artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
「仮留(かす)める、仮想(かさ)ねる 津波に流された写真の行方」展
会期:2019/02/23~2019/02/24
ららぽーとEXPOCITY 光の広場[大阪府]
宮城県亘理郡山元町において、東日本大震災による津波に流された写真約80万枚を洗浄、デジタル・データベース化し、持ち主に返していくプロジェクト「思い出サルベージ」。被災写真救済活動のひとつのモデルをつくったこの活動から派生的に展開している「LOST&FOUND」プロジェクトは、損傷が激しく持ち主の判別が難しいと判断された写真を譲り受け、国内外の美術館やギャラリーでの展示を行なってきた。
「思い出サルベージ」と大阪大学の共同主催による本展では、持ち主への返却が難しい被災写真約8,000枚が展示された。企画者は、「関西災害アーカイブ研究会」のメンバーである3人の研究者(岡部美香(大阪大学人間科学研究科准教授)、溝口佑爾(関西大学社会学部助教)、高森順子(愛知淑徳大学コミュニティ・コラボレーションセンター助教))。これまでの「LOST&FOUND」の展示活動と異なり、本展の最大の特徴かつ挑発的な点は、開催場所がホワイトキューブではなく、あえて「ショッピングモール」という商業空間を選択したことだ。それは、いくつもの矛盾や裂け目がせめぎ合い、反発し合いながら、無数の意味の層と問いを連鎖的に生み出していくような場をつくり出していた。
休日の買い物客でにぎわうショッピングモール。通路の交差する中央の吹き抜け空間。通常はライブやトークショーなどの華やかなイベントが開催されているであろうその広い空間に、約1m四方の正方形の低い台が並べられ、50枚ほどの写真がびっしりと敷き詰められている。そのほとんどはL判の家庭用プリントだが、激しい引っ掻き傷のように、あるいは焼け焦げた跡のように、画像は白く消え失せ、マーブル状に混じり合ったインクが画面を覆っている。一枚一枚に目を凝らすと、旅行先や結婚式、宴会、子どものスナップ、卒業式や運動会などの行事を写したと分かる写真もあれば、ほとんど真っ白に消失し、何が写っていたのか定かではない写真もある。
これらは「二重の痕跡」を刻印された写真である。被写体の人々の(多くは人生のかけがえのない瞬間の)記憶の断片であり、かつ津波を受けた痕跡を有すること。そして第二の「痕跡」が第一の「痕跡」を上書きし、かき消そうとしていくさまは、(被写体の多くが「人物」であるからこそ)彼らの身体に無残にも付けられた「傷」を否応なく想起させる。それは、「写真」であると理解しつつも、悪寒のように襲ってくる直感的な想像である。
ここに、写真(紙焼き写真)が写真であることの本質的な矛盾が顔を出す。それは、誰かの記憶が焼き付けられたイメージであり、時に本人の存在と等価にまで近づき、同時に物質でもある。ほぼ真っ白になった写真であっても、洗浄と保管の対象となる。被写体が何か/誰であるかにかかわらず、ただ「写真である(あった)」という一点のみが、これら無数の被災写真の「救済」を等しく支えている。
また、一枚一枚の写真に目を通していくうちに、「被写体の人物の顔が消去されている」という共通点に気づく。「持ち主への返却が難しい」理由のひとつはここにある。それは、「固有の顔貌の消去」という暴力的な事態を想起させる一方で、「写真を見る者が自身の記憶をそこに投影し、代入できる想像的余白」としても働く。
同時にそこには、「傷、トラウマ、時制(の混乱)」をめぐるメタフォリカルな事態を読み込むこともできる。写真の表面を覆う津波の痕跡は、過去に起きた出来事の傷痕でありつつ、写された人々は今も渦巻く水に飲み込まれ、炎に包まれているように見える。それは、「受難の瞬間を凍結された現在」という矛盾した時制を生き続ける。
一方で、これらの被災写真が美の観想のための場ではなく、「ショッピングモール」という空間に置かれることで、さらなる意味の層が輻輳的に発生する。ポジティブな側面としては、展示目的でない通りがかりの来場者も巻き込み、ホワイトキューブにおける「展示」が暗黙のうちに要請する「厳粛な気持ちで見なければならない」という倫理的要請や心理的バリアを解除し、あるいは「美的なものとして眼差してしまう」罪悪感を和らげるだろう(例えばホワイトキューブでの展示は、絵具の飛沫が飛び散ったような被災写真を、ゲルハルト・リヒターの《オーバー・ペインテッド・フォト》に重ねる視線を誘発しうる)。その一方、「ショッピングモール」という消費資本主義の象徴空間に異物として置かれることで、これらの写真は、「消費の快楽と忘却、不快なものの排除」という消費資本主義空間の暴力性に晒されてもいる。館内アナウンス、各店舗から流れる大音量のBGM、買い物客のざわめき、子どもの歓声……。周囲のノイズが絶えず観想を妨げ、音響が剥き出しの暴力として襲ってくる。それは、「ショッピングモール」という具体的な場のみならず、東京オリンピックと大阪万博へと向かう日本社会全体を覆い尽くそうとする明るくも暴力的な力であり、その意味でこれらの写真は「津波」に続く「二度目の暴力」に今まさに晒されているのだ。
「写真を元の持ち主に返す」目的で出発し、個人の宛先を想定した活動の過程で、持ち主不明となった写真が次第に集合体を形成し、保管や展示の対象となり、一種の公共財として次第にアーカイブ的な性質を帯びること。「個人的な思い出」として完結していた存在が、公共空間での展示により、上述のような複数の意味の層を発生させ、問題提起し始めること。アーカイブは静的な場ではなく、読み取る視線によってこそ活性化し、内部で変容を遂げていくのだ。
この点において本展は、通行人をも注視する眼差しに変える、いくつかの秀逸な仕掛けを用意していた。まず、壁によって境界画定された場ではなく、出入り自由なオープンな場に、水平の平台を仮設的に設置したこと。台の「低さ」も意図的な選択だ。近づいてよく見ようとする者は、必然的に屈みこまねばならない。「屈みこむ」という身体的なアクションが、注視の姿勢へと誘う。「低さ、見にくさ」というハードルは、むしろ見る者の能動的な関与を引き出す触媒として作用する。そして、鑑賞者は、「気に入った(気になった)写真を1枚だけ選び、ポラロイドカメラで撮影し、現像を待つ間、スケッチブックにコメントを書き込む」ように勧められる。ポラロイドカメラの手軽さ、記念撮影的な楽しさ、写真を貼るマスキングテープやカラフルなペンも用意され、参加する人も多かった。それぞれの視線で切り取られた展示の記録と言葉が、スケッチブックに蓄積されていく。
「1枚だけ選んでよい」という仕掛けも秀逸だ。自分の記憶と重なるような写真、感情的に揺さぶられた写真、色合いが「美しい」と感じられた写真……。自分にとって何かを訴えかける写真を選ぼうと一枚一枚に目を凝らす鑑賞者は、「流された写真を探す」被災者の目線を擬似的にトレースし、追体験するようになる。それは、「他人の撮ったアマチュア写真を見る」という経験につきまとうバリア(無関心や退屈さ、他人のプライベートを覗き見する気まずさ、倫理性、被災者/非当事者という距離)をゆるやかに解除し、元のアルバムから引き剥がされて「津波の被害を被った写真」としていったん一般化・集合化されたものを、再び個別的な唯一無二の存在へと回帰させていくのだ。また、「ポラロイドカメラで複写する」行為は、「記憶に留めたいものを写真に撮ることで、イメージの世界に結晶化させる」、すなわち自らの手中に留められないものを永遠化するために写真を撮るというささやかな欲望が、これらの膨大な写真を撮った人々と同様、自身の内にも内在することを再確認するだろう。
「災害の記憶の保存と継承」から出発し、写真論的な観点(写真の抱え込む複数の矛盾の開示)、アーカイブの機能、展示装置、社会批判、記憶の分有の可能性といった幅広いトピックスについて示唆的な問いを投げかける、極めて意義深い企画だった。
2019/02/24(日)(高嶋慈)
国立西洋美術館開館60周年記念 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ──ピュリスムの時代
会期:2019/02/19~2019/05/19
国立西洋美術館 本館[東京都]
日本で唯一のル・コルビュジエの建築作品である国立西洋美術館で、ル・コルビュジエの展覧会が開催されるとあらば、これほど話題性に富んだ話はない。しかも同館は「ル・コルビュジエの建築作品──近代建築運動への顕著な貢献」の1資産として、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されたばかりである。いったいどんな展示内容になるのかと思えば、焦点を当てたのは、ル・コルビュジエの“原点”だった。ル・コルビュジエが建築家として本格的に活動を始める前、絵画を通して「ピュリスム(純粋主義)」の運動を推進した頃から、代表作「サヴォワ邸」を設計した頃までの10年間に焦点を当てたのである。
1918年末のパリで、ル・コルビュジエは画家のアメデ・オザンファンとともに冊子『キュビスム以後』を発行し、ピュリスムを宣言する。当時、パリの美術界で注目を浴びていたキュビスムを批判し、新しい芸術論を展開するのだが、幾何学を用いて構成する手法はキュビスムとよく似ていて、その違いについて解説されているものの、いまひとつピンとこない……。と思っていたら、最終的にル・コルビュジエはキュビスムを認めて、積極的に紹介する立場へと変わっていくため、やや肩透かしを食らってしまった。それでも平面図と立面図を合体させた独特の構成や、黄金比を用いた計算し尽くされた構成などは、ル・コルビュジエらしく、その後に建築家として開花していく予感をすでにはらんでいた。
個人的には、ル・コルビュジエの絵画にとても好感を持った。正直、ル・コルビュジエが描いた絵画を何作もじっくりと鑑賞したのは初めてのことかもしれない。まさに絵画からル・コルビュジエの思想の変遷を垣間見ることができ、これはこれで大変興味深かった。その多くが静物の抽象画である。瓶やグラス、ランタン、ギター、本などの日用品が抽象化され、それらが規則的に配置され、制御された色と色とが重なり合い、複雑に見えるようで秩序立った世界として描かれている。何と言うか、心地が良いのだ。誤解を恐れずに言えば、アンビエントミュージックならぬ、アンビエントアートのような存在に感じた。空間を構成するように絵画を構成すると、このような世界が生まれるのか。複製画でいいので、叶うなら、わが家のリビングにも掛けたいと思った。
公式サイト:https://www.lecorbusier2019.jp
2019/02/24(杉江あこ)
フェルメール「音楽と指紋の謎」展
会期:2018/12/15~2019/02/24
恵比寿三越2階[東京都]
分子生物学者の福岡伸一ハカセの監修で、フェルメールが描いた当時と近い状態に絵画を復元した「リ・クリエイト」展。何年か前に銀座でも見たが、今回はそれに加えて「音楽と指紋の謎」に迫るというから、だまされたつもりで見に行く。まずはリ・クリエイトのフェルメールを堪能する。仮設壁を立てた催し物会場にフェルメール作品が何枚も並ぶさまは、壮観というか哀れというか。いくら原画に忠実でもしょせん複製画だし、なにより仮設壁の隙間から隣の売り場の声が聞こえてくるし……。
計37点のリ・クリエイトを見終わったら「音楽の謎」のコーナー。これは、フリック・コレクションの《中断された音楽の稽古》に描かれた楽譜を可能な限り再現し、古楽器で演奏してみる試み。その前提として、フェルメールが正確に音符を写し取っていなければ意味ないが、そこは科学者の直感、フェルメールはテキトーに写したりはしないという確信があったという。しかしこの作品は《リュートを調弦する女》と同じく傷みが激しいので、五線譜もほとんど消えていて音符の解読は困難をきわめたそうだ。それでもどうにか再現に成功し、古楽器の奏者に弾いてもらったという。その音色はなんともシンプルな味わい。ハカセは科学者として、文筆家として多忙なはずなのに、よくここまでやったもんだ。本業は大丈夫かと心配になる。
「指紋」のほうは、現在国立西洋美術館に寄託されている《聖プラクセディス》の画面から指紋を探し出し、ほかの作品の指紋と比べてみるプロジェクト。なぜそんなことをするかというと、同作品がイタリアの画家の宗教画を模写したフェルメールの初期作品と認められたのはつい20-30年前のことだが、最近再び疑われ、35点といわれる真作から外されるようになったからだ。その画面についた指紋がほかの作品の指紋と一致すれば、再びフェルメールの真作の可能性が高くなるわけだ。発想は科学者らしいが、これは音符の解読以上に困難が伴う。というのも、指紋を探し出せてもそれがフェルメールのものだという確証はないし、仮に2枚の絵から同じ指紋が検出されたらフェルメールの可能性は高まるけど、ひょっとしたら奥さんか画商の指紋かもしれないのだ。この研究は継続中らしいが、自画像も手紙も残されていない画家だけに期待は高まる。
2019/02/23(土)(村田真)
META─日本画のワイルドカード─
会期:2019/02/20~2019/03/03
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
タイトルからして「日本画」を超えるとんでもない作品が並ぶのかと思ったら、そのとおりだった。出品作家は計11人で、どういうつながりかは知らないが、いずれも「日本画を踏襲したアーティストたち」のグループだそうだ。
第1展示室の吉田有紀は、五角形や六角形のパネルにラッカーやアクリル絵具で抽象形態を描いたり、表面に水玉を描いた縦長パネルを何十枚も並べて円筒形の小部屋をつくり、内部に入れるようにしたインスタレーションを出品。これのどこが日本画だ? 第2展示室の梶岡俊幸は、壁を突き抜けるように黒い巨大なパネルを斜めに展示している。まるでリチャード・セラ。よく見ると表面には水流のような模様が印されている。第4展示室の吉澤舞子の《Numb》は、図柄こそグループのなかではフツーだが、パネルを15枚つなげた全長15メートルのサイズはフツーじゃない。だいたいこの人たち、巨大な作品を好むようで、吉田の円筒形の作品《カオスとコスモス》も延ばせば11メートル以上あるし、梶岡の2室にまたがる《never》もつなげれば11メートル近い。作品が巨大だから県民ギャラリーを選んだのか、会場が広いから作品を巨大化させたのか……。
フィジカルな話ばかりで恐縮だが、第5展示室の木島孝文の《A.R.#995“Veronica” ヤギの王、蛇と鳥》もすごい。全長こそ吉澤に4メートルほどおよばないものの、表面にセメント、タイル、漆喰、鉄、砂などを塗り込めていて、総重量では間違いなく一番だろう。いずれにせよ搬入・搬出が大変だろうな、その後どこに保管するんだろうと余計な心配までしてしまう。その点、市川裕司の《Japanese Tree Ⅲ》は比較的楽そうだ。ビニールの球体の表面にアルミ箔などを貼って内部から照明を当てたもので、いかにも軽そうだ。会期が終われば空気を抜くのだろうか。
やっぱりこれでもまだ「日本画」を主張するのだろうか。
2019/02/22(金) (村田真)
真鍋奈央「波を綴る」
会期:2019/02/22~2019/04/07
入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]
入江泰吉記念奈良市写真美術館では、隔年で入江泰吉記念写真賞の公募を行なっている。前回の第2回公募からは、同賞の受賞者の展覧会を開催するとともに写真集を制作するようになった。今回の第3回公募で受賞したのは、真鍋奈央の「波を綴る」である。
1987年、徳島県生まれの真鍋は、高校の時にハワイに留学したのをきっかけとして、そこで出会った人たちや風景を撮影し始めた。帰国後にビジュアルアーツ専門学校大阪の写真学科で学ぶが、ハワイの写真はずっと撮り続けていた。今回の受賞作品は、それらをモロカイ島、オアフ島、ハワイ島、マウイ島の4つの島ごとに再構成したものである。ハワイの光と風を全身で受け止め、6×4.5判のカメラで定着した写真群は、彼女の主観的な解釈を押し付けるのではなく、被写体に寄り添うように注意深く撮影されている。とはいえ、一枚一枚の写真に畳み込まれた経験の厚みと蓄積は、しっかりと伝わってくる。出来合いのストーリーに寄りかかることなく、彼女自身の目と心の遍歴が綴られていくのだ。
特筆すべきは、写真展と同時に刊行された写真集『波を綴る』(入江泰吉記念写真賞実行委員会)の出来栄えである。白を基調にした松本久木のデザインは、ハワイというやや特異な場所に漂う、生と死が綴れ織りのように絡み合う気配を見事に浮かび上がらせる。4つの島の写真群をそれぞれミシン綴じの写真集にまとめ、それらをさらに貼り合わせて一冊にすることで、真鍋の意図を受け止めながら、それをさらに増幅して普遍的な視覚的経験として提示することに成功していた。
2019/02/22(金)(飯沢耕太郎)