artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
高木智子・山下拓也展「他人のセンス」
会期:2015/11/13~2015/12/19
アートコートギャラリー[大阪府]
画家の高木智子と、立体、インスタレーション、写真などを制作する山下拓也。ジャンルも作風も異なる2人に共通するのは、他人の感性や視点を取り込んで表現を展開させることだ。今回高木が発表した《ベップ》シリーズ20点(エスキース2点を含む)は、大分県別府市で制作した一連の作品で、町中で出合ったショーケースに並ぶ誰かの収集物と飾り付けを、あざやかな色彩がせめぎあう彼女特有の描法で表現している。一方山下は、ネットオークションで入手したキャラクター人形を背面から撮影した《ばいばいの写真》6点と、発泡スチロール製の立体と映像を組み合わせた作品2点を出品した。両者の作品は、「他人」の介在がオリジナリティを生み出すのが特徴で、その結果社会の思いがけぬ一断面を浮き彫りにしている点も興味深い。気鋭の若手による充実した2人展であった。
2015/11/14(土)(小吹隆文)
国宝 一遍聖繪
会期:2015/10/10~2015/12/14
遊行寺宝物館[神奈川県]
《一遍聖繪》とは、時宗の宗祖、一遍上人(1239-1289)の行状を描いた鎌倉時代の絵巻。国内最古の絹本著色絵巻で、国宝に指定された名品である。今回の展覧会は、これを所蔵する時宗総本山清浄光寺の遊行寺宝物館が、その全十二巻を一般公開したもの。一巻の全長がおよそ10メートルだから、全巻を合わせると、およそ130メートル。それらが決して広いとは言えない会場に一挙に展示された。
「南無阿弥陀仏」。一遍上人は、この六文字による念仏を唱えるだけで誰もが往生を遂げることができると説きながら全国を行脚した。《一遍聖繪》には、その旅の道程が四季それぞれで移り変わる風景とともに描かれている。詞書は高弟の聖戒が、絵は法眼円伊が、そして外題は藤原経尹が、それぞれ手がけたとされている。
注目したいのは、十二巻にも及ぶ長大な構成のなかで、俯瞰的な視点による広がりと奥行きのある空間表現を一貫させている一方で、人物表現の密度によって一遍上人の遊行の盛衰を巧みに表わしているように見える点である。旅の始まりは孤独だったが、徐々に同行者が増えてゆき、やがて一遍上人を先頭に列を成すほどの一団となる。
その人物表現の沸点は、おそらく踊り念仏を描いた場面だろう。その始まりは第四巻第五段。そこには、信州は小田切の里に入った一遍上人が、とある武士の館の縁側に立ちながら、朱塗の鉢を叩いて踊る様子が描かれている。一遍上人が視線を向ける庭には3人の僧が同じように鉢を叩きながら踊り、その周囲を取り巻いた民衆も身体を大きく揺らしているのがわかる。通説では盆おどりの起源は踊り念仏にあるとされているが、一遍上人の念仏が「踊り」によって人々を魅了しながら広まっていったことは、ほぼ間違いないのだろう。
その踊り念仏の熱気が最高潮を迎えるのが第六巻第一段である。一遍上人とその高弟たちは、舞台に上がり、胸元に下げた鉦を打ち鳴らしながら激しく身体を動かしている。舞台の下では、群衆がその踊りを見上げているから、この時期、踊り念仏は早くもある種の見世物と化していたのである。
屋外でゲリラ的に実行される身体表現から舞台上で期待されて催されるパフォーマンスへ。一遍上人の踊り念仏のなかに、近代社会における芸術表現が宿命的に陥る隘路を見出すことは難しくない。けれども、その一方で注目したいのは、その群衆のなかに両手を合わせて拝んでいるようにも見える者が少なくないという事実である。踊り念仏がたんに身体表現の高揚感を醸し出す見世物だけでなく、ある種の礼拝の対象にもなっていたとすれば、そこにはベンヤミンが言うところの「展示的価値」と「礼拝的価値」が同居していたことになる。
だが、これを「同居」とみなす見方こそ、近代的なバイアスがかかっているかもしれない。そもそも前近代社会においては、双方は分かちがたいものとして一体化していたと考えられるからだ。物事を明確に峻別する近代的思考法によれば、近代の展示的価値を自立させるために前近代の礼拝的な価値は切り離された。しかし《一遍聖繪》が視覚化しているように、そもそも双方は表裏一体の関係にあったはずだ。しかも、そのような価値のありようは現代美術にも確かに及んでいる。
よく知られているように、1970年の大阪万博では、多くの来場者が岡本太郎による《太陽の塔》に両手を合わせて拝んでいた。また、菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣)》(1961)にも、来場者が次々と賽銭を投げ入れたため、制作に使用した五円玉の総数が、展示が終わった後、増えていたという逸話もある。つまり、私たちは美術を純然たる展示的価値として受容することが甚だしく苦手であり、それゆえ、いかなる造形であれ、そこにおのずと礼拝的価値を見出してしまうという癖があるのだ。これを、例えば切腹のような前近代的な悪習として退けることは、私たちの身体感覚からすると、あまりにも不自然である。優れた現代美術の作品が展示的価値と礼拝的価値をともに内蔵しているように、戦後美術史は礼拝性によって再編成されうるのではないか。《一遍聖繪》は、みごとなまでに、その契機を示している。
2015/11/13(金)(福住廉)
ティム・バーバー「Blues」
会期:2015/10/10~2015/11/14
YUKA TSURUNO GALLERY[東京都]
ティム・バーバーは1979年、カナダ・バンクーバー生まれ。アメリカ・マサチューセッツ州で育ち、現在はニューヨークを拠点として活動している。ライアン・マッギンレーなどとともに、アメリカのニュー・ジェネレーションの写真家として注目されている若手で、繊細でセンスのいいポートレートやスナップをファッション雑誌などにも発表している。
だが、今回東京・東雲のYUKA TSURUNO GALLERYで発表した「Blues」は、これまでの作品とは一線を画するものだ。全作品が19世紀以来使われている古典技法の一つで、青みのある画像がミステリアスな雰囲気を醸し出すサイアノタイプでプリントされているのだ。画像そのものはiPhoneで撮影された軽やかなスナップショットなので、古典技法のテクスチャーとはミスマッチなのだが、逆にそれが面白い効果を生み出している。特にいくつかの作品に写り込んでいる「影」の描写が魅力的だ。「影」を画面に取り込むことは、リー・フリードランダーや森山大道、さらに最近ドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』が公開されて話題を集めているヴィヴィアン・マイヤーなどもよく試みている。だが、バーバーの「青い影」は、彼らの存在証明として「影」の描写よりもより希薄で、フワフワと空中を漂うような浮遊感がある。彼が今後もサイアノタイプの作品を作り続けるかどうかはわからないが、現代写真と古典技法の組み合わせは、さらなる融合の可能性を秘めていると思う。
2015/11/13(金)(飯沢耕太郎)
西野達「写真作品、ほぼ全部見せます」
会期:2015/09/05~2015/10/31
TOLOT/ heuristic SHINONOME[東京都]
すでに会期は終わっていたのだが、そのまま会場に展示されていたので、西野達の写真作品をまとめてみることができた。
シンガポールのマーライオン像やニューヨークのコロンブス像を、ホテルの部屋の中に取り込んだ大規模なインスタレーション作品(《The Merlion Hotel》〔2011〕、《Discovering Columbus》〔2012-13〕)で知られる西野だが、それらのドキュメントとしてだけではなく、写真作品としても高度なレベルに達しているものが、たくさんあることがよくわかった。通行人の頭の上にベッドなどの家具を積み上げた《Life’s little worries in Berlin》(2007)や《Life’s little worries in Osaka》(2011)、豆腐で作った仏陀に醤油を噴水のように振りまく《豆腐の仏陀と醤油の後光──極楽浄土》(2009)など、発想の柔軟さと豊かさ、それを形にしていく手際の鮮やかさを堪能することができた。
1960年、名古屋出身の西野は、武蔵野美術大学大学院修了後、ドイツのミュンスター大学美術アカデミーで学び、現在はドイツを拠点として活動している。いわゆる「彫刻」の枠組みにはおさまりきれない、仮設のインスタレーションが彼の持ち味だが、それには画像として固定することが不可欠の要素となる。その写真撮影のプロセスが洗練されているだけでなく、遊び心にあふれているところがとてもいい。
2015/11/13(金)(飯沢耕太郎)
尾花賢一「In the night time」
会期:2015/11/07~2015/12/05
ギャラリーMoMo Projects[東京都]
彩色した木彫。KKKみたいな先の尖った覆面をかぶった男がテレビを見てたり、自動車の横にたたずんでいたり、タイマツを掲げていたり、ベッドの脇にひざまずいていたりする「状況彫刻」。もちろんテレビも自動車もタイマツの炎も木彫で、ベッドのシーツにはシミまでついてたりしてマヌケ感が漂う。いったいこの覆面男なにものか? 首から下はごくフツーの服装なのでよけい違和感がある。そうか、これらは本性を隠した一般ピープルの肖像か。
2015/11/11(水)(村田真)