artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ジェニファー・ヒッギー「現代アートについて書く方法──その最前線と実践のためのヒント:『frieze』誌エディトリアル・ディレクターによるレッスン」
会期:2017/12/07
東京藝術大学[東京都]
美術ジャーナリズムの世界に足を突っ込んでもう40年になる私ですが、恥ずかしながらいまだにどうやって書いたらいいのかわからず、いつも四苦八苦している。そんなときに『美術手帖』元編集者の川出絵里さんから、東京藝大で『frieze』誌エディトリアル・ディレクターのジェニファー・ヒッギー氏による「現代アートについて書く方法」と題する公開レクチャーがあると聞き、なにかヒントを見つけられるかもしれないとワラにもすがる気持ちで参加した。もちろん川出さんの東京藝大助教デビューを盛り上げたいとの思いもあったが、そんな必要もないほど大教室は満杯で、こんなに「現代アートについて」書く人、書きたい人がたくさんいたのかとライバルの多さに不安になったものだ。
『frieze』は1991年にロンドンで創刊された「コンテンポラリー・アート&カルチャー・マガジン」で、ぼくは書店や図書館で立ち読みならぬ立ち見(図版だけね)しかしたことないが、90年代のYBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)をはじめアートの最新動向を斬新なエディトリアルで紹介し、急伸してきたメディアで、近年はアートフェアやアカデミーの運営にも手を染めているのは知られたところ。気になるのは、公明正大であるべきジャーナリズムに携わりながらアートマーケットを動かしていることだが、日本でも評論家がギャラリーを運営したり、ジャーナリストが作品をつくったりしている例もあるし、ま、ギョーカイの活性化という意味では許されるか。
講義はまず川出さんがここに至るまでの経緯を語り、スカイプを通してヒッギーさんがさまざまな批評家の言葉を引用しながら持論を展開していくかたちで進められた。ぼくなりに噛み砕いていうと、美術批評家になって得することは、おもしろいアーティストに出会えること、それによって世界が広がること。悪いことはアーティストからうらまれること、いちど始めたら死ぬまでやめられないこと、その割りに金持ちになれないので別の仕事もしなければならないことなど。批評家の守るべきルールは、好きでもないアーティストについて書かないこと(書いたものは後々まで残る)、美術作品と同じくらい読者の心を動かすこと(なんらかのレスポンスを喚起させること)、英語で1000語(日本語だと4000字くらい?)以上書かないこと(だれも読まないから)、かしこそうにふるまうな、ジャーゴン(定型表現、専門用語)は避けろ、簡潔に、明快に……。はっきりいってぼくでも知ってること、やってることばかりではないか。なのになぜぼくは大成しないのかというと、ここが日本だから需要が少ないし、アートに対するリスペクトもないからではないか。と社会のせいにしたくもなるが、でもやっぱり向こうでも美術ジャーナリズムだけで食っていくのは至難の業という。結局どうすりゃいいんだ!?
2017/12/07(木)(村田真)
村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」/「月に口笛」
会期:2017/11/25~2017/12/22
CASE TOKYO/tokyoarts gallery[東京都]
村越としやがCase Publishingから写真集を2冊刊行し、それに合わせて展覧会を開催した。『沈黙の中身はすべて言葉だった』は、2011~15年にかけて福島県各地を撮影したパノラマサイズの写真群を集成している。故郷の須賀川市の周辺も大きな被害を受けた2011年の東日本大震災以降、村越の写真の質が変わったことは間違いない。画面全体を把握していく構築力が強まり、緊張感を孕んだ風景を定着することができるようになった。それにつれて、写真のフォーマットも流動的に選択するようになり、6×6判、6×7判、パノラマサイズなどを自在に使いこなしている。展覧会の会場のCASE TOKYOには、プリントのほか印刷に使用した刷版なども同時に展示され、写真集ができ上がっていくプロセスを追体験できるように構成されていた。
一方『月に口笛』は、まだ写真を始めたばかりの頃の2000年代初頭のネガをもう一度見直し、新たにセレクトして再プリントした作品集である。風景の細部に眼を凝らし、湿り気のある空気感を丁寧に写しとっていく作風が、すでにでき上がりかけていたことがわかる。こちらはtokyoarts galleryの空間に、オーソドックスにフレームに入れた写真が並んでいた。どちらも、きちんと組み上げられたいい展示だし、田中義久がデザインした写真集の出来映えも悪くない。ただ、どことなくピクトリアリズム風の、閉じられた世界に引き込まれつつあるのではないかという危惧感も覚える。両写真集のタイトルが示すように、村越は言葉をしっかりと使いこなす才能にも恵まれている。小さくまとまらず、多方向に大きく開いていくような作品に向かうべきではないだろうか。
2017/12/05(飯沢耕太郎)
小林透写真展「前夜」
会期:2017/11/03~2017/12/03
PORT[大阪府]
まだ少年の面影を宿す若い男性が、こちらを凝視している。虚空を見つめるような視線。おどけるように口を引っ張る、硬直した5本の指。モノクロの画面に閉じ込められた、聴こえない叫び。何かから耳を塞ぐように、顔の横で張りつめた指の緊張感。おびただしいカットの集積が、異常なまでの熱量と感情の強度を増幅する。そして全裸を晒した彼は、浴槽の中で飛沫を撒き散らし、あるいは畳やベッドの上に身を横たえ、自ら快楽に身を委ねていく……。
小林透は一貫して「弟」を撮り続けてきた写真家である。展示に添えられた文章を読むと、自閉症で重度の知的障害を持つ弟を被写体とし、「作品」として発表することに対して、「撮る/撮られる」「健常者/障害者」といった「非対称性」「暴力性」、「現実の弟」/「写真の中の弟」のギャップについて葛藤を抱えながらも誠実に向き合おうとしていることが分かる。
小林はまた、「自閉症である弟は他人と視線を合わせようとしないが、ファインダーを覗いて声をかけると弟はこちらを向き、カメラを介すことで弟と視線を交わすことができる」とも記す。それはカメラという媒介を通して初めて成立するコミュニケーションであると同時に、「見つめ合っているのに触れられない」という「距離」の出現がエロティシズムを密かに駆動させる。そこでは、「彼の上げる奇声や体を揺らすリズムに合わせ、その律動を捕捉しようとシャッターを切る」写真家は、一方的に視線を行使する特権的で暴力的な存在ではない。むしろ、その瞬間を捕捉することに奉仕し、支配されているのは写真家の方であるかもしれない。あるいは、「写真の中で生命力に溢れて見える弟の姿は、現実に目の前にいる生身の弟を見えなくさせてしまうが、同時に新しい弟の姿を見出すことができた」とも綴る小林は、「撮る者」であると同時に「写真の弟を見る者」でもあり、一方的な眼差しの行使者としての写真家は、視線の交差を成就させるカメラの介在によって、逆に「写真の中の弟から見つめ返される者」へと反転される。その時、あまりにも無防備で開かれた弟の身体は、その徹底した受動性ゆえに見つめ返される者を脅かす。主導権は絶えず曖昧に入れ替わり、引力と斥力が拮抗する。また別のシークエンスでは、届かなさや捉え難さを一気に直に埋めようとするかのように、小林と弟がともに全裸で抱き合い、肌を触れ合わせる。それは、子を慈しむ母親のようにも、激しく抱擁する恋人同士のようにも見える。
展示方法もまた、一見無軌道に見えて、感情的な発露を増幅するように計算されている。何十枚ものプリントを直接ピンナップした一角では、壁面を覆い尽くす過剰な物量感が、エネルギーを自己増殖させていく。一方、「写真」に対する両義的な感情がせめぎ合う手つき―カッターで切り刻む/傷を修復するようにテープで貼り直す、思い出したくないものを放擲するように押し入れの暗がりに無造作に放り込む/宝物のように引き出しの中に大切に忍ばせる、といった相反する操作も見られる。ここでは、家族だからこそ抱いてしまう「愛憎」が、制御不可能な写真の扱い方となって噴出している。あるいは、それらが「弟の真実の姿」などではなく、「紙に焼き付けられたイメージ」にすぎないことを自らに突きつけるように、たわめて歪ませ、引き裂き、物質性が露にされている。
小林の写真にあるのは、コードの重なり合いあるいは撹乱だ。「家族写真」と言うには親密さよりも不穏さを湛えており、「障害者(の性)」という社会的にはタブーとして隠蔽される主題を内包し(例えば高嶺格の《木村さん》が同様のテーマを扱っている)、「メール・ヌード」としてゲイ写真のセクシャルな欲望をも仄めかす。しかし同時に、そのどこにも定位を拒もうとする力に引き裂かれている。それは、「弟と私」という極私的で先天的に決定済みの関係に身を置きながら、肉親であり、言語的な意思疎通が困難な存在であり、生(性)の喜悦に溢れた目の前の肉体を、「弟」「障害者」「同性」といったカテゴライズの下で眼差すことから脱するための、際限なく続く迂回の試みである。
2017/12/03(日)(高嶋慈)
没後40年 熊谷守一 生きるよろこび
会期:2017/12/01~2018/03/21
東京国立近代美術館[東京都]
熊谷守一というと素朴な色と形の絵で人気があるが、そのシンプルな作風もさることながら、ザンギリ頭に白くて長いあごひげ、作務衣みたいな着物(カルサンというらしい)の飄々とした姿、「へたも絵のうち」のキャッチフレーズも相まって、いかにも世俗を超えた仙人のようなイメージを増幅させている。ぼくがその存在を知ったときにはすでに90歳を超えた高齢で、雲の上の人だった。ただしそれは70歳以上も年上の超俗老人だからであって、作品には憧れはなかったし、どうも好きになれなかった。それはいまあらためて考えてみると、形の簡略化が中途半端に感じられたからであり(当時はミニマルアートに憧れていた)、色彩が地味で日本的な暗さを嗅ぎ取ったからだと思う。果たしていま見ても同じように感じるだろうか? 若干コワイもの見たさ的な気分もあって見に行った。
初期のころの絵は、ひとことでいえば暗い。色も暗いが、テーマも暗い。ローソク1本のかすかな明かりのなかで描いた《蝋燭》など、もともと暗い上に絵具が黒変してわずかに顔が判別できるくらい。きわめつけは《轢死》で、電車に轢かれて横たわる女性を描いたらしいのだが、画面全体が暗褐色で具体的な形はまったく判別できないのだ。もう「闇夜のカラス」状態。いくら熊谷守一の作品だからといって、いくら衝撃的なモチーフが描かれていたからといって、こんな真っ暗な画面を美術館で見せていいものか。あるいは一種の抽象絵画として見るべきか。その後、画面は徐々に明るくなり、タッチは荒々しい表現主義的になり、モチーフもヌードと風景に絞られていく。が、次男が亡くなったときはその死に顔を素早く描き止めた《陽の死んだ日》を残している。戦後も長女の死に顔《萬の像》や、その遺骨を抱えた家族の肖像《ヤキバノカエリ》を制作するなど、意外にもその長い画業には死がときおり顔を出す。
熊谷を特徴づける赤茶色の輪郭線が表われるのは1930年ごろから。また、よく知られる平坦な色面によるシンプルな画面は40年代からで、そのころすでに還暦を超えている。不謹慎なことをいえば、もし空襲など戦渦に巻き込まれて亡くなっていたら、名もない画家のひとりで終わっていたに違いない。つまり熊谷が画家・熊谷守一になるのはじつに70歳近くになってからなのだ。出品リストを見ると油彩だけで200点も出ているが、うち4分の3は戦後、つまり60歳代後半以降の作品で占められている。これほど遅咲きの画家もめったにいない。ちなみに戦時中はなにをしていたかというと、もちろん出兵するには高齢すぎるし、画家としてもすでに引退を考えてもいい年だったので(なにしろ東京美術学校では青木繁と同級生)、戦争画も描かなかった(依頼がなかったのか?)。ではなにを描いていたのかというと、さすがにヌードは描けなかったのか、風景が多かった。とはいえほとんど人のいない不穏な風景画ばかりで、逆に戦争の時代だったことを予感させる。
後半の100点以上の大半は10号以下の小品で、しかも陳腐なガラスつきの額縁に入っているため、ズラッと並んださまはまるで売り絵のようだ。書や彫刻も出ている。書は軸装で、「無」「ほとけさま」「からす」などちょっとトボケた味を出していて、相田みつをを彷彿させる。彫刻も長さ20センチ程度の小品で、モチーフは横たわるヌードだが、なにか違和感があるのは、こんなちっちゃな彫刻なのに台座がついてるからだろう。どうも熊谷は額縁や台座抜きに絵画・彫刻は考えられなかったのではないか。そこがミニマルアートはおろか、抽象以前の旧世代の画家たるゆえんだろう。そんなわけで後半のシンプルな絵にはやっぱり惹かれないが、初期の「暗い絵」には少し心を動かされるものがあった。
2017/12/01(金)(村田真)
ゴッホ展 巡りゆく日本の夢
会期:2017/10/24~2018/01/08
東京都美術館[東京都]
またもやゴッホ展! 日本ではだいたい2、3年にいちど大規模なゴッホ展をやっている。こんな国ほかにないだろう。いっそゴッホ・トリエンナーレにしては? でもさすがに近年は単なる「ゴッホ展」では話題性に乏しいと感じたのか、「こうして私はゴッホになった」(2010)とか「空白のパリを追う」(2013)とか「ゴッホとゴーギャン」(2016)とか、なにかとテーマ性を持たせるようになってきた。てなわけで、今回は「巡りゆく日本の夢」と題して日本との関係に焦点を合わせている。これなら日本人の琴線に触れそうだ。といっても、ゴッホと日本とのつながりはひとつではなくいくつかある。まず最初のつながりは、いわずと知れた「浮世絵」からの影響だ。
ゴッホが故国のオランダ、ベルギーを経てパリに出たとき、2つの大きな出会いがあった。ひとつは印象派であり、もうひとつは浮世絵だ。この2つの出会いによって暗褐色だったゴッホの絵は劇的に明るくなる。特に浮世絵は「ジャポニスム」旋風が吹き荒れていた当時のパリでは安価で手に入れることができたので、ゴッホは模写するだけでなくみずから収集し、浮世絵展まで開くようになった。《花魁(渓斎英泉による)》は英泉の浮世絵を元に、原作にはない極彩色と厚塗りでゴッホらしさを出し、その周囲を縁どる水辺の風景にも別の浮世絵から引用したツルやカエルを赤茶色の輪郭線で付け加えている。もう見慣れてしまったが、冷静にながめればこんな奇っ怪な絵もない。《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》は、片手にタバコ、脇にビールを置いた気の強そうなカフェの女主人を描いた肖像画だが、この店でゴッホは浮世絵コレクションを展示したという。右上に花魁らしき女性を描いた浮世絵が確認できる。
第2のつながりは、ゴッホの日本や日本人芸術家に対する憧れだ。パリの生活に疲れたゴッホは陽光あふれる日本を目指して、なにを勘違いしたのか南仏のアルルに移住し、そこでまたなにを勘違いしたのか、日本の芸術家のように愛にあふれた共同生活を送ろうと、画家たちに声をかける。ところがだれもゴッホの誘いに応じず、ようやくゴーガンが安い生活費につられて重い腰を上げたものの、これが最悪の結果をもたらすことになった。強烈な個性を持つふたりの芸術家は激しくぶつかり、ゴッホは精神に錯乱を来して共同生活はわずか2カ月ほどで破綻してしまう。このへんの事情は2年前の「ゴッホとゴーギャン展」に詳しい。結局ゴッホは自分のユートピア志向を未知の日本に託したかったのかもしれない。タイトルにある「日本の夢」とはこれを指す。
そして第3のつながりはゴッホの亡きあと、最期の地となったオーヴェール・シュル・オワーズへの日本人の旅だ。ゴッホが日本で人気を得るのは死後20年ほどたった大正時代、白樺派の文学者や美術家たちが画家や作品について紹介してから。渡仏した日本人の多くは当時まだ作品も関係者も残っていたオーヴェールに赴き、墓参りしたという。その芳名録3冊も出品されていて、1922年から39年までの17年間に前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三、斎藤茂吉、式場隆三郎、福沢一郎、高田博厚、北澤楽天ら計266人のサインがある。平均すると年間15人程度だから少ないようだが、まだ飛行機もパックツアーも、まして「アートツーリズム」なんてシャレた趣味もない時代に、はるばる極東の島国からパリ郊外の小さな田舎町まで「ゴッホ巡礼」に足を運んだということだけでも驚き。日本人のゴッホ好きはもう100年の歴史があるのだ。
2017/12/01(金)(村田真)