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美術に関するレビュー/プレビュー

奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド

会期:2019/02/09~2019/04/07

東京都美術館[東京都]

美術史家の辻惟雄氏が1968年に『美術手帖』に連載し、70年に単行本として出版した『奇想の系譜』。それまで下手物としてほとんど顧みられることのなかった若冲や蕭白、芦雪ら江戸期の画家たちにスポットを当て、従来の評価をひっくり返した画期的な書だ。当時のアングラ、サイケの時代相にシンクロしたのか、篠原有司男や横尾忠則といった前衛芸術家に受け入れられたという。その後も奇想の画家たちは知る人ぞ知る静かなブームを呼んでいたが、近年とりわけ若冲の人気が急上昇し、展覧会に5時間待ちの長蛇の列ができるほど加熱してきたのはご存知のとおり。そうした奇想の画家たちを集め、辻氏の教え子である山下裕二氏が監修した展覧会がこれ。

辻氏の著書では伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪のほか、岩佐又兵衛、狩野山雪、歌川国芳の6人が紹介されていたが、展覧会ではこれに白隠慧鶴、鈴木其一を加えた計8人の作品113点を展示(会期中展示替えあり)。若冲は代表作の《動植綵絵》も、奇想きわまる「枡目描き」も出ないのが残念だが、白象と黒鯨を対比させた《象と鯨図屛風》やサイケな《旭日鳳凰図》が見どころ。蕭白は見ているだけで気が狂いそうな《群仙図屛風》と、やけくそで描いたような《唐獅子図》がぶっ飛んでいる。芦雪は充実していて、若冲の《象と鯨屛風》に対抗するかのような《白象黒牛図屛風》をはじめ、ナメクジのはった跡を薄墨でたどった《なめくじ図》、3センチ四方の極小画面に群像を詰め込んだ《方寸五百羅漢図》など、まさに奇想というほかない作品を一挙公開。又兵衛はなんといっても血みどろの殺戮場面を描いた《山中常磐物語絵巻》が見もの。白隠は目つきの悪い《達磨図》や、書なのか画なのかわからない《無》が笑えた。

ただ意外といえば意外、当然といえば当然だが、これらの画家たちのきわめて真っ当な作品も出ていた。蕭白の《虎渓三笑図》は別人が描いたかと思えるほど丁寧だし、又兵衛の《洛中洛外図屛風(舟木本)》は昔から評価が高かった作品だ(国宝)。山雪の《韃靼人狩猟・打毬図屛風》も、其一の《牡丹図》も、どこが奇想なのかってくらいオーソドックスに見える。これらに比べれば、日本美術の主流ともいうべき狩野永徳の《檜図屛風》や、俵屋宗達の《風神雷神図屛風》のほうがよっぽど奇想にあふれていないだろうか。写楽だって北斎だって全身これ奇想ではないか。そう考えると、明治以前の日本美術は大半が奇想の系譜に属するのではないかとさえ思えてくる。少なくとも西洋美術の価値観に照らし合わせば、あるいは現代の日本人から見れば、江戸期の絵画は奇想の楽園だったといえそうだ。あれ? 「奇想」ってなんなんだ? フリダシに戻ってしまったぞ。

公式サイト: https://kisou2019.jp/

2019/02/09(土)
(村田真)

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クリスチャン・ボルタンスキー ─ Lifetime

会期:2019/02/09~2019/05/06

国立国際美術館[大阪府]

1960年代後半の初期作品から最新作までを紹介する、国内初の大規模な回顧展。とは言え、年代順に展開を見せる、テーマ毎のグルーピングで区切るといったオーソドックスな構成ではなく、作家自身が「展覧会をひとつの作品として見せる」とチラシなどに明記されているように、会場全体がひとつの巨大なインスタレーションとも言える展示になっている。独立した小部屋に展示された作品もあるが、作品どうしは密に隣接し、ライトの光が別の写真作品の表面に反射し、心臓の鼓動音や風鈴、クジラの鳴き声を模した音響が空間を包み込み、他の作品の領域を浸食する。このように、互いの領域を音や光が干渉、浸食し合う展示構成は、意図的なものだろう。会場入り口には闇に青く輝く「DEPART(出発)」の文字が、出口には赤く輝く「ARRIVEE(到着)」の文字が電球で掲げられ、亡霊たちの蠢く闇の世界をさながら胎内巡りのように歩き回る体験だ。

20世紀半ばの典型的なブルジョワ家庭の家族写真をグリッド状に並べた《D家のアルバム、1939年から1964年まで》。子どもたちのポートレートを複写して引き伸ばし、遺影を思わせるそれらの写真とライトや錆びた金属の箱を祭壇風に組み合わせた《モニュメント》のシリーズ。新聞の死亡告知欄に掲載された顔写真を複写し、壁を覆い尽くすように並べた《174人の死んだスイス人》。同様の顔写真を、錆びた金属箱の表面に貼り付けて大量に並べ、引き取り手のない遺骨や遺品の保管庫を思わせる《死んだスイス人の資料》。大量に吊るされた、あるいは小山のように積み上げられた古着。死神、ドクロ、死の天使、吊られた遺骸を思わせるイメージが浮遊する影絵のシリーズ。磔刑のようなポーズで壁に掲げられたコートは青い電球に縁どられ、その幻想的な光は、遺骸を覆うシーツのように薄布をかけられた女性の顔写真の作品《ヴェロニカ》を包む。この「胎内巡り」で頭によぎるのは、顔貌を「デスマスク」として引き剥がす写真、死体の代替物としての写真や古着、大量死の記録の(不)可能性、遺品保管所、アーカイブという装置(の擬態)、死の舞踏、祭壇、「ヴェロニカ、磔刑像、トリプティック」などキリスト教美術の引用、といったキーワードである。



クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》1986 作家蔵
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Photo © The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner] 無断転載禁止

展覧会初日のトークは開館前に長蛇の列ができ、会場内もかなりの混雑。越後妻有アートトリエンナーレや豊島での制作発表、あるいは自然環境に置かれた風鈴が死者の霊の到来のように音を鳴らす《アニミタス》のシリーズは日本人の死生観と相性がよいからか、ボルタンスキーの人気や知名度の高さがうかがえる。だが、「アジア」の地での回顧展を見て、改めて感じたのは、「ホロコースト」という主題、キリスト教美術と密接に結びついた「死」の表象系、アーカイブやミュージアムといった保管装置の擬態、つまり「ヨーロッパ」の文脈性の強さである。



クリスチャン・ボルタンスキー《保存室(カナダ)》1988 イデッサ・ヘンデルス芸術財団、トロント
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Ydessa Hendeles Art Foundation, Toronto, Photo by Robert Keziere] 無断転載禁止

ボルタンスキー作品の本質は、「死者への敬虔な哀悼」を装いつつ、「脱け殻の皮膚」としての古着や「写真=デスマスク」の量的過剰さによって、固有性を奪っていく暴力性にあると筆者は考えている。とりわけ写真の二次使用における固有性の剥奪の「操作」は徹底しており、固有名を消去され、複写された顔写真は輪郭が曖昧に融解し、目鼻は虚ろに空洞化し、あるいは大量に並置されることでグリッドの網のなかに均質化していく。それは、単独かつ固有の「死者」ではなく、常に複数形の「死者たち」なのだ。

だがそれは、「個人の死」を「死者の集合体」へと統合して均していく装置、例えば靖国神社の遊就館に「祭神」として祀られた、壁を覆う大量の戦没者の写真とどう違うのか。もちろん、ボルタンスキーの場合、父がナチスの迫害を受けたユダヤ系という出自も大きく関わっている。だが例えば、日本人作家が「ヒロシマ」の犠牲者のポートレートを用いた作品を制作しても「鎮魂の表現」として(国内では)問題視されないが、他のアジア諸国の作家が「侵略戦争や政治的闘争の犠牲者」のポートレートを作品に使用すれば、「政治的」というレッテルを貼られ、拒絶反応を引き起こすだろう。「写真(ポートレート)」は現実的なコノテーションを含む以上、(被写体の/作家自身の)人種、国籍、宗教といったポリティカルな要素と完全には切り離せない。「ホロコーストの表象」という「遠い事象」として納得するのではなく、「私たち」の(そしてそこに横たわるさまざまな境界線の)問題へとどう引き付け、反転させて考えることが可能なのか。「死者の記憶の追悼」の(演出された)崇高さに浸るのではなく、「展示装置」と政治性、「死(者)」の領有という倫理的な問題など、考えるべき課題を後に残す展示だった。

2019/02/09(土)(高嶋慈)

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六本木クロッシング2019展:つないでみる

会期:2019/02/09~2019/05/26

森美術館[東京都]

3年に一度の日本人作家による現代美術展。今回のテーマは「つないでみる」。確固と「つなぐ」のではなく、とりあえずつないでみる(けどなにかあれば離すかも)的な腰の引け方だ。それをさらに「テクノロジーを使ってみる」「社会を観察してみる」「ふたつをつないでみる」の3つの「してみる」に分けている。まあ見るほうにとってはテーマも分類もどうでもよくて、有望な作家、おもしろい作品に出会えればそれでいいのだ。

ヘンタイ趣味のアンドロイド社長と女生徒との恋愛を描いてみた林千歩の映像+インスタレーション《人工的な恋人と本当の愛–Artificial Lover & True Love–》は、まさに上記3つの分類を合体させたような作品。これは笑えた。目 は一室全体に黒く波立つ水面を現出させてみた。地上53階に、津波のような黒い波が凍結した姿はなんとも不気味。かつてターナーは嵐の海を描くとき、船のマストに自分の身を縛りつけてスケッチしたというくらい、刻々と変化する流体を静止像に置き換えるのは難しい。《景体》というタイトルどおり、景色を立体化したものでもある。すごいのは、見たところ表面につなぎ目がないし、いったいどうやってこれを搬入したか、そもそも内部はどういう構造になっているか皆目わからないことだ。

川久保ジョイは壁にマーブリングしたような模様を描いてみたが、これは壁面を削って何層にも塗り重ねられた下地を出し、新興企業向け株式市場ナスダックの今後20年の予測グラフを表わしたのだそうだ。市場予測が壁の下から浮き上がってくるというギャップがすばらしい。万代洋輔は不法投棄されたゴミを集めて富士山の樹海などに運び、立体作品をつくって撮影してみる。ゴミが主役に返り咲いた瞬間の肖像というべきか。杉戸洋はキャンバスの木枠や布を並べてみることで、絵画の成立現場に立ち会わせてくれる。と同時に、エルゴン(作品)とパレルゴン(作品の付随物)の交換可能性を示唆してもいる。出品作家は計25組におよぶが、この5組を見られただけでもいい展覧会だった。

2019/02/08(金)(村田真)

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長島有里枝「知らない言葉の花の名前 記憶にない風景 わたしの指には読めない本」

会期:2019/01/26~2019/02/24

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

天野太郎の企画で横浜市民ギャラリーあざみ野で開催される「あざみ野フォト・アニュアル」を、毎年楽しみにしている。今年の長島有里枝の写真展も、よく練り上げられたいい展示だった。

長島が2008~2009年に『群像』に連載し、2009年に単行本として刊行されたエッセイ集『背中の記憶』を起点として制作された3つの作品が出品されている。「知らない言葉の花の名前」は、植物の名札にフォーカスして撮影したシリーズで、花の名前は読めるが、その意味はわからないし、花そのものも写っていない。「記憶にない風景」は、なぜ撮ったのか忘れてしまったような断片的な画像を、木製のボードに感光性のエマルジョンを塗ってプリントし、家具のように組み立てて配置している。「私の指には読めない本」は全盲の女性に点字の『背中の記憶』を通読してもらい、彼女がマークした箇所と読み進めている指をクローズアップで撮影したシリーズである。3シリーズとも、「見ること」は本当に「理解すること」につながるのかという問いかけに対する真摯な回答になっており、長島自身の写真家と文筆家というあり方をも問い直す作品として、しっかりと組み上げられていた。

作品の内容に直接かかわるわけではないのだが、会場に掲げられた以下の注意書きが気になった。

「作品にはお手をふれないでください」、「作品に寄りかかったり、くぐったりしないでください」、「結界のなかに立ち入らないでください」。

主に子どもに向けて注意を促す表示として、まったく妥当な内容である。だが、今回の長島の作品のあり方と照らし合わせて、やや違和感を覚えてしまった。というのは、木製ボードにプリントした「記憶にない風景」や、ロールサイズの印画紙を断裁して引き伸ばした「私の指には読めない本」は、どうしても「触ってみたくなる」作品だからだ。子どもや目の不自由な人が手で触れて、汚れたり、壊れたりしてもいいような展示の仕方も、選択肢としてあるのではないだろうか。

なお、これも例年通りに、同館の2階スペースでは横浜市所蔵の「ネイラー・コレクション」による企画展が開催されていた。ユニークなコンセプチュアル・フォトをつくり続けている野村浩が構成した、今回の「暗くて明るいカメラーの部屋」は、見応えのある面白い展示である。19世紀以来の写真を巡る、小さな旅を楽しむことができた。

2019/02/08(金)(飯沢耕太郎)

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公文健太郎「地が紡ぐ」

会期:2019/01/15~2019/02/13

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

前作の「耕す人」(2016)で日本の農業をテーマに力作を発表した公文健太郎の新作展である。今回はさらに視点を広げ、それぞれの土地に根ざした人々の生活の営みや文化に目を向けている。

3部構成の第1章の「神事を受け継ぐ地」では、青森県下北郡東通村の鹿橋(ししばし)という集落に伝わる「能舞」を取り上げた。先祖代々受け継がれてきた神楽がどのように住人たちの生活に溶け込んでいるかを、舞いに使う面のクローズアップも含めて丁寧に追っている。第2章の「自然の恵みを享受する地」では、栃木県那須郡那須町湯本の湯治場を撮影した。ここでも、大地の恵みといえる温泉が住人たちの暮らしのなかに取り込まれている。第3章「ものづくりで生きている地」のテーマは、生活雑器の国内シェアの4分の1以上を生産しているという長崎県東彼杵郡波佐見町の中尾郷である。「おれらは土を喰って生きてきたんじゃ」と語る94歳の老陶工を中心に、日本の窯業の現状に迫っている。

3つの章はそれぞれ違った方向を向いているが、それらが噛み合うことで、2010年代後半の日本の社会・文化の基層を浮かび上がらせる構成がとてもうまくいっていた。写真を天井から吊るすなど、会場のインスタレーションもよく考えられており、公文の表現力の高まりを感じることができた。彼はいま次の作品として「川」と「半島」の写真を撮り始めているという。文字通り「地に足がついた」写真家として、さらなる展開が期待できそうだ。

2019/02/07(木)(飯沢耕太郎)