artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
渋谷自在──無限、あるいは自己の領域
会期:2017/07/29~2017/09/17
トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]
2005年にオープンしたトーキョーワンダーサイト(TWS)渋谷が今秋、東京都現代美術館の運営する東京都渋谷公園通りギャラリー(仮称)として生まれ変わるそうだ。ってことで、TWSの最後の企画展として大野茉莉、西原尚、潘逸舟の3人展が開かれた。西原はギャラリー内に古びたトタン板で掘建て小屋を4軒ほど建て、その周囲にも犬小屋か鳥小屋くらいの箱を設置。そのなかに鉄カブトや洗面器などを用いた手づくりの楽器を置いて、タイマーで音が出るように仕掛けた。これはいい。音の出る道具(音具)づくりなら鈴木昭男から松本秋則まで多くの先達がいるが、その音具を効果的に見せる(聞かせる)ための舞台として掘建て小屋まで建てたのは秀逸。いや舞台というより小屋自体も「楽器」の一部と見るべきか。まるで敗戦後の焼け跡の風景を思わせる。2階ではテントを建てて内部に人体の一部を連想させる工作物を吊るし、光を当てて外から影絵のように見せているのだが、これはデュシャンの《独身者の機械》を彷彿させる。渋谷区役所勤労福祉会館内に位置するTWS渋谷の展示空間を最大限に変容させた、最初で最後のすばらしいインスタレーション。
潘は映像と絵画の出品。《海で考える人》と題する映像は深さ2、3メートルほどの海中でプカプカ浮かぶ人を撮ったもので、なにをしてるのかと思ったら、タイトルどおりロダンの彫刻《考える人》のポーズをとり続けているのだ。ブロンズ彫刻とは違い、地に足をつけずに浮遊しながらなにを考えるのか。無重力状態における彫刻のあり方、考え方に再考を促す作品。
2017/09/16(土)(村田真)
野村佐紀子「愛について あてのない旅 佇む光」
会期:2017/09/09~2017/10/22
九州産業大学美術館[福岡県]
九州産業大学美術館が企画する「卒業生─プロの世界」の第7回目として、野村佐紀子の個展が開催された。1967年、山口県下関市出身の野村は、1990年に九州産業大学芸術学部写真学科卒業後、荒木経惟に師事し、1993年ごろから写真家としての個人活動を開始する。1994年に最初の写真集『裸の部屋』を自費出版で刊行。以後20冊近い写真集を出版し、数々の展覧会を開催してきた。本展では、その野村の20年以上にわたる写真家としての軌跡を、約170点の作品で辿っている。
展示は3部構成だが、第2部の「あてのない旅」は8点のみの「間奏曲」とでもいうべきパートであり、その大部分は第1部の「愛について」と第3部の「佇む光」で占められている。基本的には既刊の写真集の流れに沿って過去の作品を見せる「愛について」と、「2013年以降の新作」を展示した「佇む光」ということになるが、作風的にそれほど大きな違いがあるようには見えない。闇の粒子を身に纏ったような男性の裸体写真を中心に、ごく近い距離感で撮られた室内の光景が配置されている。カメラが外に出る時にも、視覚よりも触感を強く感じさせる被写体の捉え方は共通している。近年はモノクロームだけでなく、カラー写真も多くなってきたが、それでも画面の質感にほとんど変わりがない。老人施設で撮影された異色のポートレートのシリーズ『TAMANO』(リブロアルテ、2014)や、珍しく女性のイメージを中心に構成された『Ango』(bookshop M、2017)などが外されているということもあるが、どちらかといえば野村の作品世界の均質性、一貫性が強調されていた。それほど大きな会場ではないので、その狙いは的を射ている。だが、次はもう少し大きな会場で、より広がりのある構成の展示を見てみたいとも思った。
2017/09/16(土)(飯沢耕太郎)
「Art in ART」展
会期:0017/04/28~2017/10/01
クラクフ現代美術館(MOCAK)[ポーランド、クラクフ]
クラコフの街を歩く。「シンドラーのリスト」で有名な工場があり、とてもモダンな外観である。これに隣接する鋸屋根の旧工場は、リノベーションによって、現代美術館になっていた。正直、ポーランドの地方都市なので、それほど展示はたいしたことがなかろうとなめていたら、とても面白い企画展を開催しており、クラクフの文化度の高さを思い知る。特に「Art in ART」展は、美術史を踏まえたメタ美術的な作品を集め、ポーランドの作家中心だけど(もちろん、シンディ・シャーマンや森村泰昌ほか、小川信治らもいるが)、笑いもありながら、こちらの知識も試される緊張感が続く。またホロコースト後の世界を描く、Jonasz Sternの企画展示も開催していた。
写真:左列=「ART in ART」展、右上から=クラクフ現代美術館(2枚)、「Landscape after the Holocaust」展、シンドラーの工場
2017/09/15(金)(五十嵐太郎)
Face to face: Art in Auschwitz
会期:2017/07/07~2017/11/19
クラコフ国立美術館[ポーランド、クラクフ]
クラコフの国立美術館分館にて、アウシュヴィッツ博物館の70周年記念として企画された「Face to face:アウシュヴィッツのアート」展を見る。てっきり戦後に描かれた作品かと思いきや、そうではなく、まさに強制収容所で制作された絵だけを紹介しており、極限状態のアートとして衝撃的な内容だった。最初の部屋は、ナチスが描かせた絵画(壁画や非公式に画才のあるユダヤ人に描かせ、家族や友人へのプレゼントに持ち帰ったとても「普通」の絵)、第二の部屋は、過酷な労働状況や虐待を描いた作品。第三の部屋は、ユダヤ人たちの肖像画(もちろん、隠れて描いた息抜きの作品)、そして最後は現実逃避として理想を描いた作品。とりわけ瓶の中にスケッチ群を隠し、1947年に発見されたやや漫画タッチの絵が(描いた人も不詳)、残虐な事態を鮮明に伝えており、鬼気迫るものがあった。それにしても、これだけ多くの絵が強制収容所で密かに描かれ、また残ったことから、言葉ではない、絵という視覚芸術の凄みを再認識した。
写真:左中=家族や友人へのプレゼントに持ち帰った絵、左下=壁画、右上=過酷な労働状況や虐待を描いた作品、右中=肖像画
2017/09/15(金)(五十嵐太郎)
生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ
会期:2017/09/16~2017/11/12
東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館[東京都]
ぼくが初めて知った日本の画家は、たぶん東郷青児だと思う。幼いころ東横線沿線に住んでいたので、たまに父親が自由が丘のモンブランの洋菓子を買ってきてくれたのだが、その包装紙をデザインしていたのが東郷青児だったからだ。星空にのっぺりした女性の姿が描かれたもので、多少絵心のあった母親の口から「トーゴーセージ」という名を聞いたように思う。もっとも子どもにとっては包装紙より中身のほうがはるかに重要だったが。ともあれ東郷青児という画家は、ぼくのなかでは最初はとても甘美な思い出とともにインプットされていた。それが長じて美術に興味を持つようになると、その甘美すぎる絵柄とは裏腹の二科会のドンとして君臨する「帝王」の顔がかいま見えてきて、すっかり興ざめしてしまう。その彼が大正時代にキュビスムや未来派のスタイルをいち早く導入した前衛画家であることを知るのは、ずっとあとのこと。そんなわけで、東郷青児はぼくのなかでは浮沈の激しい画家なのだ(考えてみれば藤田嗣治も岡本太郎もぼくのなかでは浮沈が激しい)。
展示は、18歳で開いた個展の出品作《コントラバスを弾く》や、19歳で第3回二科展に初入選した《パラソルさせる女》など、初期の清新な絵画に始まり、7年間のパリ生活を経て帰国後《超現実派の散歩》などの傑作をものしつつ、デザインや壁画などにも手を染め、いわゆる東郷スタイルが固まっていく戦後までを振り返るもの。陰影をのっぺり描く東郷独自のスタイルは、すでにパリ時代から始まっているようだが、その後デザインを手がけるようになって加速していったように感じる。戦後になるともはや少女のイラストと変わりなく、陳腐としかいいようがない。この評価の低落はだれの目にも明らかで、同展の出品点数を見ても、絵画に絞ると戦前の30年間(1915-45)が41点なのに対し、戦後の32年間(1946-78)は17点しかない(60年代以降に絞るとわずか3点)。年とともにいかに作品が衰退していったかがわかる。逆に戦後、東郷は二科会の再建に尽くし、長く会長として君臨。ハデな前夜祭を繰り広げたりタレント画家の作品を入選させたり、戦前の前衛精神はどこへやら、世間受けしそうなパフォーマンスばかりが目立つようになる。
まあそんなことはどうでもよくて、この展覧会でハッと目が止まったのは藤田嗣治との関係だ。この10歳ほど年上の先輩とは20年代のパリで出会ったようで、その後二人は二科展内部に前衛的な傾向の画家たちが立ち上げた九室会の顧問を務めたり、 髙島屋から水着のデザインを依頼されたり、百貨店の壁画を競作したりと、戦前は緊密な関係を続けた。同展にはふたりの合作といわれる《海山の幸》も出ている。さてここで疑問。戦時中、藤田が戦争画にのめり込んだことは知られているが、東郷は戦争画を描かなかったのだろうか。戦後、藤田は戦争責任を問われて日本を去ることになったが、東郷は逆に二科展を舞台に影響力を強めていく。その違いは、単に戦争画を描いたか描かなかったかの違いなのか。
東郷は支那事変後、明らかに弥勒菩薩像を意識した伝統回帰的な《舞》を制作しているが、戦争画は描いた形跡がない。カタログの年譜を見ると、1943年「第2回大東亜戦争美術展・第九室に《出發》を招待出品」とあるが、どんな作品だったのかわからない。また戦後には飢えた母子を描いた《渇》と題する珍しい作品もあるが、基本的に戦前も戦後もほぼ一貫して洋風の女性像を描き続けたようで、戦争による大きな断絶はなさそうだ。考えられるのは、東郷は甘美な女性像を得意とする画家だったため軍からの依頼が来なかったのではないか。それに対して藤田も20年代は「乳白色の肌」で知られた画家だったが、30年代に入ると人気に陰りが見えてきたため、みずから進んで従軍し、戦争画の制作で起死回生を図ったのかもしれない。二科展の前夜祭などを見ると東郷も相当のお調子者だったことがうかがえるが、おそらく歴史に名を残そうとする野心と、ヌードの女性像も凄惨な戦争画も敬虔なフレスコ画も描き分けてしまう技量において、藤田にはおよばなかったに違いない。
2017/09/15(金)(村田真)