artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
TOP Collection アジェのインスピレーション ひきつがれる精神
会期:2017/12/02~2018/01/28
東京都写真美術館[東京都]
ウジェーヌ・アジェ(1857~1927)は不思議な写真家である。1890年代からパリとその周辺を大判カメラで隈なく撮影し、プリントして安い値段で売りさばくのを仕事にしていた彼は、生前はほとんど無名だった。だが、当時マン・レイの助手を務めていたベレニス・アボットが、アジェの死後に遺族と交渉して、そのネガとプリントの一部をアメリカに持ち帰り、精力的に彼の作品を紹介したことで一躍「近代写真の先駆者」として注目を集めるようになる。以後、その評価はさらに高まり、多くの展覧会が開催され、写真集が刊行されて、世界中の写真家たちに影響を与えるようになった。今回の展示は、東京都写真美術館が所蔵するアジェのヴィンテージ・プリント約40点、ベレニス・アボットがプリントしたポートフォリオ20点を中心にして、「アジェのインスピレーション」がどのように引き継がれてきたのかを検証するという、とても興味深い企画だった。
ジャン=ルイ・アンリ・ル・セック、シャルル・マルヴィルらの先駆者、同時代のアルフレッド・スティーグリッツの作品に加えて、アジェに有形無形の影響を受けたベレニス・アボット、ウォーカー・エヴァンズ、リー・フリードランダー、荒木経惟、森山大道、深瀬昌久、清野賀子の写真が並ぶ。アボットやエヴァンズやフリードランダーは当然というべきだが、荒木、森山、深瀬、清野といった日本の写真家たちの作品が、アジェの写真と共存して、それほど違和感なく目に馴染んでくるのがやや意外だった。それぞれの作風は相当にかけ離れているにもかかわらず、アジェを消失点として見直すと、鮮やかなパースペクティブが浮かび上がってくるのだ。それは逆にいえば、アジェの写真のなかにその後の写真家たちの表現の可能性が、すでに組み込まれていたということでもある。特に都市を撮影する時のアプローチにおいて、あらゆる事物を等価に位置づけていくアジェの方法論は、いまなお有効性を保っているのではないだろうか。
2017/12/20(飯沢耕太郎)
ディアスポラ・ナウ!~故郷(ワタン)をめぐる現代美術
会期:2017/11/10~2018/01/08
岐阜県美術館[岐阜県]
展覧会タイトルの「ディアスポラ」(政治情勢、紛争、天災などにより故郷を追われて離散し、新たな土地に居住する民族的共同体)に「ナウ!」が付加され、「故郷」という語をアラビア語の「ワタン」と読ませていることが意味するように、本展の企図は「中東の紛争地域出身の中堅~若手作家の紹介」及び「政治的課題のアートを介した提示」にある。「アートによる商品化や搾取」を批判することは容易いが、脱政治化という政治が常態化した日本にあって、一地方美術館でこうした先鋭的な企画が開催されたことは評価したい。 出品作家は、日本のアートユニットであるキュンチョメ以外の5名は全て、シリア、パレスチナ、モロッコなど中東出身。アクラム・アル=ハラビは、シリアの現状を報道する凄惨な写真を元に、写されたものを「目」「頬」「手」「心臓」「血」など英語とアラビア語の単語に置き換え、コンクリート・ポエトリーのように美しい星座的配置に移し換えるとともに、イメージの消費に対する批判を提示する。東エルサレム出身でパレスチナ人の父を持つラリッサ・サンスールは、歴史修正主義による「証拠発見」を逆手に取り、「民族の歴史」を主張するため、炭素年代測定を操作した「皿=証拠品」を地中に埋める物語を、個人史を織り交ぜて映像化。神話的な光景に聖書やSF映画から借用したイメージを散りばめることで、フィクションとしての歴史=物語を露呈させる。また、2017年のヴェネチア・ビエンナーレにて「亡命館」を企画したムニール・ファトゥミは、波間を漂う船や港湾の映像の前に、ゴムタイヤ、衣服、救命胴着が散乱したようなインスタレーションを展示した。
一方で、本展には問題がない訳ではない。「ディアスポラ」という主題を日本で扱うとき、「ニュースの中の出来事」として安全圏に身を置いたまま享受できる危機や悲惨さは俎上に載せられても、東アジア地域における植民地支配の歴史や「在日」の問題は、盲目的に看過されているのではないか。本展では、「中東の紛争や難民問題」という事象の「遠さ」(物理的/心理的な距離という二重の「遠さ」)を克服するために、キュンチョメが展示の最後に召喚されている。《ウソをつくった話》は、福島の帰宅困難者である高齢者たちとともに、Photoshopの画面上で、画像の中の通行止めのバリケードを「消去」していく過程を映した映像作品。《ここで作る新しい顔》は、日本在住の難民に個展会場に常駐してもらい、来場者とペアで「福笑い」をする様子を記録した映像作品である。いずれも、国内に現実に存在する「(帰宅)難民」とともに、「当事者との共同作業」を行なう点で共通する。
《ここで作る新しい顔》において、「福笑い」をするための「黒い目隠し」は、多義的な意味を担う装置となる。それは個人情報の「保護」であるとともに、「不審者」の暗示であり、「存在の抹消」である。難民たちは、固有性の発露としての「顔貌」を半ば奪われつつも、モニター越しに鑑賞者に対峙する。だが、難民たち一人ひとりを目隠しの正面像として収めたモニターが、ガラスケースの向こう側に設置されていることに注意しよう。「『彼ら』との間を確実に隔て、安全に隔離する透明な壁」の出現。それは、表象のコントロールと管理を行なう展示という近代的制度、美術館という場の政治性をはからずも露呈させてしまっており、この透明な「壁」の見えにくさこそが真に問われるべきではないか。
2017/12/17(日)(高嶋慈)
ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー
会期:2017/11/25~2018/03/11
金沢21世紀美術館[石川県]
ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーの作品は、ドクメンタやミュンスター、越後妻有、札幌などの国際展で何度か見たことあるけど、大規模な個展を見るのは初めて。最初の部屋には修道院の模型が置かれ、なかをのぞくと、どこかで見たような情景がミニチュア模型で再現されている。《アントネロとの対話》と題されているので、15世紀の画家アントネロ・ダ・メッシーナの油彩画《書斎の聖ヒエロニムス》だとわかる。よくできているけど、これだけだったら単に絵画を立体化したトリックアートと変わらない。しばらく見ていると照明や音が少しずつ変化していき、朝から夜まで1日の時の流れを再現しようとしていることに気づく。つまり2次元の絵画が3次元に立体化され、さらに時間を加えて4次元化しているのだ。これはおもしろい。
ほかにもレコードとスピーカーで埋まった部屋、不気味な音と光を発して回るメリーゴーランド、引出しを引くと異なる音が出る棚、たくさんの操り人形を乗せたキャンピングカーなど、ほとんどの作品は箱状の装置が各展示室の中央に1点ずつ置かれ、その周囲を観客が囲んで見るという仕組み。いずれも音や光を発したり動いたりしながら、それぞれレトロ調の物語を紡いでいく。ちなみに、操り人形やメリーゴーランドというのは子供が楽しむ遊びだが、それが静止していると寂しさや不気味さを感じ、勝手に動いたりすると恐怖の対象にすらなる。そんな楽しさと恐ろしさを同時に秘めたエモい作品群。ああ見てよかった。
2017/12/16(土)(村田真)
国際シンポジウム:「複合媒材」の保存と修復を考える
会期:2017/12/16
金沢21世紀美術館[石川県]
タイトルの「複合媒材」は「ミクスト・メディア」といったほうがわかりやすいかもしれない。要するに絵画・彫刻といった従来の形式から外れたメディアアートやインスタレーションなど、後先を考えずにつくられた現代美術の保存と修復を巡るシンポジウム。朝から夕方まで半日がかりの長丁場だが、全部聞いたのはもちろんヒマだったこともあるけど、それ以上に現代美術を保存・修復する行為に矛盾というか違和感を感じていたからだ。午前中はボストン美術館のフラヴィア・ペルジーニの基調講演があり、昼休みを挟んで午後から韓国のサムスン美術館リウムの柳蘭伊(リュウ・ナニ)、香港に開館予定のM+(エムプラス)のクリステル・ペスメ、21世紀美術館の内呂博之がそれぞれ事例報告を行なった。いずれも作品の保存・修復を担当するコンサベーターの肩書きを持つ。
まずペルジーニがボストン美術館の取り組みを紹介。同館は古代から現代まで45万点のコレクションを誇る世界屈指の総合的ミュージアムだけあって、コンサベーション部門だけで30人もいるというから驚く。なかでも現代美術の保存・修復は、媒材が多様なうえ規格が更新されていくため苦労するらしい。特に光や音を出したり動いたりする機械仕掛けの作品は、時がたつにつれ技術が陳腐化していくため、部品が製造中止で入手できず動かなくなるといった問題が生じる。そのためコピーをつくって展示し、オリジナルを保存するなどいろいろ工夫しているという。そこまでして残す価値はあるのか、それこそ裸の王様ではないかと疑念が浮かぶ。
柳はサムスンが購入したナムジュン・パイクの《20世紀のための32台の自動車》という屋外インスタレーションを中心に、リキテンスタインの屋外彫刻、宮島達男のLEDを用いた作品の修復例を報告。ペスメは高温多湿、台風が多くて海も近いという美術品にとっては厳しい環境の香港で建設中の美術館の取り組みを紹介。内呂は21世紀美術館のように人の入りやすい美術館は、外のホコリや菌が持ち込まれやすいため作品にとってリスクが大きいというジレンマを打ち明け、また日本の国公立美術館でコンサベーターを抱えているところは10館にも満たず、現代美術にいたってはほとんどいないという現状を訴えた。最後のディスカッションで記憶に残ったのは、作品やオリジナリティの概念自体が大きく変わった現代美術にあって、かつての保存・修復の技術や考えでは対応できなくなっていることだ。むしろモノとしての作品を無理に残すより、作者の意図、作品のコンセプトを保存すべきではないか、という意見には賛同する。
2017/12/16(土)(村田真)
《鈴木大拙館》
鈴木大拙館[石川県]
21世紀美術館のシンポジウムの昼休みが2時間あったので、徒歩10分ほどの《鈴木大拙館》へ行ってみる。鈴木大拙はいわずと知れた「禅」を世界中に広めた仏教哲学者で、同館の近くで生まれた縁で建てられたらしい。館の設計は谷口吉生。敷地全体に比べて、書籍や原稿、書などのコレクションを公開する展示室は小さく、「水鏡の庭」と名づけた屋外の池と、その池をながめながら思索するキューブ状の「思索空間」の比重が大きい。記念館と銘打たなかったのはそのためだろう、大拙の思想を象徴的に表わそうとした建築だ。2011年の竣工だからまだ新しく、垂直・水平の直線だけで構成されたミニマルなデザインは、ほかの目立ちたがりの建築とは比べようもないほど端正で気品にあふれている。思索空間でしばし呆ける。
2017/12/16(土)(村田真)