artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
伊丹豪「photocopy」
会期:2018/02/13~2018/03/03
The White[東京都]
伊丹豪が2017年にedition nordから出版した『photocopy』は意欲的な造本の写真集だった。ページが全部バラバラになっていて、一カ所だけピンで留めてある。つまり、横にスライド(回転)しないと写真図版が見えないようにつくられているので、否応なしに一枚の写真だけではなく、その前後の複数の写真が目に入ってくることになる。「何の疑いもなく本をめくること、見たような気になることへの批評」として組み上げられたこの写真集は、トリッキーだがスリリングな視覚的な体験を味わわせてくれるものだった。
今回の伊丹の個展では、「その本の構造を逆手にとり、逆のアプローチで空間構成を試み」ている。具体的にはプリントの大きさを極端に変え、フレーム入り、アクリル裝、直貼りなど多様なやり方で壁に写真を並べるやり方だ。こちらは一枚の写真に視線を収束させることを回避し、部屋全体の空間を一挙に体験させようというもくろみである。
それはそれでうまくいっているとは思うが、このような「ティルマンス展示」はこれまでも多くの写真家たちが試みているので、それほど新鮮味はない。それとともに、人、モノ、建物などが混在する都市空間を縦位置で切り取ったイメージ群が、どんな論理で(あるいは非論理)で構築されているのかが、あまり明確に伝わってこない。写真の見せ方へのこだわりから一歩進めて、一枚一枚の写真の意味(あるいは非意味)の連なりの必然性へと観客を導いていく枠組みが必要になるのではないだろうか。
2018/02/14(水)(飯沢耕太郎)
アーツ・チャレンジ2018
会期:2018/02/14~2018/02/25
愛知芸術文化センター[愛知県]
公募の審査を担当したアーツ・チャレンジのオープニングに出席した。会場となる愛知芸文センターは、現在、改修中だが、もともとこの企画は非展示室を使うことを主旨としていたことから、大きな影響は受けなかった。むろん、いくつかの展示場所は減ったが、作家の数が減ったことで、より精鋭が揃う結果となった。今年は第10回のアーツ・チャレンジになるが、アートの想像力によって、まだこんな空間の使い方もあるのかという発見がもたらされたり、逆にアーティストには普段のホワイト・キューブと違う空間に挑戦してもらうケースもあった。
まず地下の入口では、椋本真理子のポップでミニマルな土木彫刻(ダムやプール)が出迎える(いずれも円形であり、吹き抜けの上部から見ると面白い)。続いて、左のアートプラザ内のビデオルームでは、山本愛子が繭糸を使い、音を可視化する繊細なランドスケープを四畳半サイズの台の上で構築する。そして小宮太郎がさまざまな色のマスキングテープを駆使して、既存のドアを擬態する作品(このエリアは通常、絵画を置く)、通路に並ぶ8つの小さな展示ケースを漫画のコマに見立てた小笠原周によるボクシングの彫刻群、物語化されないドローイング群でスペースXを埋め尽くす小松原智史(期間中も会場にいて、描き続け、作品が増殖した)は、これまでのアーツ・チャレンジにない場所の使い方を提案した。音に誘われ、外部の地下階段を上ると、わらべうたのリサーチをもとにした佐藤美代による完成度が高い映像作品がさまざまなバリエーションを用意し、鑑賞者を飽きさせない。一通り映像を見たあと、階段を下りると、今度は大きな箱からピンポンがゆっくりと落ちていく段差を利用した道楽同盟の作品に気づく。最後は𠮷田絢乃である。渋谷のMONSTER展では小品だったが、今回、彼女はひだと地層の絵が壁を覆う大作に挑戦した。
2018/02/14(水)(五十嵐太郎)
桑久保徹展「A Calendar for Painters Without Time Sense 1.3.4.5.7.8」
会期:2018/1/20~2018/2/17
小山登美夫ギャラリー[東京都]
最初に出くわすのは、数十本のイーゼルに掛けられたキャンバス画のある海辺の風景画。画中のキャンバスに描かれているのは《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》や《アニエールの水浴》など、スーラの絵だとわかる。画面全体も点描で表わされている。タイトルは《ジョルジュ・スーラのスタジオ》。これを含めて、150号ほどの大作ペインティング6点の展示。いずれも海辺を背景にした巨匠たちのスタジオという設定だ。鮮やかな紺色の空の下、《タンギー爺さん》や《星月夜》が並ぶのはもちろん《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》。セザンヌのスタジオの背景にはサント・ヴィクトワール山がそびえ、ピカソのスタジオは《ゲルニカ》に合わせて白黒だ。うれしいことにフェルメールのスタジオもあって、フェルメール作とされる37点すべてを描き込んでいる。意外なのは《キリストのブリュッセル入城》をメインとしたアンソールのスタジオ。6点の中にアンソールを入れるというのはかなりの冒険だ。
さてこのシリーズ、方法は異なるけれど末永史尚の「サーチリザルト」と同じく、かつてコレクターがカタログ代わりに自分のコレクションを画家に描かせた「ギャラリー画」の現代版といってもいいものだ。それだけではない。この6点に対応して鉛筆のドローイングもあり、なぜかカレンダーがついている。ピカソは巨匠中の巨匠ということで1月、フェルメールは描き始めた時期に合わせて3月、アンソールはピンク色の印象が強いので桜の季節の4月、というふうに決められている。もうひとつおまけに、ドローイングの上に1枚ずつレコードがついていて、各画家にインスピレーションを得た日高理樹の曲が録音されているという。ほしくなってまうやろ!
2018/02/14(村田真)
野村次郎『茜と梅』
発行所:赤々舎
発行日:2017/11/01
野村次郎は「日常」を撮影し続けている写真家だ。身近な人物たちや周囲の状況、日々の移ろいなどをカメラにおさめていく行為は、もはや日本人の写真表現のベースになっていて、これまでも多くの作品が発表されている。だが、野村が刊行してきた写真集『遠い眼』(Visual Arts、2009、第7回ビジュアルアーツアワード受賞作)、『峠』(Place M、2012)、そして本作『茜と梅』を見ると、そこに漂っている空気感が、ほかの写真家たちの「日常写真」とはかなり違っていることがわかる。中判カメラで撮影され、モノクロームにプリントされた写真の一枚一枚は、鋭いエッジのナイフで切り出されたような緊張感を湛え、タナトスの気配が色濃く漂っている。写真を見ていると、じわじわと「怖さ」に捕われてしまうのだ。
野村は一時期「引きこもり」になり、精神的に不安定な時期を過ごしたことがあった。その後、「茜ちゃん」と出会って結婚し、犬を飼い始めて小康を得る。だが、精神状態の微妙な変化に対応する日々はいまも続いているようだ。野村にとって、写真を撮ることは、ともすれば向こう側に大きく振れてしまう自分自身を保ち続けるための緩衝剤の役目を果たしているのではないだろうか。本作に登場する「茜ちゃん」と彼女を包み込む世界は、ほのかな微光に包まれているように見える。ぎりぎりの綱渡りでつくり上げられてきた写真たちにも、以前に比べると柔らかなふくらみがあらわれてきた。撮り続けることと生きることとのバランスをうまく保ち続けて、繊細だが強い吸引力を持つ作品世界を、より大きく育てていってほしいものだ。
2018/02/13(火)(飯沢耕太郎)
至上の印象派展 ビュールレ・コレクション
会期:2018/02/14~2018/05/07
国立新美術館[東京都]
「至上の印象派展」とうたっているけれど、印象派の作品は(ポスト印象派を含めても)全体の半分にも満たない。時代順にいうと、17世紀オランダのフランス・ハルスから、18世紀のカナレット、グァルディ、19世紀のアングル、ドラクロワ、コロー、クールベ、マネ、そして印象派およびポスト印象派のモネ、ピサロ、シスレー、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンと来て、20世紀のボナール、ヴュイヤール、ピカソ、ブラックと続く。いってしまえば近世・近代の「泰西名画展」。なのになぜ「印象派」を前面に出すのかというと、ビュールレにとってコレクションの核はあくまで印象派であり、それ以外の作品は印象派へと至る道筋を示すために選ばれたものだからだ。
なるほどそういわれれば、素早い筆触を残すフランス・ハルスも、光あふれる風景を描いたカナレットも、鮮やかな色彩と荒いタッチのドラクロワも、印象派の先鞭をつけた先駆者に位置づけられるし、ボナールやピカソらはいうまでもなく印象派・ポスト印象派の成果を発展させた後継者だ。しかし裏返せば、彼らは印象派を際立たせるために動員されたダシにすぎないともいえるわけで、そんなものに大枚はたいてオールドマスターズを購入するビュールレの執念深さというか、コレクター根性に改めて感心するほかない。カタログでは、印象派が登場した1875年から2005年まで、10年ごとの印象派のプライベートコレクターを世界地図を使って図示している。この130年ほどのあいだに欧米を中心に50人ほどの印象派コレクターが登場しては消えているが、うち名前の挙がった日本人は川崎造船の松方幸次郎(1915-25)、倉敷紡績の大原孫三郎(1925-35)、ブリヂストンの石橋正二郎(1925-45)、ポーラの鈴木常司(1965-2005)の4人のみ。これじゃかなうわけないよ。
個々の作品を見ていくと、ドラクロワの《モロッコのスルタン》は小品ながらヴァーミリオンが効いて熱さが伝わってくる。セザンヌの《庭師ヴァリエ(老庭師)》は未完成ゆえ制作過程が生々しく残る。ボナールの《アンブロワーズ・ヴォラールの肖像》にはセザンヌの画中画が入っているし、同じくボナールの《室内》は鏡を巧みに配して画面を構成している。ゴッホの《日没を背に種まく人》は、同じ構図の《種まく人》が先日まで「ゴッホ展」に出ていたが、オリジナルはビュールレのほうだそうで、サイズもでかい。余談だが、モネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》、ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》、セザンヌ《赤いチョッキの少年》、ゴッホ《花咲くマロニエの枝》の4点は10年ほど前に盗難にあったもので、いずれも100億円前後の値がつきそうな作品ばかり。
2018/02/13(村田真)