画性(とその複数の形式)を主張する。さらに、主役2人と撮影監督を同時にフレーム内に収めた引きの映像は、「お互いを撮り合う」2人を「撮影する者」をさらに外側から撮影する視点(非人称のカメラ)という視線の入れ子構造を形成し、視線の無限的な連なりを暗示する。そして観客は、異なる複数の主体、撮影スタイル、機材による多視点が同時並置される迷宮のただなかに身を置きつつ、すべてを一望で把握する「全能の視点の欠如」を反省的に突きつけられるのだ。
一方、映像作品《戯訳》シリーズでは、同じくロティの『秋の日本』から抜粋された三編のテクスト「聖なる都・京都」「日光霊山」「江戸」が引用される。ロティの眼差しを追うように、130年以上前に記述された場所を、映像は淡々と記録する。だが、映像の中の現在の光景はテクストと時に呼応しつつ、解消不可能なズレとのあわいを往還しながら、クリアな焦点を結ぶことをどこまでも逃れていく。「寂れた寺院に続くひとけのない参道」と字幕は告げるが、画面に映るのは行き交う観光客のにぎわいであり、「神聖な仏像や神像」は土産物屋に並ぶ安価なフィギュアに裏切られる。見ているうちに、見聞を記録したテクストの方が、「フィクション」性を帯びて虚構へと近づいていく。それは、両者を隔てる時代差という不可避の差異によりながらも、記述者のロティ自身が異文化へ向ける視線に内包されたオリエンタリズム的幻想性を示唆する(この手法は、マルコ・ポーロの《東方見聞録》のテクストを、現代の同地域の映像とオーバーラップさせたフィオナ・タンの《ディスオリエント》とも共通する)。
他者や異文化への眼差しを、映像それ自体への再帰的な眼差しとともに解体/再構築した、秀逸な個展だった。
2019/04/06(土)(高嶋慈)