artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
西村陽一郎「見る影がある」
会期:2015/11/03~2015/11/15
Gallery Photo/synthesis / Roonee 247photography[東京都]
西村陽一郎は1967年、東京生まれ。美学校で写真を学んだ後、1990年代から数々の作品を発表してきた。1995年、東京・銀座の画廊春秋での初個展以来25年になるというから、キャリア的には相当の厚みを加えてきたといえるだろう。ただ、フォトグラム作品を中心とする作家活動は、多産な割にはうまく焦点が結べないところがあった。だが、今回東京・四谷のGallery Photo/synthesis と Roonee 247photographyで同時開催された展示を見て、彼の本領がようやく発揮されてきているように感じた。
Gallery Photo/synthesisの展示は2部構成で11月3日~8日が「Y氏の光学装置」、11月10日~15日が「青いイカロス」である。両方ともフォトグラム作品だが、特に故柳沢信の所蔵物だったというハッセルブラッドのカメラ、レンズ、4×5インチ判のカメラのレンズボードなどをモチーフにした「Y氏の光学装置」が面白い(「青いイカロス」は鳥の羽根を使ったカラー・フォトグラム作品)。シンプルに抽象化されたカメラやレンズのフォルムが、細部まで注意深く構成されていて、写真表現の旨味を追求し続けた柳沢に対する見事なオマージュになっている。
Roonee 247photographyでは「啞子」、「ヌード」、「脚」の3作品。こちらはフォトグラムではなく、ブルー系にプリントされた「普通の」写真作品だが、これまでの西村の作品にはあまり感じられなかったフェティシズム、エロティシズムの要素が、かなり強く打ちだされていることに嬉しい驚きを覚えた。別に隠していたわけではないだろうが、一人の写真家の中に潜んでいた多面的な貌つきが、このような形で顕われてくるのはとてもいいことだと思う。この展示を踏み台にして、さらにスケールアップした作品を発表していってほしいものだ。
2015/11/03(火)(飯沢耕太郎)
琳派400年記念:琳派からの道──神坂雪佳と山本太郎の仕事
会期:2015/10/23~2015/11/29
美術館「えき」KYOTO[京都府]
この秋、京都では、琳派400年を記念する展覧会が目白押しである。そんななか、琳派の継承者、神坂雪佳と現代美術の作家、山本太郎の二人展が開催された。
神坂雪佳の出品作品は、京指物の老舗、宮崎家具による家具や箱物、宮崎家具所蔵の図絵をはじめ、川島織物セルコン(旧・川島織物)による染織品などおよそ40点である。小さな飾り棚、華やかな金蒔絵の硯箱、多色使いの窓掛け用紋織、袱紗、団扇、屏風、短冊、茶碗など多種多様な品々にはそれぞれふさわしい図柄が配されており、雪佳が希代のデザイナーだったことをいまさらながら実感させられた。宮崎家具も川島織物も、明治期には西欧の意匠や技術を採り入れながら日本独自の室内装飾を目指した企業である。こうした企業と協力関係を維持するコミュニケーション能力もまたデザイナーの資質のように思われる。なにより、とくかく上手いのである。形象を単純化、簡略化することによってそのものをよりそのものらしく表現することを「便化」というが、雪佳の図案にはその妙味を見ることができる。
さて翻って現代美術家、山本太郎の作品は屏風や掛け軸、絵画などおよそ40点である。立ち雛にはキューピッド、杜若には玩具のアヒル、菊慈童には缶ビールなど、古典的な画題と現代的なモチーフとの組み合わせが見所だ。なかでも俵屋宗達の《風神雷神図屏風》を引用した《マリオ&ルイージ図屏風》は、その大胆な趣向が話題になっている。いま、京都国立博物館では俵屋宗達俵、尾形光琳、酒井抱一の描いた三対の《風神雷神図屏風》が75年ぶりに揃って展示されている。会場は違えど、第四の一対ということになる。
琳派の特徴のひとつはその洒脱さにある。軽く、あっさり、さっぱりと。雪佳の場合はそれが便化として表現される。一方、山本の場合は、洒脱というよりもむしろ洒落、晒れや戯れといったほうがふさわしいように思われる。[平光睦子]
2015/11/03(火)(SYNK)
障害(仮)
会期:2015/09/12~2015/12/13
鞆の津ミュージアム[広島県]
同館のキュレーター、櫛野展正は、現在のところ日本でもっとも野心的かつ挑戦的な企画を打ち出している学芸員である。死刑囚、ヤンキー、老人など、従来の「障がい者」にとどまらない、さまざまなアウトサイダーたちによる造形や表現を紹介してきた。「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」というより、むしろ「美術」そのものの外縁を拡張した功績は非常に大きい。
今回の展覧会は、「障害(仮)」。末尾の「(仮)」に、櫛野の批評的な問題提起が込められている。それは、障がい者によるアウトサイダー・アートやアール・ブリュットが抱え込む純粋で無垢な性質に対する根本的な疑いである。例えば山下清の作品がそうであるように、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットの作品には、そのような純粋性によって語られることが非常に多い。アール・ブリュットの生みの親であるデュビュッフェも、精神障がい者による表現行為のなかに純粋無垢な精神性を求めていたことは間違いない。けれどもデュビュッフェの前提には、西洋近代が標榜していた普遍的な美の概念への対抗心という一面があった。その純粋性は、いわば敵対関係に位置づけられていたのだ。
逆に言えば、そのような敵対性を見失った純粋性は、個性の無批判な賞揚や優劣を退ける批評嫌悪に結びつきやすい。言うまでもなく、健常者による作品が玉石混交であるのと同じように、障がい者による作品に優れたものとそうでないものがあるのは当然だ。障がい者という属性が自動的に作品の質を底上げすることにはならないし、なってはならない。アウトサイダー・アートやアール・ブリュットが美術の現場に定着するにつれ、それらの純粋性はいつのまにか非常に偏ったものになってしまったのである。
そのような偏りを是正するという意味で、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットという概念のリハビリテーションを試みたのが本展である。参加したのは、「アイ・プロジェクト」で知られるチンパンジーのアイをはじめ、好きな施設職員の痕跡が残るあらゆる物を収集している武田憲昌、フェルトや毛糸などで食品サンプルを制作している三浦和香子など14名。基本的にはなんらかの障害をもつ人々が中心だが、現代美術から会田誠と百瀬文を招聘しているところが大きな特徴である。というのも、このような展覧会の構成は、同館でも開催した全国規模の巡回展「TURN」展と相似形をなしているからだ。それゆえ今回の企画展は、前述したような障がい者をめぐる偏った純粋性を再生産しかねない「TURN」展に対する櫛野展正からの批判的応答と言ってよい。
とりわけ注目したのが、小林一緒とあそどっぐ。小林はもともと調理師として働いていたが、アルコール性神経炎を患い、歩行困難となる。以来、自宅で毎日の食事を非常に緻密に描いたイラストレーションを描き続けている。展示されたおびただしい数の作品を見ると、小林の執着心のある視線がひとつひとつの食材はおろか、パッケージやラベルのデザインにまで及んでいることがわかる。あまりにも細かい場合はシールをそのまま転載したり、「めくり」を入れて紙面を重層化するなど工夫が凝らされている。
小林の作品が面白いのは、それが食事とその記録という主従関係をみずから反転させているように見えるからだ。本来であれば食事の記録としてのイラストレーションは、あくまでも食事という出来事の副産物だった。けれども小林のイラストレーションは非常に緻密に描き込まれるため、多大な時間を費やすそれが食事そのものを圧倒しているようにも見える。食事のイラストからイラストのための食事へ。そのような反転が起こりうるほど、小林にとってのイラストレーションは彼自身の生と分かちがたく結びついているのである。
あそどっぐは熊本県在住のコメディアン。脊髄性筋萎縮症をもつため顔と指をわずかにしか動かすことができない。24時間介助を必要とする寝たきりだが、みずからの障害をネタにした自虐的なコントをYoutubeなどで精力的に発表している。むろん、その笑いは自身の身を削るという意味で、ブラック・ユーモアである。けれども本展で展示された新作のコントを見ると、彼のネタが非常に緻密に練り上げられた構成であることがよくわかる。ストレッチャーや布団の上に身体を横たえているため、画面的にはほとんど動きがない。しかし物語の構成と言葉の選定を研ぎ澄ますことによって見事にオチまで鑑賞者を導くのだ。彼のある意味不自由な身体によるネタと比べると、いわゆるお笑い芸人の芸がいかに無駄な身体の動きと不必要な言葉によって飾られていることか。あそどっぐの芸の醍醐味は自虐的なネタによる障害問題の焦点化だけではなく、必要最低限の身体と言葉によるミニマル・コメディーを追究している点にあるのだ。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、東京都はアール・ブリュットの拠点を整備することを明言している。つまりアウトサイダー・アートやアール・ブリュットは、この先さらなる再編成の過程に巻き込まれると考えてよい。そのとき、「社会包摂」という名のもとで、いったい何が排除されるのか。
2015/11/03(火)(福住廉)
成田克彦──1973-1992 実験の続き
会期:2015/10/26~2015/11/20
東京造形大学附属美術館[東京都]
成田克彦(1944-1992)を知ってる人はどれだけいるだろう。名前と、「もの派」の作家、「炭」の作品くらいは知ってても、それ以降の活動を知ってる人はごくわずかしかいないのではないか。ここには代表作《SUMI》も出ているが、たった1点、しかもプロトタイプというべき小さなキューブのみ。残りの約30点はそれ以降の作品だから、同展の狙いは「炭の成田」像をいちど解体し、その後の作品展開から彼のやろうとしたことを浮かび上がらせることだといえる。70年代には関根伸夫や菅木志雄もやった位相幾何学的なレリーフ状の作品を制作。80年代に入ると帆布を丸めたり、板を棚状につけて彩色したり、丸太に帆布を巻いたり、木の幹をコラージュしたタブローに赤い帯を巻いたり、実にさまざまな、そして奇妙な形態の作品を発表するが、もっと奇妙なのは、すべての作品にウサギの毛がとりつけられていることだ。これらの作品がいったいなんなのか、どういうつながりがあるのかよくわからないけれど、この数センチの黒い毛に関してはたぶんだれもが陰毛を想起するに違いない。成田さんはいったいなにを考えていたのか。ひょっとしたら、従来の作品解釈のような作品相互のつながりや美術史への参照を通して理解するのではない、もっとまったく別の価値基準でなにかをつくろうとしていたのではないか、と思ったりもする。でもその一方で、単に失敗作を連発していたのではとの疑念もぬぐえないが。いずれにせよ志なかばで亡くなったことは間違いない。
2015/11/02(月)(村田真)
鴻池朋子 展「根源的暴力」
会期:2015/10/24~2015/11/28
神奈川県民ホール ギャラリー[神奈川県]
今回の個展では、3.11の震災を経て、自然と暴力に注視し、彼女の出身地である秋田のフィールドワークを踏まえ、地球的な視点を表わすオブジェや革を縫う絵画の新作を発表している。おとぎ話のほか、切り離す男の技術とつなぐ女の技術など、各分野との研究者の対話が興味深く、またそれをもとに作品を制作している。
2015/11/01(日)(五十嵐太郎)