artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
生誕100年 ユージン・スミス写真展
会期:2017/11/25~2018/01/28
東京都写真美術館[東京都]
本展はアリゾナ大学クリエイティヴ写真センター(CCP)が所蔵する2600点のW・ユージン・スミスのヴィンテージ・プリントから、約150点を選んで構成したものだ。むろんそのなかには、彼の代表作である「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「慈悲の人(シュヴァイツァー博士)」といった、1940~50年代に『ライフ』に掲載された名作も含まれている。だが、初めて目にする作品も多く、スミスの写真家としてのあり方を再考させる造りになっていた。
特に注目したのは1950年代後半から60年代にかけての「ロフトの暮らし」と題する写真群である。スミスは『ライフ』のスタッフカメラマンを1954年に辞めてから、「ピッツバーグ」のシリーズに取り組む。だが、この叙事詩を思わせる大作はなかなか完成せず、経済的に困窮し、家庭生活も破綻した。スミスは1957年にマンハッタン島北部のロフトに移転して一人暮らしを始めるが、アルコールとドラッグに溺れて、心身ともに極度の混乱状態に陥ってしまった。「ロフトの暮らし」は、まさにこの時期に撮影された連作で、『ライフ』時代の、ひとつのテーマや物語性への執着が薄れたことで、逆に彼の写真家としての地金が露呈しているように思える。極端に黒(闇)を強調したプリント、断片的で不安定な画面構成などは、ほかの時代には見られないものだ。このような混乱をステップボードにして、最後の作品になった「水俣」へと踏み出していったということがよくわかった。
CCP所蔵のユージン・スミスのヴィンテージ・プリントには、まだ未知の可能性が潜んでいる。その全体像が見えてくるような、ひとまわり大きな規模の展示も考えられそうだ。
2018/01/13(土)(飯沢耕太郎)
カオス*ラウンジ新芸術祭2017市劇場「百五〇年の孤独」
会期:2017/12/28~2018/01/28
zittiほか、泉駅周辺の複数会場[福島県]
福島のワークショップにあわせて、カオス*ラウンジによる新芸術祭に足を運んだ。が、行政の芸術祭とは違い、幟やポスターはなく、本当にここで開催しているのかと不安に思いながら、泉駅からそう遠くない住宅地にあるサブカルの古物(?)店に多くの作品がまぎれた第一会場へ。まず店内で珈琲をいただき、第一の手紙と地図を受け取る。それに従い、駅周辺をぐるぐる歩く(第二、第三の手紙もあり、次の目的地が示される)。それはこのエリアの近代における廃仏毀釈と黒瀬陽平らのリサーチをたどるツアーにもなっている。移転や区画整理された人工的な墓地などを鑑賞し、これから新しい寺を創設するという第二会場へ。力作である。建築の分野ではユニークな造形による現代寺院の試みはさまざまあるが、壁や襖などを使い、室内においてアートの側から新しい仏教美術が高い密度で展開されており興味深い。昨年、黒瀬が「地獄絵ワンダーランド」展(三井記念美術館)に高い評価をしていた背景も理解できる。
もう一度駅の反対側に渡り、坂を登っていく、最後の第三会場への道は正直ちょっときついが、日が暮れた暗闇のなか、ようやく到着した。ブラックライトに照らされた壊れたディスプレイ群が美しい。そしてアルミニウムで鋳造された鐘をついて帰路へ(この音が結構遠くからも聞こえる)。第二、第三会場の作品は、日中に鑑賞するよりも、周囲が暗いほうが迫力を増すように思われた。おそらく税金を使う通常の芸術祭だと、特定の宗教にフォーカスをあてるのは難しいだろう。自前の新芸術祭だから可能な内容だった。これは廃仏毀釈のあとにたどった歴史と、3.11からの復興の失敗を重ね合わせてもいるのだが、泉駅周辺を歩きながら思ったのは、このエリアが近代以前からの歴史をもった街にはまったく見えないこと(戦後に開発されたと言われても納得してしまいそうだ)。そういう意味では、ここも日本中のどこにでも起きている「見えない震災」が着実に進行していた場所なのだ。
2018/01/13(土)(五十嵐太郎)
中国革命宣伝画展
会期:2018/01/10~2018/01/30
明治大学博物館[東京都]
昨年、明治大学現代中国研究所編で白水社から出版された『文化大革命』の連動企画展。1966年から76年までの文化大革命時につくられたプロパガンダ用のポスターやビラなど100点以上を中心に、写真、毛沢東語録、バッジなども出品。ポスターやビラの原画は写真に基づいた絵が多いが、なかには歴史画のようなリッパな図柄もある。中国に現代美術が到来するずっと昔のことだが、こうした西洋的なリアリズム表現は、1938年に革命の聖地といわれる延安に創設された魯迅芸術学院が大きな役割を果たしたらしい。パンフレットによれば、「その手法は単純で、中国共産党史観に基づいて善悪を明確に区別し、無産階級の労働者(工)、農民(農)、軍隊(兵)のいわゆる「工農兵」を、それらを指導する毛沢東や共産党とともに大きく、明るく、爽やかに描き、国民党や日本軍、そして有産階級を卑屈に、小さく、暗く表現した」。なるほど毛はひときわ大きく、明るく、ハンサムに描かれている。あれ? 日本人は卑屈に、小さく、暗く描かれてたっけ? 小さすぎて暗すぎて気づかなかったかも。
2018/01/13(土)(村田真)
吉村朗遺作展 THE ROUTE 釜山・1993
会期:2018/01/12~2018/01/28
ギャラリーヨクト[東京都]
写真集『Akira Yoshimura Works──吉村朗写真集』(大隅書店、2014)の刊行を契機に、2012年に逝去した吉村朗の仕事の見直しが始まっている。そのなかで、写真展「分水嶺」(1995)以後の、韓国、中国などで撮影された、自らの家族史を、戦前・戦中の日本の侵略の歴史と重ね合わせようとした一連の写真群にあらためてスポットが当たってきた。だがそれ以前の、都市の光景にカメラを向けたカラー・スナップ作品については、その大部分が破棄されていることもあって手つかずのままだった。今回の「遺作展」に出品された36点は、アメリカの「ニュー・カラー」や牛腸茂雄の『見慣れた街の中で』(1981)に触発された初期のスナップショットと、「分水嶺」以降の作品のちょうど中間に位置するものといえる。
自室にまとまって保存されていたというやや色褪せたプリント見ると、吉村が韓国・釜山の路上を彷徨いながら、手探りで新たな方向性を見出そうともがいている様子が伝わってくる(一部中国で撮影された写真を含む)。写真の大部分は、ややローアングルのノーファインダーで撮影されており、画面が傾いているものも多い。その不安定な画像から色濃く滲み出してくるのは、違和感や不安感のようなややネガティブな感情だ。吉村はこの時点で、偶発的なスナップショットを続けていくだけでは、彼が構想しつつあったより政治性、社会性の強いテーマを定着するのは難しいと思い始めていたのではないだろうか。今後、さらに初期作品が出てくる可能性もある。『Akira Yoshimura Works』の拡大版の刊行も、そろそろ視野に入れてもいいかもしれない。
2018/01/12(金)(飯沢耕太郎)
無垢と経験の写真 日本の新進作家 vol. 14
会期:2017/12/02~2018/01/28
東京都写真美術館[東京都]
吉野英理香、金山貴宏、片山真理、鈴木のぞみ、武田慎平の5人展。この順に作品が展示されているが、見ていくうちに写真展から、写真も素材に採り入れた現代美術展へと趣を変えていく。そういえばタイトルも「日本の新進作家」であり、写真家に限定していない。金山は似たようなおばあさんばかり撮った見た目ふつうの写真だが、彼女らは統合失調症の母とその姉妹(作者からすれば叔母たち)。こういうきわめて私的な動機で撮った私的な写真を公表することには違和感を感じるが、その違和感がこの作品をふつうの写真から遠ざけている。片山はセルフポートレート写真を中心に、手づくりのオブジェやコラージュで構成したインスタレーションで、5人のなかでいちばん目立っている(浮いているというべきか)。本人はセルフポートレートを撮ってる自覚も、写真作品を制作しているつもりもないそうだ。窓や鏡にピンホールカメラの手法で外の風景を焼きつけた鈴木は、写真の原理を問い直そうとしているように見えるが、むしろ絵画の延長と捉えたほうがわかりやすい。窓も鏡も写真のメタファーである以前に絵画のメタファーだった。武田も印画紙に放射性物質を含む土を被せて感光させる点で、写真の原理に遡ろうとしているようだが、そのイメージはもっとも写真から遠く、科学的な実験データでも見せられているようなおもしろさがある。
2018/01/12(金)(村田真)