artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ボストン美術館 パリジェンヌ展 時代を映す女性たち

会期:2017/06/10~2017/10/15

名古屋ボストン美術館[愛知県]

フランス革命後、いかにパリジェンヌのモードが広がり、どのように展開し、また海を隔てたアメリカにも影響を与えたかを、アートでたどる企画だ。それにしても、頭の上に戦艦までのせるなど、18世紀末に流行した盛り盛りのヘアスタイルの図解には驚かされた。これは優雅というようなものではなく、ヤンキーバロックに近いデザインである。

2017/08/31(木)(五十嵐太郎)

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第6回EMON AWARDグランプリ受賞作 大坪晶展

会期:2017/08/18~2017/09/09

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

毎年開催されるEMON AWARDのグランプリ受賞者は、EMON PHOTO GALLERYで個展を開催する権利を得る。大坪晶はその第6回目の受賞者で、今回は受賞作の「Portrait and Crowd」のシリーズのほかに、新作の「Portrait of Women」、「種の起源/On the Origin of Species」、そして立体作品の「Collective Memories of a Family─ある家族の集合的記憶」を展示していた。
大坪の作品は、パネルに大量の画像を貼り付けたコラージュ作品である。一見すると、ただのポートレートのようだが、細部に目を凝らすと、それらが豆粒のように小さな群衆の集合写真でつくられていることがわかる。「無数の見知らぬ人々の記憶のつらなり」と「作者の個人的系譜」が重なり合う「Portrait and Crowd」のシリーズは、コンセプトと技術とが完璧に融合した質の高い作品群だった。今回発表された新作の「Portrait of Women」では、その試みをより社会性、歴史性のほうへ押し広げて、樋口一葉、平塚らいてう、ヴァージニア・ウルフという、ほぼ同時代に生きた3人の女性作家、活動家のポートレートをテーマに大作にチャレンジしている。
たしかに、「政治性や社会性について考察するケーススタディ」として面白い試みなのだが、以前の作品に見られた写真そのものの生々しい物質感が希薄になっているので、どこか平板な印象を受ける。第二次世界大戦に従軍した祖父の記憶を辿る「種の起源/On the Origin of Species」や、顔の形の立体にコラージュした「Collective Memories of a Family─ある家族の集合的記憶」のほうが、写真の使用については積極的であり、よりダイナミックな構造を備えた作品として成立していた。このままだと、写真をもとにコラージュすることの意味が、薄れていってしまうのではないだろうか。

2017/08/31(木)(飯沢耕太郎)

建築Symposion──日独仏の若手建築家による──「かげろう集落~日独仏の建築家が提案する小さな公共空間群」

会期:2017/08/26~2017/09/03

京都芸術センター グラウンド[京都府]

監修として関わった京都芸術センターの「かげろう集落~日独仏の建築家が提案する小さな公共空間群」展がスタートした。これは日本、ドイツ、フランス、デンマークに拠点を置く6組の建築家がかつての校庭にパヴィリオン群をつくり、来場者にその使い方を自由に想像させる試みである。わずか9日間だけ出現する仮説の場だが、だからこそ可能な空間の実験を行ない、われわれにいかなる想像力を喚起させるかを問う。格子状のルーフ、中庭をおおうテープ、ユーモラスな丸太群、地上の切妻屋根、水をまく塔、穴あきパネルの遊び場、横断する廊下、そして音を出す悦楽の山車。ポエティックな建築の断片で構成された、はかない蜉蝣/陽炎の集落が、形態と機能の関係を切断する。オープニング・パーティでは、日射しが厳しくない夕方、人があちこちに散らばり居場所をみつける雰囲気がよい。地域のパフォーマーたちがパヴィリオン群を活用して演じたのだが、空間の可能性を引き出す手腕はお見事である。また子どもや地元のおじさんも自然とそこに混ざり、魅力的な場になっていた。

写真:左上=加藤比呂史《人々をこの場所を織りこむ、落書き》 左下=スヴェン・プファイファー《危ない遊び場》 右上から=ドットアーキテクツ《町屋の滑り屋根》、ルードヴィヒ・ハイムバッハ《形のない悦楽のフロート》、加藤比呂史《京雑草の庭》

2017/08/26(土)(五十嵐太郎)

東アジア文化都市2017京都 アジア回廊 現代美術展

会期:2017/08/19~2017/10/15

二条城・京都芸術センター[京都府]

東アジア文化都市2017京都の「アジア回廊 現代美術展」をまわる。京都芸術センターの会場では、建築に介入する今村源、堀尾貞治。ヤン・フードン、ルー・ヤンは迫力の映像、中村裕太はホコラのリサーチである。特に中原浩大の幼少時や小中高の作品群が膨大にあって驚かされる。二条城の会場は、まずチェ・ジョンファの作品が点在していた。そして東南隅櫓に久門剛史の揺れる作品、台所では谷澤紗和子、ヒスロム、西京人ら。庭には蔡国強の迫力のインスタレーションを置く。日本において、文化財にこれだけ現代アートを絡ませたのはめずらしいだろう。へ・シャンユのアンフォルムな作品には、ニヤリとさせられる。このエリアは広域に作品が点在し、かなり歩く。もっとも、ここで一番すごいのは、やはり二条城の御殿そのものの建築と室内画だった。おかげで久しぶりに内部空間を体験したが、記憶していたよりも、かなり装飾が多い。そして解説の文章も、空間と絵画の関係への言及が増えたように思う。なお、外周廊下の格天井や壁画は、明治期に天皇が使うようになって権威づけに足されたものである。

写真:左上から=堀尾貞治+現場芸術集団「空気」、ルー・ヤン、中原浩大、チェ・ジョンファ、久門剛史 右上から=谷澤紗和子、蔡国強、へ・シャンユ、二条城(2枚)

2017/08/26(土)(五十嵐太郎)

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キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain1917 2017 Case 3:「誰が《泉》を捨てたのか Flying Fountain(s)」

会期:2017/08/09~2017/10/22

京都国立近代美術館 4Fコレクションギャラリー[京都府]

男性用便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。「Case 3: 誰が《泉》を捨てたのか Flying Fountain(s)」は、京都国立近代美術館の元学芸課長、河本信治の企画。タイトルの「Fountain(s)」の複数形が示唆的だ。《泉》のオリジナルはアンデパンダン展で出品拒否された上、現存しないが、アルフレッド・スティーグリッツが撮影した《泉》の写真は広く流通し、後年には複数のバージョンのレプリカが再制作されている。本展では、複製イメージと複数バージョンのレプリカ(もしくはそれに近似した市販品)を用いて、「オリジナル」及びレプリカが提示された各状況がパラレルに「再現」された。
それぞれの「再現」に用いられたアイテムと状況は以下の4ケースである。1)オリジナルを撮影した唯一の写真と言われる、スティーグリッツ撮影の写真。《泉》擁護の記事とともに、雑誌『ザ・ブラインドマン 第2号』に掲載された。本展示では、所蔵品である雑誌そのものではなく、あえて複写した「コピー」を壁に掲示。画像としての拡散性や流通性を強調した。2)デュシャン研究者で画商のアルトゥーロ・シュヴァルツが、1964年に再制作したレプリカ。デュシャンの監修の下、スティーグリッツの写真に基づき図面を作成し、「オリジナルに最も近い」と言われる。このシュヴァルツ版を用いて、「オリジナルがアンデパンダン展会期中、仮設壁の後ろに隠されていた」状況が再現された(展示室のガラス壁面の前を仮設壁で覆い、「バックヤード」を模した空間にひっそりと展示)。3)ニューヨークの画商であったシドニー・ジャニスの勧めで、1950年に再制作されたレプリカ。ジャニスがパリの蚤の市で購入した小便器に、デュシャンが署名し認定した。このジャニス版は、スティーグリッツの写真とは明らかに形態が異なる。所蔵先は他美術館であるため、今回の展示では、近似した市販の小便器を代替品に用い、ジャニス版が出品された1953年の展覧会「Dada, 1916-1923」の記録写真を参照して、展示状況を再現した。台座の上に彫刻的に設置するのではなく、展示室の入り口上部に90度傾けて設置されている。4)もう一台購入した同型の市販製品を代替品として用い、1917年頃に撮影されたデュシャンのスタジオの写真を参考に、彼がレディメイドをどのように提示していたかを再現する。《泉》の他に数点のレディメイドが天井から吊られ、壁に影が投影されている。
このように本展では、1枚の写真と3点のレプリカ(及びその代替品)を用いて、《泉》が提示された複数の状態──展示拒否/雑誌への写真掲載=イメージの固定化と画像としての再生産/再制作としての反復とオリジナルからの逸脱/スタジオでの様態というもう一つの可能態──を同一空間にパラレルに共存させている。それは、資料や記録写真に基づいて状況を検証するという実証的な手続きを取りつつ、複写や再制作という反復の身振りそれ自体を繰り返し、それぞれの個別性と差異を際立たせることで、物理的同一性に基づく「オリジナル」神話の解体、ひいてはそれを制度的に保証する美術館という枠組みに揺さぶりをかけていた。あるいは、《泉》を単一の起源に還元するのではなく、さまざまな歴史的段階における複数の現われとして捉え、それら相互の差分を計測すること。そうした脱中心化に、本展のキュレトリアルな意義がある。


会場風景

2017/08/26(土)(高嶋慈)