artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

小杉武久 音楽のピクニック

会期:2017/12/09~2018/02/12

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

音楽家、小杉武久の約60年にわたる活動を、300点以上のアーカイブ資料とオーディオ・ビジュアル作品の展示で紹介する回顧展。後者はエントランスの吹き抜け空間やそれを取り囲む回廊、通路に展示されており、微妙な空気の揺らぎや光の変化、観客の動きなどの外的要因を取り込みながら、場所に寄生するように存在している。例えば、《Mano-dharma, electronic》では、波の映像を背景に、可聴域を超える電波を発する発信機と、高周波を発信するラジオの受信機が吊るされている。傍らに置かれた扇風機や観客の動きによって微妙に気流が変化すると、2つの周波数の波が出会うことで、耳に聴こえる第三の音波が不確定的に生み出され、「キーン…」といった微かな音が響く。また、ソーラー・パネルを電源とし、電子音を発する多数のオブジェが机上に載せられた《Light music Ⅱ》では、観客が近づくと光が遮られるため、立ち位置によって聴こえ方が刻々と変化する。それらは電気を供給源とした電子音でありながら、森のざわめきの中に身を浸しているような有機的な響きに満ちている。

だが、本展で圧倒的なのは、1950年代から現在までの記録写真、チラシ、ポスター、プログラム、楽譜、雑誌などのアーカイブ資料の膨大な物量と情報量だろう。これらのドキュメントは時系列順に「グループ・音楽から反音楽へ(1957~1965年)」「フルクサスからインターメディアへ(1965~1969年)」「タージ・マハル旅行団(1969~1977年)」「マース・カニングハム舞踊団(1977年~)」の4章で構成されている。ただし、記録映像や音源は一切ない(もちろんここには、即興性やリアルタイムの体験性を重視する小杉作品への配慮や敬意がある)。写真と文字情報を追う中で浮かび上がってくるのは、音楽/美術/舞踊といったジャンルを越境した交友関係の広がりである。現代音楽やフルクサスのアーティストに加え、「ハイレッド・センター」や「ネオ・ダダ」のメンバー、映像作家の飯村隆彦、舞踏家らとのコラボレーション、渡米後のナムジュン・パイクとの交友、さらにポスターのデザインに目を向ければ粟津潔や杉浦康平といった名前も登場する。記録映像や音源をあえて「封印」し、紙媒体の資料を徹底して淡々と並べていくことで、小杉武久という観測点の周囲に形成されるジャンル越境的なネットワークと時代状況が浮かび上がってくる。

ところで本展の最後には、看過できないある操作が仕掛けられている。徹底して「資料」、それも(期待される)記録映像や音源ではなく、紙資料にこだわる本展示の締めくくりには、「この『小杉武久 音楽のピクニック』展のポスター」も展示され、自身をメタ的に内部に取り込んでいるのだ。大量に複製・頒布され、「広報・周知」の機能を持つフラジャイルなものが資料的価値へと転じること。その速度を限りなく圧縮してゼロに近づけることで、広報物や印刷媒体を資料的価値へと転換させて歴史化する「ミュージアム」という機能(価値転換と歴史記述の装置)、さらには「アーカイブ」への貪欲な欲望を自己言及的に浮かび上がらせていたと言える。

2017/12/24(日)(高嶋慈)

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Qenji Yoshida×Wantanee Siripattananuntakul「インターセクション กับดักนักท่องเที่ยว」

会期:2017/12/10~2017/12/30

Gallery wks.[大阪府]

「言語」「翻訳」「対話」をテーマに制作するQenji Yoshida。例えば、母語の異なる2名が通訳を介さずにそれぞれの母語で対話し、ジェスチャーの助けも借りつつ、パラレルな2つの発話が意思の疎通と誤解の間を漂い続ける状況を記録した映像作品では、「異言語間のコミュニケーションにおける共有不可能性と新たなコミュニケーションの萌芽」をユーモアとともに提示している。

本個展では、タイ人作家、Wantanee Siripattananuntakul(ワンタニー・シリパッタナーナンタクーン)と協働したパフォーマンスの記録映像を展示。2面の映像には、それぞれが拠点とする大阪/バンコクの街を、英語で相手に案内しながら歩き続ける様子が映し出される。近年、海外観光客が急増する道頓堀周辺の繁華街と、対照的にシャッターを閉ざした店舗や「福祉住宅案内所」の看板が目につく寂れた地区。高層ビルやビジネスセンターが立ち並ぶバンコクのエリアは、均質化したグローバリゼーションの様相だが、カラフルな色に溢れ、二人乗りのバイクが行き交う街路は、エキゾチックな魅力に満ちたものとして映る。

一見すると、コミュニケーションの素朴な称揚に見えるが、「英語」という非母語の使用をそれぞれに課し、一カ所に留まらない通過者として振る舞うことで、自身が身を置く場所との密着が次第に遊離していく。それは、不自由なコミュニケーションの中にある、ある種の不安定な自由さの萌芽だ。また、本展にはいくつもの「空白」や「欠落」が構造的に組み込まれている。映像には字幕が無く、それぞれの画面から流れる2つの音声は(意図的に)混在して響くため、互いを打ち消すように働いてクリアに聞き取れず、会話内容は断片的にしか把握できない(加えて、シリパッタナーナンタクーンが話す英語は、タイ語の訛りが強く、ほとんど聞き取れない)。左右の映像と音声の間で戸惑ううちに、どちらにも属さない「第3の場所」に身を置いているような感覚に陥ってくる。

また、本展は、大阪での開催と同期間かつ同時間に、シリパッタナーナンタクーンによるもう一つの展覧会としてバンコクで開催されている(タイ語の表記は、バンコクでの展覧会タイトルを指す)。だが、大阪でこの展示を見ている私たちは、バンコクでの同時開催展を見ることはできず、シリパッタナーナンタクーンが別の視点から作品化しているであろう、このパフォーマンスについて知ることはできない。同時に2つの異なる場所に存在できないという物理的/身体的な制約と、それ故の複眼的な想像力の重要性を改めて提示する展示だった。


会場風景

2017/12/24(日)(高嶋慈)

Place M 30周年記念写真展

会期:2017/12/18~2017/12/28

Place M[東京都]

1987年に瀬戸正人がPlace Mを東京・四谷にオープンしてから30年になるという。オープン当初から展示を見ているので、なんとも感慨深いものがある。Place Mのような、写真家たちがスペースを確保して展示活動を続ける自主運営ギャラリーを長く続けるのが、いかに大変なことかをよく知っているからだ。メンバーのモチベーションを維持して、クオリティの高い展示を続けていくために、特に中心的なメンバーにかかる負担はただ事ではない。その意味で、四谷から新宿への移転を経て、30年に渡って運営を担ってきた瀬戸正人に敬意を表したい。
今回は「30周年記念写真展」ということで、つねにPlace Mの顧問的な役割を果たしてきた森山大道をはじめとして、須田一政、沢渡朔、深瀬昌久、ロバート・フランク、ユージン・スミス、ジャン・ルイ・トルナート、張照堂ら、「当ギャラリーがコレクションしてきたオリジナルプリント」が展示されていた。それに加えて、浜浦しゅう、西岡広聡、小松透、佐藤充、奈良茉美など「当ギャラリーで展示した若手新人作家」の作品も並ぶ。ギャラリーを主宰する瀬戸正人の作品が数多く展示されているのはいうまでもない。
Place Mの特徴のひとつは、ギャラリーの運営だけでなく、年2回受講生を募集する写真ワークショップの「夜の写真学校」、レンタル暗室のTokyo Darkroomなどの活動なども積極的に展開していることである。写真制作を軸にした、有名無名の写真家たちの出会いの場としても機能しているわけで、それがエネルギーを枯渇させずにギャラリーが続いてきた要因ともいえる。展示にも、個々の生のリアリティに固執する彼らの志向性がよくあらわれていて見応えがあった。

2017/12/24(飯沢耕太郎)

石内都 肌理と写真

会期:2017/12/09~2018/03/04

横浜美術館[神奈川県]

石内都の写真はシリーズごとには何度も見たことがあるけど、まとめて見る機会はなかった。こうして初期から通して見て初めて「なるほど」と納得した。展示は横浜のアパートを撮ったシリーズから始まるが、しばらく見ていくと塗装のはげた壁や床を執拗なまでに撮っている写真に出くわし、ここでひとり合点したのだった。それは石内が、人であれ建物であれ年季の入ったものの表面に関心がある、というより、そのテクスチュアにフェティッシュな欲望を感じているんじゃないかということだ。例えば、はがれそうな塗装とかはがれそうな皮膚とか見ると、はがさずにはいられないような皮膚感覚。それが彼女の写真を貫く美学なのだと勝手に理解したのだった。大野一雄のしわくちゃの肌を撮った《1906 to the skin》も、女性の傷跡ばかり追った《Innocence》も、母の遺品を記録した《Mother’s》も、被爆者の衣類を写した《ひろしま》も、絹の着物を追った《絹の夢》も《幼き衣へ》も《阿波人形浄瑠璃》も、すべて皮膚および、皮膚に触れる衣のテクスチュア(テキスタイルと同じ語源)を印画紙に定着させたものにほかならない。そういえば、石内は多摩美の染織(テキスタイル)専攻だった。

2017/12/22(金)(村田真)

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無垢と経験の写真 日本の新進作家 vol. 14

会期:2017/12/02~2018/01/28

東京都写真美術館[東京都]

毎年開催されている東京都写真美術館の「日本の新進作家」のシリーズも14回目を迎えた。この「新進作家」という枠組みはいささか微妙で、すでにかなり知名度がある写真家が選出されることもあり、テーマ設定とフィットしない場合も多々あった。だが、今回は新鮮でバランスのとれた、かなりいいラインナップになった。「無垢と経験」というやや大きな間口のテーマにしたことが逆にうまくいったのではないだろうか。
吉野英理香、金山貴宏、片山真理、鈴木のぞみ、武田慎平という出品作家の顔ぶれを見ると、その作品の幅はかなり大きい。独特のリズム感を感じさせる日常スナップを撮影する吉野英理香と、義肢と共に生きるセルフポートレートと自作のオブジェとを組み合わせてインスタレーションした片山真理の作品は、ほとんど正反対のベクトルを備えているといってよい。統合失調症を発症した母親を撮り続ける金山貴宏、窓、鏡などに映し出される何気ない眺めを定着する鈴木のぞみ、東北・関東地方の汚染土壌に印画紙を埋めて、放射線の痕跡をトレースした武田慎平の作品も、まったくバラバラな方向を向いている。だが、現代社会のさまざまな「経験」の深み、奥行き、距離感を、それぞれが写真という媒体の特性を活かして表現しようとする、その切実さがきちんと伝わってきた。
ただ、このような独立した個展の集合のような展示の場合、写真作品相互の関係のあり方にはもう少し気配りが必要だったのではないだろうか。互いに干渉しあって、展示効果が相殺されてしまっているところもあった。

2017/12/20(飯沢耕太郎)

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