artscapeレビュー

東松照明 ─長崎─展

2016年08月15日号

会期:2016/05/28~2016/07/18

広島市現代美術館[広島県]

「長崎」の時間の重層的な皮膚をどう写し取ることができるのか。1961年に始まった長崎の撮影は、東松照明のライフワークとして約50年にわたり継続されることで、「マンダラ」としての濃密な織物を形成してきた。そこでは時間は単線的に流れるのではなく、せき止められ、幾重にも折り重なり、分岐と再接続を繰り返しながら、イメージが連鎖的に共鳴し合う水平方向と、複数の過去の記憶へ遡行する垂直方向へ伸び広がっていく。約350点の写真が展示された本展は、「長崎」の時間を編み直す場でもある。
冒頭に提示された、被爆遺物の時計が象徴的に示すように、「11時02分」で静止した時間。固定・凍結された瞬間としての原爆と写真の同質性。そこからどう逸脱・逃走するかが、以降の写真で果断に試みられていく。60年代前半にモノクロームで撮影された、被爆16年後を生きる被爆者たち。後光のように頭上から光が差し込む聖人的崇高さは、破壊された天使やキリストの石像とリンクし、キリシタン迫害の歴史の想起の呼び水となる。また、カラーへの移行を経て、被爆者たちのその後を追った90年代の写真が隣接されることで、二世代、三世代にわたる生の連続性が日常の中に示され、家族史の記録ともなっている。ケロイドの痕を捉えた60年代のモノクロポートレイト2枚を画中画として配置した「山口仙二さん」の肖像には、背後に堆積した千羽鶴とともに、撮影する東松自身の影が写し込まれ、ひとつの画面内に複数の時間が重層的に折り畳まれている。
長崎の町歩きで撮影された膨大な写真群は、遊歩者としての東松の視線を追体験させるとともに、カメラを構えた「影」を写し込むことで、「長崎」に自身を差し入れる身振りが交差する。坂の多い町、海原のように眼下に広がる瓦屋根。無人売店とうろつく犬。漁業と造船業の町。キッチュな祭のドラゴンが練り歩く町。石畳を鮮やかに照らし出す、ステンドグラスの透過光。中国やポルトガル、オランダなど多文化の流入と接触の中で変容してきた町。塗装が剥げ落ち、フジツボの付着した船体やトタン板の接写は、鮮やかな色彩のドリップが抽象絵画を擬態するが、ただれた皮膚のイメージの暗喩として、突如、意識の中に回帰する。
2000年代に再撮影された被爆遺物を経て、展示の終盤に現われる諫早湾の干潟の穏やかな光景は、すぐれて象徴的である。川に運ばれた土が堆積し、波に浸食され、淡水と海水、水と土、異質なものどうしが混じり合う境界領域。波の跡が繊細な起伏の皺として刻まれた柔らかい泥の皮膚は、外界との界面=インターフェイスとしての皮膚であり、乾燥と湿潤、記憶と忘却を繰り返すその表面の複雑な襞の下には、見えない時間の層が堆積しているのだ。

2016/07/17(日)(高嶋慈)

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