artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
第16回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 千賀健史展 Suppressed Voice
会期:2018/01/30~2018/02/16
ガーディアン・ガーデン[東京都]
1982年生まれの千賀健史は、第16回「写真1_ WALL」展のグランプリ受賞者である。受賞作は教育問題に直面するインドの若者たちのドキュメンタリーだったが、1年後の今回の展示では、その取材の過程で出会ったひとりの少年にスポットを当てていた。成績優秀で、大学進学を目指していた彼は、ある日突然学校に来なくなった。調べてみると、兄に命じられて学校を辞めて働かざるを得なくなったことがわかった。千賀は母親から聞いた携帯電話の番号を辿って、彼が1500キロ離れた南インドの街で服屋の店員として働いていることを突き止める。今回の展覧会には、その探索のあいだに撮影された写真と映像、少年が学校で使っていたノートのコピーなどが展示されていた。
千賀が取り上げた事例は、児童労働従事者が400万人ともその倍ともいわれるインドでは、よくある出来事である。この「小さな物語」は、だが逆にインドに限らず、過酷な生の条件を背負わざるを得ない少年・少女たちの状況へと見る者を導く普遍性を備えているともいえる。千賀はその出来事を伝えるために、従来のドキュメンタリー写真とはかなり異質の方法を取ろうとした。壁に写真を撒き散らすように並べるインスタレーションも、テキストや映像を一緒に見せるやり方も、ややとっつきにくいものに見えるかもしれない。だが、そんな模索を続けるなかで、多次元的な構造を備えた「ニュー・フォトジャーナリズム」の文法が、少しずつ形をとっていくのではないだろうか。次の展開を充分に期待できる内容の展示だった。
2018/01/31(水)(飯沢耕太郎)
未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展
会期:2018/1/13~2018/3/4
国立新美術館[東京都]
文化庁が続けている新進芸術家海外研修制度(かつて在外研修制度と称していたため「在研」と呼ばれる)の成果を発表する展覧会。在研はすでに半世紀の歴史があるが、展覧会は今年で20年。今回は1975-88年生まれで、ここ5年以内に研修経験を持った11人のアーティストが出品。中谷ミチコは粘土で人物や動物の彫刻をつくり、それを石膏で型取って雌型にし、そこに着色した樹脂を流し込んで固めた一見凹型レリーフながら表面は平らという、ユニークな彫刻を制作している。ドレスデン滞在を経て作品はより大きく、より複雑になった。今回は壁に掛けるのではなく材木を組んだ上に展示したため、裏側がどうなっているのかという好奇心にも答えてくれている。研修先にケニヤを選んだ西尾美也は、街ですれ違った通行人と衣服を交換して写真に撮るというプロジェクトを続けているが、今回はケニヤ人に東京に来てもらいその役を託した。その結果、パツパツの女性服を着た大きなケニヤ人と、ダブダブの革ジャンを羽織った小柄な日本人という対照的な構図ができあがった。そのほか、日本各地で発掘された陶片と、明治期に来日したエドワード・モースを結びつけるインスタレーションを発表した中村裕太や、戦前は体操選手としてベルリン五輪に出場し、戦後は尺八奏者として活躍した人物の生涯をフォトグラムによって表わした三宅砂織など、日本を相対化してみせた作品に興味深いものがあった。
いずれも仮設壁で仕切られた空間内で行儀正しく作品を見せているが、そうした展覧会の枠組みそのものを問おうとした作家もいる。雨宮庸介は、過去につくられた作品を見せる場なのに、なぜ「明日展」なのか、しかもイタリア語なのかと疑問を投げかけた。これは実際だれもが思うところで、文化庁の林洋子氏もカタログ内で、「なぜ『明日』なのか、なぜイタリア語なのかというツッコミを受けつつも(それは20年前のムードとしかいまでは答えようがない)」と告白している。そこで雨宮は完成作品を展示するのではなく、「人生で一番最後に作る作品の一部を決めるための練習や遂行をしている」状態を現出させるため、その場で制作することにしたという。会場で作業している人を見かけたら、たぶん雨宮本人だ。体よく収まった展示より説得力がある。
2018/01/29(村田真)
キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917-2017「Case 5: 散種」
会期:2018/01/05~2018/03/11
京都国立近代美術館[京都府]
男性用小便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。最終回の「Case 5: 散種」でキュレーションを担当したのはアーティストの毛利悠子。毛利は、さまざまな日用品を音や光の出る機器と組み合わせ、オブジェたちが繊細でリリカルな即興演奏を奏でているかのような魅力的なインスタレーションをつくり出す。水やエネルギーの循環、自動運動機構に関心を持つ毛利は今回、デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》、1915-23)に着目。9人の男性独身者たちの性的な欲望がさまざまな装置を通過して抽出され、花嫁を刺激して脱衣させるという物語が、巨大な板ガラス上に奇妙な図像で描かれた《大ガラス》を、立体化・空間化する試みを展開した。
「《大ガラス》の立体化」の先例としては、例えばアプロプリエーションの作家、シェリー・レヴィーンによる《独身者たち》(1989)がある。レヴィーンは、《大ガラス》下部にある「9つの雄の鋳型」を金属やガラス製の彫刻につくり替え、一つひとつをガラスケース内に隔離。形象化された男性の欲望を安全に眺められるオブジェとして無害化し、かつ「眼差しに晒される商品」として欲望の主客を転倒させてしまう。
一方、毛利は、「花嫁」「3つのヴェール」「9つの雄の鋳型」「チョコレート磨砕機」「眼科医の証人」などと名付けられた《大ガラス》各部分に、自作の翻案的な装置、自然科学の模型、デュシャン自身の作品を当てはめて複合的に再構成した。特に、「9つの雄の鋳型」の部分には、デュシャン作品のミニチュアのレプリカを詰め込んだ《トランクの中の箱》と、精液で描かれた《罪のある風景》を配置し、密かな反撃を仕掛けている。また、《トランクの中の箱》の投入はジェンダーの言及だけにとどまらない。《トランクの中の箱》には《大ガラス》のミニチュアも含まれ、上部の「花嫁」の世界/下部の「独身者たち」の世界、そして上下を分断する「水平線」に対応するように、3つのレディメイドのミニチュアが収納されている。毛利は《泉》を含むこの3つのレディメイドを、立体化された《大ガラス》の横に再配置した。平面から3次元化された《大ガラス》の中にデュシャンの別作品を取り込み、さらにそこからもう一つの立体的配置を展開させる。一つの空間内に、入れ子状になった引用の連鎖が折り重なる。
《泉》の展示シリーズはこれで最終回となるが、「作家による個展であると同時に、コレクションの斬新な(時に反則的な)活用」という点でも興味深く、今後も同種の企画が続いてほしいと思う。
2018/01/28(日)(高嶋慈)
磯部昭子「LANDMARK」
会期:2018/01/06~2018/02/03
G/P gallery[東京都]
雑誌『サイゾー』の表紙は書店などで目にすることが多く、目に馴染んでいたのだが、磯部昭子が撮影していることは知らなかった。肌を多めに露出したタレントやアイドルをモデルに、オブジェを配置してトリッキーなアイディアの仕掛けをつくり、原色のバックで撮影したポートレートだ。写真が発している空気感、モデルたちのツルツルの肌の質感が、2010年代の「フェティッシュ」のあり方を見事に掬い上げている。商業雑誌の表紙に必要なのは、見間違えようのない特徴的なスタイルなのだが、それをあざといほどの巧みさで練り上げ、「サイゾー」っぽいイメージとして定着している手際は鮮やかとしか言いようがない。
ただ、それらをギャラリーの空間で見ると別物としか思えなくなくなってしまう。むろんそのあたりは磯部もよく承知していて、インスタレーションには工夫を凝らしているのだが、やはり雑誌の表紙として見たときのヴィヴィッドな存在感は薄れてしまっていた。とはいえ、コマーシャルとアートとの違いをあまり意識する必要はないのではないかとも思う。磯部の世代は、以前の写真家たちのようにアートに過大なコンプレックスなど持っていないはずだし、むしろコマーシャルで要求される価値観を逆手にとり、より大げさでキッチュな身振りで打ち出していく戦略をとったほうがいいのではないだろうか。展覧会にあわせて同名の写真集(サイゾー刊)も刊行されたが、こちらはアートにまったく媚びのない、清々しい内容に仕上がっていた。
2018/01/27(土)(飯沢耕太郎)
丹平写真倶楽部の三人展:音納捨三、河野徹、椎原治
会期:2018/01/06~2018/01/28
MEM[東京都]
丹平写真倶楽部は、1930年に大阪で設立されたアマチュア写真家クラブで、浪華写真倶楽部、芦屋カメラクラブとともに関西「新興写真」の一翼を担い、1940年代まで意欲的な活動を展開した。指導者であった安井仲治の作品は、これまでもたびたび紹介されてきたのだが、ほかのメンバーについてはあまり作品をきちんと見る機会はなかった。それでも、ソラリゼーション(白黒画像の部分反転)やガラス乾板に直接絵を描くフォトパンチュールなどの技法を駆使して、多彩な実験的な作品を残した椎原治の展覧会は、MEMでも何度か開催されている。だが、音納捨三や河野徹の仕事のまとまった紹介は、今回がほぼ初めてといってよいだろう。
河野は、戦後は瑛九が主宰するデモクラート美術協会にも参加し、丹平写真倶楽部の写真家たちのなかでは珍しく、ストレートな描写の作品を主に制作していた。音納は逆に印画紙の上に直接物体を置いて、光を当ててそのフォルムを写し取るフォトグラムの技法に徹底してこだわった写真家である。つまり、今回の三人展の出品作家たちの作風はかなりバラバラに引き裂かれているわけで、むしろそこにこそ丹平写真倶楽部というグループの特徴があらわれている。それぞれ、自分のやりたいことをやりたいように実践していく、いかにもアマチュア写真家らしい自由でのびやかな雰囲気が、短い期間ではあったけれども実りの多い成果を生んでいたということだ。丹平写真倶楽部に限らず、1930~50年代の関西地方の写真家たちの活動を、もう一度洗い直す必要があるのではないかと思う。
2018/01/27(土)(飯沢耕太郎)