artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
日本スペイン外交関係樹立150周年記念 プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光
会期:2018/02/24~2018/05/27
国立西洋美術館[東京都]
会場に入っていきなり出くわすのが、ベラスケスの《フアン・マルティネス・モンタニェースの肖像》。ベラスケスより一世代上の彫刻家の肖像とされるが、人物の描写に比べ右下の塑像の描き方がなんともお粗末。チョビヒゲをはやしているのでモデルはフェリペ4世らしいが、まるでしりあがり寿のマンガではないか。続いて、彫像を触る盲目らしき男性像(リベーラ)、キリストの顔が現れた聖顔布(エル・グレコ)、パレットを片手に磔刑像の傍らに立つ画家の絵(スルバラン)などが並んでいる。みんな美術を主題とする作品ばかりだなと思って戻ってみると、第1章は「芸術」だった。ほかにもイダルゴの《無原罪の聖母を描く父なる神》や、カーノの《聖ベルナルドゥスと聖母》、リシの《偶像を破壊する聖ベネディクトゥス》など、神様が絵を描いたり、彫刻の聖母像の乳房から飛ばされた母乳を修道士が口で受けたり、修道士が美術品を破壊したり、日本人が理解に苦しむ宗教画がいっぱいあって楽しい。
第2章は「知識」で、ここでも犬儒学派の哲学者を描いたベラスケスの《メニッポス》がトップを飾り、第3章の「神話」もベラスケスの《マルス》から始まっている。ふつう展覧会の目玉作品はもったいぶって最後のほうに展示するものだが、今回は惜しげもなく各章の頭にベラスケスを持ってきている。これはつまり、見るべき作品はベラスケスだけではありませんよという自負の表れではないか。ちなみに第4章「宮廷」は《狩猟服姿のフェリペ4世》、第5章「風景」は《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》、第7章「宗教」は《東方三博士の礼拝》と、第6章の「静物」を除いてトップはいずれもベラスケス作品で占められていて、なんとも贅沢な気分。
ベラスケス以外にも特筆すべき作品を挙げると、まずティツィアーノの《音楽にくつろぐヴィーナス》がある。ベッドに横たわる裸のヴィーナスをピアノ弾きの男性が振り返って見ているエロチックな場面だ。同じ主題の絵がほかにも2点あるが、これがいちばん先に描かれたようだ。見る者を圧倒するのが、カルドゥーチョ帰属の《巨大な男性頭部》。縦横それぞれ2メートルを超す巨大画面いっぱいにいかつい男の顔が描かれているのだ。なぜこんな絵が描かれたのか不明だが、驚かすつもりで描いたとしたら現代的な発想ではないか。このまま画面をつなげて全身を描いていけば、10メートルを超す巨人像になるだろう。アルスロートの《ブリュッセルのオメガングもしくは鸚鵡の祝祭:職業組合の行列》も驚異的。幅4メートル近い横長の画面に、ブリュッセルのグランプラスで行進する人たちと背後で見物する人たち、合わせて数千人を描き込んでいるのだ。単純に、よくめげずに描き上げたもんだと感心する。同展は点数こそ約60点と絞られているが、大作が多いので見ごたえがある。
2018/02/22(村田真)
EUKARYOTE プレビュー
会期:2018/02/16~2018/02/25
EUKARYOTE[東京都]
神宮前のワタリウム美術館の近く、トキ・アートスペースの「近藤昌美展」を見に行ったら、向かいのビルに新しいギャラリーがオープンしたと教えてくれた。行ってみたら、ビルにギャラリーがオープンしたというより、1階から3階までの3フロアと屋上を丸ごと使っているので、ギャラリービルがオープンしたというべきか。セゾンアートギャラリーにいたスタッフが独立して開設したもので、EUKARYOTEとはメンバーのイニシアルをつなげたネーミングかと思ったら、真核生物という意味で「ユーカリオ」と読むらしい。プレビューは石川和人、山口聡一、高山夏希、中島晴矢ら12組。元気よく暴れてほしい。
2018/02/22(村田真)
亀山亮『山熊田』
発行所:夕書房
発行日:2018/02/20
これまでメキシコ・チアバス州のサバティスタ民族解放軍、パレスチナ自治区のインティファーダ(イスラエルの占領政策に対する民族蜂起)などを取材し、アフリカ各地の戦場を撮影した写真をまとめた『AFRICA WAR JOURNAL』(リトルモア、2012)で第32回土門拳賞を受賞した亀山亮の新作写真集は、やや意外なものとなった。今回彼が撮影したのは、山形との県境に位置する新潟県村上市山熊田。山間の集落に50人ほどが暮らす小さな村である。農業のほか、伝統的な「シシマキ」と呼ばれる熊猟、シナの皮の繊維で織り上げる「シナ布」などが主な産業であるこの村の四季の暮らしを、亀山は被写体との距離を縮めて丹念に撮影している。
そのまさに「山と熊と田」の写真群を眺めていると、亀山がなぜ取り憑かれたように村に通い詰めたのかがじわじわと伝わってくる。仕留めた熊も含めて、「山から手に入れたものはみんなで等分に分かち合う」山熊田の生活原理は、「グローバリゼーション」とは対極のものだ。利益優先で、便利さを追求してきた結果として、現代社会はさまざまな矛盾をはらみ、軋み声を上げている。亀山が撮影し続けてきた世界各地の「紛争」もその産物と言えるだろう。彼は、もう一度人の暮らしと幸福の原点とは何かを問い直し、つくり直すきっかけとして、この村にカメラを向けたのではないだろうか。
とはいえ福島第一原子力発電所事故の余波で、熊の体内から放射能が検出され、地球環境の温暖化で野生動物の生態系も大きく変わるなど、村の暮らしも次第に現代社会の毒に侵されつつある。そのギリギリの状況になんとか間に合ったという歓びと、それがいつまで続くのかという不安とが、この写真集には共存している。写真がモノクロームで撮影されていることについては、微妙な問題を孕んでいると思う。モノクロームの深みのある画像は、美しく、力強い。だが、それはともすればややノスタルジックな感情も呼び起こしてしまう。カラー写真の生々しさを、あえて活用するやり方もあったのではないだろうか。
2018/02/20(火)(飯沢耕太郎)
笠木絵津子展 シリーズ「地の愛」より「孝一の戦争と戦後」
会期:2018/1/29~2018/2/3
藍画廊[東京都]
自分より若いころの親の写真を見たりすると、だれしもなにかしら感慨を抱くもの。とくにそれが戦前・戦後の厳しい時代であればなおのこと、ここで父が戦死していたらとか、母が別の男と出会っていたらどうなっていたかみたいな、自分の存在を根源から揺るがしかねないのだ。しかし戦前の親の写真があるのはもはや50-60歳以上の世代だろう。笠木は15年ほど前から母親の昔の写真と自分の写真をコンピュータで合成し、時空を超えた出会いを実現させてきた。そうした母のシリーズが終わってから、父の生涯を同様の手法で綴る「地の愛」シリーズを始め、今回はその3回目となる。作品は大作を壁に1点ずつ、計4点の出品。
笠木の父・孝一は、1945年に招集されて和歌山で軍事訓練を受けたが、敗戦により命拾いしたという。その和歌山の訓練場所を推定して撮影し、そこに孝一、戦闘機、笠木の夫らの写真を合成したのが《昭和20年7月頃、孝一、和歌山にて軍事訓練中》だ。過去と現在、モノクロとカラー、アナログとデジタルが混在した作品だ。敗戦後復員し、故郷の姫路でGHQの通訳の仕事を得た時期を表わしたのが《昭和21年頃、孝一、姫路にて進駐軍の通訳の仕事を始める》で、当時と現在の姫路の駅前風景を組み合わせている。同様に《昭和25年頃、孝一、神戸市赤塚山の兵庫師範学校を卒業する》《昭和25年頃、孝一、芦屋市立宮川小学校の教員になる》と続く。いずれも現在の写真をベースに過去のイメージをざっくり合成したもので、ぼくは作者に世代が近いせいかついじっくり見てしまったが、果たして若い世代がどれだけ興味を持つだろう。
2018/02/2
村山康則「月の出てない月夜の晩に」
会期:2018/02/14~2018/02/20
銀座ニコンサロン[東京都]
会場に掲げてあった村山康則のメッセージを引用しておくことにしよう。
「いくつもの層が 複雑に絡み合うように矛盾に満ち、一面的には理解しえない社会をそのままに 受け止めること/社会の中の個の存在/そういったものを 表現したいと思いました」。
28点の写真に写り込んでいるのは、都市風景の断片である。一見すると多重露光のようなのだが、実際にはガラスの映り込みと向こう側の光景を、そのままストレートに撮影したものだという。都市を構成する「いくつもの層」をガラスや鏡を媒介として浮かび上がらせる手法は、特に珍しいものではないが、ポジションの選択と画面構成が的確なので、意図がきちんと伝わってくる。特にビルなどの小さな窓とその中の人物たちの姿を、とてもうまく取り込んだことで、「社会の中の個の存在」がきちんと浮かび上がってきていた。撮影時間を夜に絞ったこともよかった。クオリティの高い、安定感のある表現だが、このままだと見え方がパターン化する可能性がある。もっとダイナミックな視点の変化を試みること、また東京や横浜だけでなく、アジアのほかの国々などへも被写体を広げていくことも考えられそうだ。
北海道出身の村山は、ワークショップやグループ展に積極的に参加している写真家だが、本格的な個展は今回が初めてだという。この展示を機会にさらに作品をスケールアップしていってほしい。なお本展は3月15日〜3月21日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2018/02/19(月)(飯沢耕太郎)