artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

明治の写真展『華影』華族たちの絵画主義 ピクトリアリズムを追って

会期:2019/02/05~2019/03/03

JCII フォトサロン[東京都]

『華影(はなのかげ)』は1902年~08(明治35~41)年頃に刊行されていた写真雑誌である。一種の同人誌で、会員はすべて写真を愛好する華族たちだった。当時は、ようやく素人写真家たちを中心に「芸術写真」の気運が盛り上がってきた頃で、『華影』もその流れに沿って創刊されたようだ。なかなか見る機会がなかったのだが、今回、日本カメラ博物館(JCII)が保存している13冊に掲載された写真図版を複写・プリントした作品が初公開された。日本写真史の再構築という意味で、とても有意義な展示といえる。

「最後の将軍」徳川慶喜、その弟の徳川昭武、さらに徳川達道(さとみち)、松平乗長、松平直之、阿部正恒(まさたけ)、戸田忠男、井伊直安、正親町實正(おおぎまち・さねまさ)といった常連作家の作品は、ほとんどがピクトリアリズム(絵画主義)の美意識に則って制作されている。1904年以降に写真家・写真事業家の小川一真と、東京美術学校教授の西洋画家、黒田清輝が作品の審査にあたるようになり、その傾向がより強まった。だがそれだけでなく、身辺の雑事を題材にしたスナップ写真的な写真や、演出を加えて滑稽味を打ち出した作品など、作風の幅はかなり広い。上流階級の手遊びと言ってしまえばそれまでだが、彼らの遊び心溢れる写真群はなかなか魅力的であり、むしろ現代的とさえいえる。兄の徳川慶喜とともに若い頃から写真に親しみ、生涯に1500枚余りの写真原板を残した徳川昭武や、東京美術学校で日本画を学んだという松平乗長らの作画意識は、かなり高度なものがある。彼らの活動を、同時代の日本の写真表現の中にどう位置づけるかが、これからの課題といえるだろう。

2019/02/06(水)(飯沢耕太郎)

インポッシブル・アーキテクチャー 
もうひとつの建築史

会期:2019/02/02~2019/03/24

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

タトリンの第3インターナショナル記念塔から、ザハ・ハディドの新国立競技場案まで、ここ100年ほどのあいだに設計または立案しながら建てられなかった、いわゆる「アンビルト」の建築プランばかりを集めたもの。こういう展覧会って、なぜかふつうの建築展以上にワクワクしてしまう。それはおそらく、建てられなかった理由がとんでもなくデカかったり、実現不可能なかたちをしていたり、とてつもなく金がかかったり、とにかく尋常ではない刺激的なプランが多いからだ。もうひとつ、同じことかもしれないが、通常の建築展なら建てられたものがどこかにあり、見ようと思えば見に行けるのに、アンビルト建築は現物を見ることができないゆえに、かえって見ることの欲望が煽られるからではないだろうか。最新のアンビルト建築であるザハの新国立競技場案が、早くもノスタルジーを感じさせるのはそのせいだろうか。

ひと口にアンビルト建築といっても、①設計コンペに落選した本気のプラン、②仕事のない若いころにトレーニングを兼ねて引いた遊び半分のドローイング、③最初から実現を目指さずそれ自体を作品として描いたスケッチや版画など、さまざまある。落選案では、前川國男の「東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案」(1931)と、村田豊の「ポンピドゥー・センター競技設計案」(1971)が興味深い。どちらも初めて見るもので、村田豊などは同じ苗字なのに名前すら知らなかった。前者はバウハウス校舎とサヴォア邸を合わせたようなモダン建築案で、「日本趣味を基調とする東洋式」という条件から外れていたため落選。前川は戦後になって師のル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館を補佐したのを皮切りに、同じ上野公園内に東京文化会館、東京都美術館、西洋美術館新館などを建てて一矢報いた。後者の村田によるポンピドゥー・センター案は、8層の本体を4本の巨大な柱で吊るすという大胆なアイディア。村田もコルビュジエに師事したことがあり、床下の空間がピロティの役割を果たしている。残念ながら佳作になったが、これが実現していたらピアノ+ロジャースの建物よりさらにスキャンダルになっていたかもしれない。

②の若いころのトレーニングでは、ハンス・ホラインの「超高層建築」(1958)や、ダニエル・リベスキンドの「マイクロメガス:終末空間の建築」(1979)がある。ホラインのプランは、雑誌の誌面に大地から片腕を突き立てたかたちを鉛筆で描いたもので、やけくそ気味の非現実的な図だ。リベスキンドのドローイングは、ホラインのスケッチとは違って③の作品として描かれたものでもある。破壊された建築の断片を寄せ集めたような神経症的なドローイングで、いま見ればWTCが崩落する瞬間か、その倒壊現場を思わせないだろうか。どちらも近代建築への反発と、建築概念の根源的な問い直しの姿勢が感じられる。

③のそれ自体が作品としてつくられたプランでは、60年代の建築家集団アーキグラムやスーパースタジオの一連のプロジェクトが代表的。どちらも未来的な建築イメージや都市風景をコラージュしたもので、初めから雑誌媒体に載せることを目的とした批評性の強い作品だ。批評性の強い作品といえば、ザハの新国立競技場案の後に、オマケのように展示されていた会田誠と山口晃によるプランが笑えた。都庁舎の上に帝冠様式のごとく日本のお城を載せたり、日本橋をまたぐ高速道路の上に巨大な太鼓橋を渡したり、もはや批評を超えてギャグにまで昇りつめている。

最後に、ザハ・ハディドの新国立競技場案にも触れなければならない。これは①~③に属さない、コンペに当選しながら後でなんだかんだと難癖をつけられて廃案にされた希有な例だろう。この騒動からしばらくしてザハが亡くなったため、結果的に「アンビルトの女王」の名を高めることにもなった。もしザハ案が廃案にならなかったら、この展覧会も実現しなかったかもしれない。だが、展示を見て「おや?」と思ったのは、出品されていたのがビヨーンと縦に長い原案ではなく、前後を断ち切って沖縄の亀甲墓みたいに縮まった修正案のほうだったこと。どうせなら建築家が最初に望んだデザインを見たかったけど、実現の一歩手前まで行きながら政治的・経済的理由により廃案に追い込まれた「アンビルト事情」を重く見たようだ。ならば原案、修正案と順に提示して、日本ではこうして夢がつぶされていくという過程を見せてもよかったのでは。

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2019/02/05(火)(村田真)

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岡上淑子「フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」

会期:2019/01/26~2019/04/07

東京都庭園美術館[東京都]

展覧会がどんな会場で開催されるかは、とても大きなファクターなのだが、普段はそれほど強く意識されることはない。だが、旧朝香宮邸を改装した東京都庭園美術館で岡上淑子の作品を見るという経験は、やはり特別なものだった。彼女の優美で繊細だが力強い作品の魅力が、アール・デコ様式の建物やインテリアによってより増幅されて伝わってきたからだ。

2018年1月~3月に高知県立美術館で開催された「岡上淑子コラージュ展──はるかな旅」は、彼女のほぼ全作品が出品された充実した内容だった。それゆえ、その展示からあまり間をおかずに開催された本展がどんなものになるのか、やや不安があった。だが、結果的には、展示作品の内容も展覧会の構成も、従来の岡上淑子像を更新する画期的なものになっていた。

まず、国内収蔵作品に加えて、アメリカ・テキサス州のヒューストン美術館の収蔵作品が「里帰り」している。それに加えて、周辺資料の充実が目につく。岡上のタケミヤ画廊での初個展(1953)をプロデュースした瀧口修造の関連資料、フォトコラージュの元にになった『LIFE』、『VOGUE』、『Harper’s Bazaar』などの原本、洋裁を勉強していた頃の型紙、さらに岡上の作品に登場してくる、バレンシアガやディオールの1950年代のドレスの実物も展示してあった。これらの周辺資料によって、岡上の作品世界がよりくっきりと、立体的に浮かび上がってきていた。

新館には《懺悔室の展望》《翻弄するミューズたち》《私たちは自由よ》の三部構成でフォトコラージュ作品が展示されていた。それぞれ、敗戦後の「荒野」を彷彿とさせる廃墟のイメージ、男性中心の社会を翻弄するコケティッシュなミューズたち、戦後の自由を謳歌する女性たちの出現、という具合に岡上のフォトコラージュを読み解いていく試みは、とてもスリリングで興味深いものだった。担当学芸員の神保京子の、長年にわたる研究の成果がよく発揮されたパートといえる。とはいえ、岡上の仕事をどのように戦後写真の表現の系譜に位置づけていくかは、むしろこれから先の大きな課題となる。1950年代の主観主義写真や実験工房のムーブメントとの関わりも含めて、さらなるパースペクティブの構築が必要になるだろう。

2019/02/05(火)(飯沢耕太郎)

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第18回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 中野泰輔展「HYPER/PIP」

会期:2019/01/29~2019/02/15

ガーディアン・ガーデン[東京都]

第18回写真「1_WALL」展のグランプリ受賞者記念展として開催された中野泰輔の個展会場には、大小60点余りの写真が壁に散りばめられていた。被写体の幅はかなり広く、人、モノなどが見境なく入り混じる場面が写し取られている。その画像の表面が、虹色に輝く気泡を含んだゼリー状の膜に覆われているので、水の中を漂うような浮遊感が生じる。全体的に見ると、開放感よりは閉塞感、どこか歪んだ居心地の悪い画像の集積と言えるだろう。若い女性、子供、パソコンや携帯電話といった頻出するイメージをつなぎ合わせても、中野が何を伝えたいのかはクリアーには見えてこない。むしろ、彼はそのようなロジカルな理解に向かう回路を、かなり意図的に断ち切ろうとしているようだ。結果的に、観客はある種の不快感、欠落感を抱えて会場を後にすることになる。

中野がここで試みようとしているのは、無意識レベルで蠢く欲望や感情に形を与えることだと思う。それは半ば成功しているが、このままだと中途半端なものになりそうでもある。ゼリー状の膜越しに写し出されている世界を見るという、手法の操作性が目につきすぎて、中野の制作行為と共振するような状態にうまく入り込みにくいからだ。写真の選択や会場構成を見る限り、彼の創作意欲と表現能力の高さは疑い容れないので、手法があまり目立たないような方向にシフトしていってほしい。むしろ次作が大事になってくるのではないだろうか。

2019/02/02(土)(飯沢耕太郎)

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GOTO AKI「terra」

会期:2019/01/19~2019/03/04

キヤノンギャラリーS[東京都]

戦前の福原信三あたりを草分けとして、緑川洋一、前田真三、竹内敏信らによって人気のあるジャンルとなった日本の風景写真だが、このところ新たな展開があまり見られないのが気になっていた。だが、GOTO AKIの今回の個展を見て、その空白を埋めてくれるのではないかという期待が芽生えてきた。

東京・品川のキヤノンギャラリーSで展示された40点余りの作品は、すべて2016~18年に日本各地で撮影されたものである。浅間山、伊豆、奥入瀬、阿蘇といった撮影地をチェックすると、それらが「日本の観光地や誰でも登攀可能な山々」であることがわかる。つまり、これまで日本の写真家たちが繰り返し撮影してきた、いわば使い古された風景ということなのだが、とてもそうは見えない。GOTOは、あらかじめインプットされた定型としての風景のイメージをいったん解体し、「光・時間・色・造形・音・気温・匂い・風」といった要素に還元して画面上に再構築していく。その結果として、それぞれの風景に潜在していた「太古の時代から続く、悠久の時と、惑星の原始の姿」が浮かび上がってくる。

GOTOのアプローチは、いわばデジタル時代の新たな風景写真の模索というべきものだが、これまでの写真家たちの表現の積み上げをまったく無視しているわけではない。彼の写真にはアメリカのエリオット・ポーターの仕事を思わせる緻密で客観的な自然描写と、「富士山」や「犬飼滝」の写真にあらわれている東洋的な自然観とがうまく融合されている。これから先、その作品世界がどんな風に展開していくかが楽しみだ。なお、展覧会にあわせて、赤々舎から同名の写真集が刊行されている。

2019/01/31(木)(飯沢耕太郎)