artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展
会期:2019/04/12~2019/05/19
Gallery AaMo[東京都]
櫛野展正が刊行した書籍『アウトサイド・ジャパン』(イーストプレス、2018)と同じタイトルであり、章名や順番も一致するものが多く、ある意味で彼が出会ってきた日本各地のアウトサイダー・アートの総集編的な内容だったが、やはり展覧会において実物を鑑賞できるインパクトは大きい。とくに緻密に描きこまれたり、執拗に反復された表現などは、小さな紙面では迫力が十分に伝わらないからだ。また展覧会の序文に書かれていたように、会場に作家が毎日やってきて絵を描いたり、自作の下駄を交換するプロジェクト、青森に行くツアーを企画するなど、ホワイトキューブからの脱出を試みている。
総勢70数名の表現者が参加しており、彼が拠点とする広島圏が多いように思われたが、おそらく今後もさらにリサーチを継続すれば、全国にもっと見つかるだろう。ともあれ、彼が福山市に開設したギャラリー「クシノテラス」はそれほど大きなスペースではなかったので(今後、常設の展示室がつくられる予定)、東京でこれだけ一堂に会する展示を見ることができるのはありがたい。
近年、オリンピック、パラリンピックにあわせて、文化政策として「アール・ブリュット」がよく使われ、メジャーになっているが、櫛野はあえて「アウトサイダー・アート」の語でないと伝わらない表現者の活動に注目している。日本では、1990年代に展覧会を通じて、「アウトサイダー・アート」が知られるようになったが、近年は障害者のアートに焦点があたるとともに、「アール・ブリュット」が一般化した。が、もともとデュビュッフェが命名した「アール・ブリュット」は、美術の正規教育を受けていない人の作品を指しており、必ずしも障害者のアートだけを指すものではない。ゆえに、櫛野は前掲書において「そもそも障害がないと優れた作品が生み出せないわけじゃない。……障害者の表現だけが優遇され、障害のない表現者は周到に排除されている日本の現状」に叛旗をひるがえす。つまり、飼いならされた日本版「アール・ブリュット」からもはみでる「アウトサイダー・アート」なのだ。
2019/05/10(金)(五十嵐太郎)
荒木悠「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」
会期:2019/04/03~2019/06/23
資生堂ギャラリー[東京都]
作品は全部で10点ほど出ているが、メインは《The Last Ball》という映像。ピエール・ロティの紀行文「江戸の舞踏会」を下敷きにした芥川龍之介の短編小説『舞踏会』に基づくという。スクリーンは壁面と宙づりの2面あるが、宙づりのスクリーンは表裏に映されるので計3面になる。まず壁面を見ると、西洋人の男性(ロティ)と日本人の女性(明子)がワルツを踊っているように見えるが、よく見ると2人はお互いに追いかけながらiPhoneで相手を撮っているようだ。宙づりスクリーンの片面には女性を撮っている男性が、もう一面には男性を撮っている女性が、それぞれiPhoneをこちらに向けながら逃げ回るように映っている。見る(撮る)者が見られ(撮られ)、見られる(撮られる)者が見る(撮る)。これがロティ(および明子)の視線だとすれば、それを見る(撮る)第三者の視線は芥川の視線に重なるだろうか。非常に重層した構造をもった作品。
2019/05/10(金)(村田真)
ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち
会期:2019/04/06~2019/06/23
パナソニック汐留美術館[東京都]
別に「ウィーン・モダン」展と同じ日に見ようと計画していたわけじゃなく、たまたまそうなっただけだけど、この2展を続けて見るのは悪くない。ギュスターヴ・モローは言うまでもなくパリの世紀末を彩った象徴主義の画家で、今回は特にサロメをモチーフにした作品を中心に展示しており、さまざまな意味でクリムトと比較できるからだ。ちなみに日本では10年に一度くらいモロー展が開かれているが、いずれもパリのギュスターヴ・モロー美術館からの出品。
展覧会は「モローが愛した女たち」から「《出現》とサロメ」「宿命の女たち」「《一角獣》と純潔の乙女」まで4章立てで、パレットやメモを含め計69点で構成されている。サロメを中心にすべて「女性」がテーマになっているのが世紀末っぽい。だいたい西洋美術に登場する女性は、聖母や聖女、良妻賢母、そして「宿命の女」の三つに分けられるが、世紀末に好まれたのが宿命の女、フランス語でいう「ファム・ファタル」であり、とりわけ男の首を獲ったサロメとユディトがもてはやされた。モローはサロメの挿話を何点も手がけており、今回は《サロメ》《ヘロデ王の前で踊るサロメ》《洗礼者聖ヨハネの斬首》など、油絵や素描を合わせて計26点が出ている。なかでも踊るサロメの前にヨハネの首が現れる《出現》は、表現主義的ともいえる描写の上に線描で装飾を加えたレイヤー表現で、きわめて斬新。
ほかにも《エウロペの誘拐》や《一角獣》など見ごたえのある完成作もあるが、大半は小ぶりの習作やスケッチ。なかにはなにが描いてあるのか判別できない抽象的な作品もあるが、そこにモローならではの多義性がある。クリムトが20世紀の表現主義に一歩踏み出したように、モローも視界の先にフォーヴィスムや抽象を見据えていたのかもしれない。会場となった汐留美術館は、フォーヴィスムの画家ジョルジュ・ルオーのコレクションで知られているが、意外なことにルオーはモローの弟子だったのだ。
2019/05/10(金)(村田真)
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
会期:2019/04/24~2019/08/05
国立新美術館[東京都]
都美の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」の主役が画家クリムトなら、こちら「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の主役は、クリムトの名がタイトルに入ってはいるものの、やっぱりウィーンという都市でしょうね。出品物もほぼすべてウィーン・ミュージアムから借りたものなので、クリムトの絵を期待して行くとがっかりするかもしれない。なにしろ前半は時代遅れの田舎臭い絵画や工芸がこれでもかと並び、なかなかクリムトにたどり着けないからだ。まあ、ウィーンという都市自体がヨーロッパの端っこにあるもんだから、田舎臭いのは仕方ないか。
いくつか妙な絵もあった。マリア・テレジアの肖像画の額縁の上部に、息子ヨーゼフ2世の肖像画がはめ込まれていたり、フランツ1世の書斎を描いた画面内の壁に本物の時計が取り付けられていたり、トリッキーな細工が施されているのだ。おもしろいけど、こんな小細工で注目を集めてどうするみたいな。19世紀前半のビーダーマイアー様式の絵画も、基本リアリズムなのに現実味に乏しくウソっぽい。19世紀末のクリムトまで名の知られた画家はひとりも登場せず、とにかく美術史の主流から完全に外れているのだ。と、バカにしてみましたが、ウィーンは芸術の中心パリからは遠いけど、神聖ローマ帝国からオーストリア・ハンガリー二重帝国の時代まで中東欧の首都であり、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトを育んだ音楽の都であり、東はオスマントルコ帝国と接するアジアの玄関口であり、そのずっと東の果てで長いあいだ鎖国していた日本などに比べれば、はるかに発展していたことは言うまでもない。
とはいえ、やっぱりパリに比べれば近代化が遅れていたことは確か。パリでは19世紀後半にレアリスムや印象派などのモダンアートが登場し、その反動として象徴主義やアール・ヌーヴォーなどの世紀末芸術が注目されたのに、ウィーンではモダンアートが到来したのが19世紀末だったため、世紀末芸術とモダンアートが混在した、というよりモダンアートが世紀末芸術だったのだ。だから結論だけいうと、クリムトは印象派もポスト印象派も、象徴主義もアール・ヌーヴォー(ドイツ語圏ではユーゲントシュティール)も、あまつさえ20世紀の表現主義までひとりで抱え込まざるをえなかったのだ。もっといえば、それ以前のビーダーマイアー様式のリアリズム表現や工芸的な職人技、ジャポニスムの影響も内面化しているため、単線的な美術史では捉えきれない複雑な多面性が見てとれるのだ。あーそうだったのか、ひとりで納得した。
2019/05/10(金)(村田真)
Meet the Collection ─アートと人と、美術館
会期:2019/04/13~2019/06/23
横浜美術館[神奈川県]
1989年にオープンした横浜美術館の開館30周年を記念したコレクション展。まさに平成とともに歩んできた美術館だが、コレクションが開始されたのはそれに先立つ1982年のこと。現在12,437点を有するコレクション(版画や写真が3分の2近くを占める)のうち、今回は300点余りを「LIFE:生命のいとなみ」「WORLD:世界のかたち」の2部に分け、さらにそのなかにいくつか章を立てて紹介。加えて、束芋、淺井裕介、今津景、菅木志雄の4人のアーティストをゲストに招き、彼らの作品とコレクションとの関わりを提示する。
圧巻は、円形の展示室の壁面いっぱいに泥絵を描いた淺井裕介の《いのちの木》。何人もアシスタントを使っているが、これだけスケールの大きな壁画を制作しながら2カ月あまりの会期が終われば消されてしまうのは、なんとももったいない。今津景の《Repatriation》も中身の濃い力作。明治期の廃仏毀釈でアメリカに渡った快慶の《弥勒菩薩立像》や、ナチスに略奪されたクラナハの《イヴ》、大英博物館が大理石彫刻を所有しているため空っぽのアクロポリス博物館など、美術品の略奪と移動をテーマにした油絵の大作だ。
コレクションで興味深かったのは「あのとき、ここで」と題された章。両国大火を描いた小林清親の浮世絵、関東大震災の被災地を記録した渡邊忠久、川崎小虎、田村彩天らの版画をはじめ、ロバート・キャパ、デヴィッド・シーモア、アンリ・カルティエ=ブレッソン、沢田教一らの戦争記録写真、土田ヒロミや米田知子らの「記憶写真」など、美術ジャーナリスティックともいえそうな「複製作品」が並ぶ。ここだけで100点を超し、全体の3分の1を占めていて、量的にもテーマ的にも見ごたえがあった。振り返れば、横浜美術館が開館した1989年は、写真発明150年ということで「芸術としての写真」がブームになった頃。前年に開館した川崎市市民ミュージアムとともに、同館が写真を目玉の1つにしたのはわかるが、せっかく立派な美術館を建てたのに、大がかりな美術作品より写真に目が行くというのはどうなんだろう。いま頭に思い浮かべているのは、3年前に同館で公開された村上隆の「スーパーフラット・コレクション」のことだ。400万人近い人口を抱える自治体の美術館が、一個人のコレクションより見劣りするというのはちょっと寂しい。とふと思ったりして。
2019/05/06(月)(村田真)