artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

第10回ヒロシマ賞受賞記念 モナ・ハトゥム展

会期:2017/07/29~2017/10/15

広島市現代美術館[広島県]

個人的に第10回ヒロシマ賞の審査に関わったこともあり、広島市現代美術館のモナ・ハトゥムの受賞記念展に足を運んだ。今回は作家の希望により、クセがない方の常設エリアを展示場に選んだらしい(もともと美術館のオープン当初は、こちらが企画展のエリアだったが)。ともあれ、日本初の個展である。何もない身ひとつの状況で、イギリスで暮らすことになったため、最初は身体パフォーマンスから始まり、やがて日用品、紙や髪など、些細なものを素材とする作品制作を行なうようになった軌跡は、ほかの女性作家にも共通するかもしれない。あえて巨大スペクタクル化しない、痛みの作品の系譜をたどれる展覧会だった。

2017/09/06(水)(五十嵐太郎)

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今井祝雄─余白の起源

会期:2017/09/02~2017/09/30

ozasakyoto[京都府]

本展は、今井祝雄が異なる時期に制作した2つのシリーズ作品を中心に構成されていた。ひとつは2010年から11年にかけて発表した《フレーム考》12点、もうひとつは1971年に行なわれた具体美術協会のグループ展(同協会にとって最後の展覧会)に出品した《絵画または余白─A》と《同─B》の2点である(ほかには石版作品が数点)。2つのシリーズには共通の特徴がある。それは真っ白なキャンバスの四辺にメディウムが盛り上げられており、ほかには何も描かれていないことだ。また興味深いことに、今井は2010~11年の作品を制作した際、1971年の作品を完全に忘れていたという。つまり2つのシリーズは不連続だが、それでいて何がしかの共通性と時代精神を宿していることになる。1971年の作品を考えるとき、同時代の「もの派」やコンセプチュアル・アートとの関連が連想される。一方、2010~11年のアートシーンに40年前のような流行はなかったと記憶しているが、今井のセンサーは何を感じ取っていたのだろうか。筆者が思うに、2つのシリーズに共通するのは、絵画とそれが置かれる空間との関係、描くことをギリギリまで削ぎ落した表現、描くことの意味を問い直すこと、である。この推測が正しいか否かはさておき、ひとりの作家が40年の時を経て、エコーのように同系の作品を制作していたという事実が面白い。展覧会初日に行なわれた今井と平井章一(京都国立近代美術館主任研究員)のトークを聞いていれば、作家の意図がより明確に理解できただろう。参加できなかったことがいまになって悔やまれる。

2017/09/05(火)(小吹隆文)

人長果月展─Biosphere─

会期:2017/09/05~2017/09/16

galerie 16[京都府]

人長果月はインタラクティブなビデオインスタレーションをつくり続けているアーティストだ。今回の作品は「biosphere」(生物圏)と題されており、森の木々や草花、動物たち、池の水面や魚などを撮影した映像が幾重も重なったものだ。そして画面の前を人が横切る、動くなどすると映像のレイヤーがほころんで、隠れていた映像が垣間見える。また展示室の端には光源と回転するレンズが設置されており、そこから放たれた光が映像に干渉する仕組みにもなっている。タイトルからも窺えるが、本作のテーマは近年変調が著しい地球環境への危機感であろう。また本作のもうひとつの特徴は、音楽の効果的な使用だ。レガートな和音から成るオリジナル楽曲は、「カノン進行」と呼ばれる有名なコード進行でつくられており、映像に荘重さを加えていた。それはまるでレクイエムのようであり、作品を見続けるうちに、自分が人類滅亡後の世界にひとり生き残って、失われた自然を懐かしんでいるかのような気持ちにさせられた。

2017/09/05(火)(小吹隆文)

志賀理江子 ブラインドデート

会期:2017/06/10~2017/09/03

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

闇の中、数秒おきに写真のスライドプロジェクションが切り替わる。呪術的、内臓的で、禍々しくも聖なるイメージ。その残像。血管かへその緒のように垂れ下がり絡まるコード。光の明滅、一定のリズムでスライドの切り替わるカシャッという音がトランスさえ誘う。時折、投影される強烈な赤い光が壁を赤く染め上げ、私は「影」として亡霊たちの世界に取り込まれる。ここは亡霊が徘徊する異界であり、未だ生まれざる者たちが宿る胎内だ。そして、写真の中で生を止められた者たちの無数の眼差しが、死者たちの永遠に見開かれた眼が、こちらをじっと見つめ返している。私たちは、イメージを安全に眺める主体ではもはやいられない。「写真を見る」という視覚経験を超えて、身体感覚や本能的な恐怖すら感じさせる、そうした直感を展示から受けた。


「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での会場イメージ 2017
撮影:志賀理江子

個展会場は2つの空間に分かれており、片方では、約20台のスライドプロジェクターから、近作の膨大な写真群が壁に投影されている。その多くが《弔い》と冠されているように、死と儀礼、供物、自然の中での霊的な交感、何かの気配の出現、といった印象を与えるイメージが多い。もう片方の空間では、2009年にバンコクでバイクに乗る恋人たちを撮影したシリーズ《ブラインドデート》が、大判のモノクロプリントで展示されている。写真は、手前に据えられたスタンドライトに照らされ、光と闇のコントラストを強調する。この《ブラインドデート》は、志賀がバンコクでの滞在制作中、二人乗りのバイクの後部座席から自分に投げかけられる視線に関心を持ち、「その眼差しをカメラで集めてみたい」と思ったことが端緒になっている。バイクに同乗するカップルに声をかけて撮影を進めるうち、「バイクに乗った恋人たちが背後から目隠しをして走り続け、心中した」という事件を妄想し、「恋人の手で後ろから目隠しをされてバイクを走らせる男性」のポートレイトが撮影された。

志賀にとってカメラは異界と交感するための装置であり、イメージは異界への通路となる。では、収集された眼差しは誰の視線か?「バイクに同乗して心中する恋人」という設定は、「これから死者の仲間入りをする者」という想像をたやすく誘導する。いや、そうした「設定」を解除しても、写真の中の眼差しとは常に「いつかは死ぬ者、潜在的な死者の視線」であり、あるいは「既に肉体的にはこの世に存在しないのに、執拗に眼差しを向け続ける眼」である。会場から出口に至る細長い通路には、「もし宗教や葬式がなかったとしたら、大切な人をどのように弔いますか?」という志賀の問いに対して、寄せられたさまざまな回答が壁に提示されていた。「弔い」すなわち死者の埋葬時には、通常、死者の眼は閉じられる。しかし、「永遠に見開かれたままの死者の眼」という戦慄的な矛盾が写真の根底にはあり、「弔い」とは記憶の中に安定した座を与えることではなく、その眼差しとの(永遠に交わらない)交感の内に自身の身を置き続ける過酷な所作を言うのではないか。



「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での展示風景 2017
撮影:志賀理江子

2017/09/02(土)(高嶋慈)

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大山エンリコイサム ファウンド・オブジェクト

会期:2017/09/01~2017/09/30

コートヤードHIROO[東京都]

ニューヨークの骨董屋で見つけた時代ものの版画や写真に、グラフィティのストロークを施した作品15点の展示。元の絵柄は花、人物、建物、風景などさまざまで、そこに細密な鉛筆やアクリル絵具でジグザグパターンを描き加えている。グラフィティを「落書き」とすれば、これは紛れもなく版画や写真への落書きであり、大げさにいえば他人の作品へのテロともいえる行為だが、グラフィティの「ゴーイング・オーバー」がそうであるように、元の画像を汚したり隠したりせずに丁寧に線描しており、オリジナルを尊重していることがわかる。バンクシーにも古い絵画に手を入れて現代的な風刺画に変えてしまう作品があるけれど、大山は意味を変えるというより、オリジナルの画像への即興的なリスポンスを試みているのかもしれない。サイズも小さめでコレクションするには手ごろ。

2017/09/01(金)(村田真)