artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
下平竜矢「星霜連関」
会期:2015/11/10~2015/11/23
新宿ニコンサロン[東京都]
下平竜矢は、10年前に移り住んだ青森県八戸市の古い神社で獅子舞を見た時に、「原始の時間が現出した」ように感じたという。それ以来、「かの始めの時」を求めて各地の祭礼や民俗行事を中心に撮影してきた。それは芳賀日出男、内藤正敏、須田一政など、これまで多くの写真家が取り上げてきたテーマだし、近年でも石川直樹や小林紀晴の仕事が思い浮かぶ。だが、それらの写真家たちとの差異性を意識し過ぎることなく、自分のやり方を押し通していったことで、独自の質感を備えた写真群が形をとりつつある。今回、新宿ニコンサロンで開催された個展、およびZEN FOTO GALLERYから刊行された同名の写真集を見て、下平の作品の方向性が着実に固まってきたことを確認できた。
出品作33点には、祭礼や行事の様子がしっかりと記録されているものもある。だがむしろ目につくのは、炎、水、空気のどよめき、群集のうごめきなどに還元された、何が写っているのかよくわからない写真だ。つまり下平は、オーソドックスな「民俗写真」の作法に寄りかかることなく、「原始の時間」をむしろ直接的につかみ取ろうとしているのではないだろうか。そのことは、写真展や写真集に、日付、場所、行事についてのデータ、キャプションが一切省かれていることからも裏づけることができる。このやり方が諸刃の剣であることをよく承知しつつ、彼があえて「未知なる感覚」にチャレンジしようとしていることを評価したい。
なお、同時期に東京・渋谷の東塔堂でも作品19点による同名の個展が開催された(2015年11月17日~11月28日)。こちらはより徹底して、風景から立ち上ってくる「気配」に集中している。
2015/11/18(水)(飯沢耕太郎)
学園前アートウィーク2015
会期:2015/11/07~2015/11/15
大和文華館文華ホール、帝塚山大学18号館、学園前ホール ラウンジ(奈良市西部会館3階)、淺沼記念館、中村家住宅、GALLERY GM-1[奈良県]
関西屈指の高級住宅街と言われる奈良市内の学園前エリアで、初開催となる地域型アートイベント。学園前は、戦後、郊外型ベッドタウンとして宅地開発され、地域名の由来ともなった帝塚山大学や東洋美術のコレクションで知られる大和文華館のある文教地区である。会場ボランティアは地元の年配の人が多く、地域が受け入れようとしている姿勢を感じた。現代アートをツーリズムと結び付け、「地域活性化」を目指す地域型アートイベントはすでに各地で乱立・飽和状態だが、高齢化・過疎化は山間・農村部だけの問題ではなく、都市沿線部の住宅地でも(潜在的に)進行している。その意味では、今後、同様の郊外ニュータウンでのアートイベントの先駆例となっていくかもしれない。
この種のアートイベントでは、「地域の魅力の再発見」がまずもって至上命令とされるが、本イベントでは、1909年に建設された奈良ホテルのラウンジの一部を移築した大和文華館文華ホール、企業家の邸宅で茶室や庭もある淺沼記念館といったゴージャスな空間と、木造の空き家や大学校舎を組み合わせ、コンパクトながらこの地域の性質がよく分かるような会場がセレクトされていた。大和文華館文華ホールでは、荒々しく飛び散る墨の飛沫に仮託したエネルギー/繊細な筆致の細密描写、俯瞰/微視的な描き込みを共存させながら東北の風景を描く三瀬夏之介の巨大な屏風作品が存在感を放っていた。また、淺沼記念館では、ダイニングのテーブルクロスの刺繍と同じ模様を、ワイングラスの内部に施すことで、グラスの水面に模様が映りこんでいるかのような繊細なインスタレーションを展開した森末由美子の作品が光っていた。
また、地域性や展示空間への言及とは無関係に強い印象を残したのが、稲垣智子の映像インスタレーション作品《GHOST》である。4面に投影された映像では、それぞれ、黒いジャケットを着た男性の手と情熱的に抱き合う/激しくもみ合う/泣いているのを慰められる/優しく抱き合う女性の姿が映し出される。屏風状のスクリーンは、片側が鏡面になっているため、恋人と抱擁する女性たちの半身は、左右対称に分裂し、あるいは二頭の怪物に変化したかのような不気味な様相を呈してくる。そうした不気味さや不穏感は、男性の頭部が見えないことでより増幅され、戦慄的なラストへと収束する。愛撫してくれる、強引に迫ってくる、慰めてくれる男性たちは、実は女性の一人芝居であり、自らの片腕をジャケットの袖に通して、男性の「手」を演じていたのだ。しかし女性たちは、ハンガーに吊るされた空っぽのジャケットに気づくことなく、包まれるように一体化してしまう。稲垣の作品は常に、多幸感と暴力性という二面性でもって見る者を突き刺すが、《GHOST》では、「ロマンティックな恋愛」「抱きしめたり慰めてくれる男性」という幻影を自らつくり上げ、その虚構の回路の中に取り込まれていく恐怖が、目覚めなければ幸福な夢として描き出されている。それは、女性を消費主体として生産される少女漫画や恋愛ドラマにおいては、男性は「不在」であり、自己の願望的な分身の投影にすぎないということ、そのナルシスティックな幻想の回路を、虚実の狭間を曖昧に融解させる鏡という装置を用いて提示した、巧みなインスタレーションだった。
2015/11/15(日)(高嶋慈)
UW-JSPS Joint Symposium:Socially Engaged Art in Japan NARRATIVE AND PANELS 日本における社会に関わるアート:現代美術と政策への問い
会期:2015/11/12~2015/11/14
ワシントン大学[アメリカ合衆国、ワシントン]
シアトルのワシントン大学でのシンポジウム「Socially Engaged Art」は、3日間朝から夜まで濃密なプログラムだった。そもそもタイトルの概念とは? 日本におけるその展開、具体的な実践例の紹介、ポスト3.11などが議論された。途中、ロサンゼルス在住の田中功起のトークや、シアトルに滞在している加藤翼の作品紹介も交える。
筆者は3.11を扱う最後のセクションで、金沢21世紀美術館から水戸芸術館に巡回した「3.11以後の建築」展と、ザハの新国立競技場問題を軸に「リレーショナル・アーキテクチャー」について発表する。Marilyn Ivyから従来の美学的な建築と新しい社会的な建築は対立するものなのかと聞かれ、両者は重層しうると回答した。
2015/11/14(土)(五十嵐太郎)
死の劇場─カントルへのオマージュ
会期:2015/10/10~2015/11/15
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
20世紀ポーランドを代表する演劇家・美術家のタデウシュ・カントルの生誕100周年を記念して開催されたオマージュ展。身体的パフォーマンスをベースとしたポーランドと日本の作家7名1組が参加した。
会場に入って圧巻なのは、ギャラリー空間の中に劇場が出現したかのような会場構成である。手がけたのは、若手建築家の松島潤平。ガラスの格子窓で三方を区切られた「舞台」上には一脚の椅子が置かれ、反対側には階段状の観客席。そしてこの舞台装置、ギャラリーの壁、壁際に置かれた植木鉢や車輪は、下半分を真っ黒に塗られている。枯死したような木、打ち捨てられたオブジェ、「死と破壊、暴力の痕跡」を濃厚に感じさせる、まさに「死の劇場」を体現するかのような空間だ。周囲を取り囲むように配されたパフォーマンスの記録映像は、痛みや喪失、暴力の記憶を扱ったものが多い。例えば、「舞台」奥のスクリーンに展示されたヨアンナ・ライコフスカの《父は決してこんな風に私を触らなかった》。強制収容所への移送を逃れるための過酷な潜伏体験など、現実の過酷さから身を守るために「感覚の麻痺」をみずから編み出した父親と、肌を触れ合ってコミュニケーションの回復を行なおうとする作家とが、互いの存在を確かめ合うように顔の輪郭をなぞる行為が映し出される。また、アルトゥル・ジミェフスキの《80064》は、アウシュビッツ強制収容所からの生還者の老人にインタビューし、腕の入れ墨の番号を見せてもらい、消えかけた番号を彫り直して「修復」することを申し出て、押し問答になるまでのドキュメンタリーである。
これらの作品は、戦争中にポーランドが受けた深い傷の記憶に言及するものだが、一方で、日本側の出品作家、例えば丹羽良徳の《デモ行進を逆走する》《首相官邸前から富士山頂までデモ行進する》は、劇場という既存の制度の外に出て、街頭など公共空間でのパフォーマンスを行なったカントルの批判精神を受け継ぐものとして召喚されている。丹羽は、「デモの逆走」「登山者の列に混じって一人だけデモを行なう」といった集団性から外れる意志表示を行なうことで、「デモ」を規定する集団性や均質化の圧力からの逃走線をひくことを試みる。
それにしても、モニターでの展示映像が多いため、舞台空間のがらんとした不在感を強く感じてしまう。いや、生身の俳優が不在なのではなく、むしろここでは「舞台」と「客席」とその周囲をうろうろと歩き回る観客自身が、「作品と社会に対峙し、考えること」を遂行(パフォーム)する主体として要請されているのだ。
2015/11/14(土)(高嶋慈)
今村源+東影智裕 共生 / 寄生─Forest
会期:2015/11/07~2015/12/05
ギャラリーノマル[大阪府]
菌類をモチーフとした立体作品で知られる今村源と、動物の頭部を細密な毛並みととともに表現する東影智裕が、「共生 / 寄生」をテーマにコラボレーション展を開催。京都市立芸術大学美術学部教授の加須屋明子がキュレーションを担当した。展示は、鉄パイプが林立する足場の上に巨大な鹿の頭部を配した2人の共作を室内中央に配し、周囲をそれぞれの作品が取り巻くように構成。別室では版画作品も見られた。彼らがモチーフとする菌類と毛並みは、「世界をわけ隔てる曖昧な境界」に存在する。それは異界への出入口であり、無数の主が複雑な関係を結びながら共存共栄するために必須の仕組みと言える。会期中にパリで同時多発事件があり(11/13)、人間社会に共生の精神が失われつつあることが露わになった。偶然とはいえ、そうしたタイミングで本展が行なわれたのは非常に示唆的である。
2015/11/14(土)(小吹隆文)