artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

『都市美──都市景観施策の源流とその展開』

発行所:学芸出版社

発行日:2005年5月30日

ヨーロッパ各国及びアメリカ、日本における「都市美」の源流と展開を、それぞれの専門家が掘り下げる。日本における景観行政のはじまりを契機として(景観法の施行は2004年12月)、都市美の概念を発展させてきた欧米各国の歴史や事例を明らかにしようとするもの。都市美に限らず、各国における異なる状況が見えてきて興味深い。そもそも各章の取り扱っている時代や内容がかなり多様である。概念自体を統一した視点から語ることが難しいという事実は、都市美の多様性を示すものであろう。「美」の公共性という言葉が挙げられていた。都市の公共空間をめぐる問題系のなかで、避けて通れない問題ではないだろうか。

2009/02/22(日)(松田達)

『シビックプライド』

発行所:株式会社宣伝会議

発行日:2008年11月28日

副題は「都市のコミュニケーションをデザインする」。シビックプライドは、イギリス発の概念で、都市への誇りと愛着をもつこと、そして自分が都市の一部であるという自覚を持つことを指している。都市へのアプローチは、ここ最近かなり多様になってきたといえる。コンパクト・シティ、創造都市、景観、都市美、まちづくり、中心市街地活性化など、さまざまなキーワードが挙げられるだろう。しかし、シビックプライドという概念がやや異なるのは、物理的な何かを操作するというより、都市の一員としての市民についての概念であり、操作対象は例えばロゴであったり、食べ物であったり、イベントであったりと、これまでの都市論が扱う領域とはかなり異なる。副題が示しているように、そこでデザインされる要素は「コミュニケーション」そのものであり、それも端的に言えば、「都市」と「人」とのコミュニケーションであるといえる。本書では、イギリスを中心としたいくつかの都市などにおけるコミュニケーション・ポイントについて、タイプ分けされながら、シビックプライドの醸成するコミュニケーション戦略が分析、紹介、提案されている。例えば、バルセロナ市は、「あなた(=市民)がドキドキすると、私(=バルセロナ)もドキドキする」というメッセージをポスターなどで発信し続けた。単純な考えのようであるが、市民の意識こそが都市にとって大事なのだというメッセージは、これまでの都市計画とはまったく別次元から都市を変える力を持つ。本書を監修した伊藤香織によれば、地方分権化とグローバリゼーションが世界的に都市間競争を加速させた。そしてそれによってシビックプライドの重要性が再認識されている。またしてもイギリス発の概念かという気はするのだが、これ自体イギリスのプロモーション戦略の一つであるという入れ子状の関係があるかもしれない。

2009/02/22(日)(松田達)

『「新しい郊外」の家』

発行所:太田出版

発行日:2009年1月25日

東京R不動産のディレクターにして建築家の馬場正尊による自伝小説的な要素も含んだ本。住宅を持つなら都心か郊外かという選択肢──前者は職場に近いが高くて狭く、後者は高くないがほとんど寝るための場所として選ぶ──に対し、例えば早朝、湘南でサーフィンしてから都心の職場に向かうといった、目的意識を持って住む郊外を「新しい郊外」と名付け、その可能性を語る。そして馬場氏自らもさまざまな経緯で「新しい郊外」としての房総半島に土地を買い、自分の設計で家を建てた経緯が語られる。分かりやすい語り口で、また数々の失敗談を前向きに捉えて書かれているのが引き込まれる。建築家が自邸を建てようとすることではじめて直面する問題、特に住宅ローンをめぐる経験なども書かれており、設計者はもちろん、これから家を建てようと考えている人にとって、とても示唆的な話が多い。特に建築家に住宅を頼む場合に、必要性の高まるつなぎ融資の話など、とても役立つ話である。一方、終章では、馬場の都市・建築論が語られる。既存の都市論への違和感が表明され、イアン・ボーデンなど身体から考える都市論への共感が語られる。東京における設計が頭を使うのに対して、房総に置ける設計は身体を使うのだという。その可能性が、馬場の生き方にも掛け合わされつつ、問われている。あとがきの一言が心に残っている。設計がクライアントへのインタビューからはじまるということ。クライアントとの関係で言えば、設計とはインタビューであるといいきることもできるかもしれない。それはクライアントの意図を翻訳することでもあるだろうし、再解釈し、誤読から新解釈することにもつながるかもしれない。そういったさまざまなことを想起させる、とても明るい本だった。

2009/02/19(木)(松田達)

石川直樹『最後の冒険家』

発行所:集英社

発行日:2008年11月21日

第6回開高健ノンフィクション賞を受賞した話題作。写真家以上に文章家としての才能が期待されている石川直樹が、その実力を発揮した面白い読物になっている。ただ、これも彼の写真と共通しているのだが、どうも詰めが甘いというか、最後の最後に宙ぶらりんのまま放り出されたような気分になるのはなぜなのだろうか。
この作品に関していえば、肝心の「最後の冒険家」である神田道夫の人間像が、もう一つ書き切れていないように感じてしまうのだ。神田は2008年1月31日に、巨大熱気球「スターライト号」で太平洋単独横断飛行を成し遂げようと栃木県岩出町を飛び立ち、翌2月1日未明に日付変更線を超えたあたりで消息を絶つ。その4年前には石川自身が副操縦士として乗り込んだ「天の川2号」で太平洋横断を試みているが、無残な失敗に終わってゴンドラごと海面に落下し、たまたま通りかかった船に助けられて九死に一生を得ている。たしかに熱気球は、神田にとって命と引き換えにしてもいい夢だったのかもしれない。だが、その最後の飛行はどうみつくろっても無謀としかいいようがないもので、とても「冒険」には思えないのだ。神田はなぜ飛び立ったのか、その答えはどうも石川自身にもはっきりと把握されていないように感じる。そのあたりがすっきりしない読後感につながっているのではないだろうか。
特筆すべきは祖父江慎+cozfishによる造本の見事さ。カバーと表紙との関係、本文用紙の選択、巻末の「写真集」の部分の構成・レイアウト──プロの業がきちんと発揮されている。

2009/02/19(木)(飯沢耕太郎)

レム・コールハース+ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『コールハースは語る』

翻訳者:瀧口範子
発行所:筑摩書房
発行日:2008年10月

ハンス・ウルリッヒ・オブリストによるレム・コールハースへのインタビュー集の翻訳。本書のインタビューは、2003年から2006年頃までに、世界中で二人が顔を合わせたときに行なわれたものをつなぎあわせて出来たものだという。中国、ヨーロッパ、都市、ソウル、ベルリン、ポルトといった2000年以降のコールハースの関心とプロジェクトについて話されているが、懇意の二人によるものであり、えらく核心に至るスピードが速い。特に面白かったフレーズを4つあげておく。政治と文化、アメリカとヨーロッパとアジア、建築と都市、そして建築家に関してそれぞれ。
1──政治こそ文化なのです。
文化が市場経済の一部になってしまっていて(公共アートに対しても反吐を吐いていた)、そこに食い尽くされていないのは政治だけだと喝破している。政治こそが、複雑なパワーバランスをどう動かしていくかというもっともダイナミックで緊張感をはらむ領域だといえるのだろう。なおかつ、彼はそれを建築的に考えている。
2──[ベルリンの]壁はヨーロッパとアジアを隔てていて、それによってヨーロッパとアメリカを合体させていた。
壁がなくなってから、急速にヨーロッパがアジアへと距離を縮めていることに触れ。AAスクールの学生時代に、ベルリンの壁を建築だと見なして調査したコールハースにとってみれば、建築によってヨーロッパがその位置を移動させられているという感覚があるのかもしれない。
3──建築と都市が常にひとつながりで語られることには、非常に驚きます。
建築という制御力が失敗すると、アーバニズムとなる。この話の脈絡とコンテクストがよくは読み取れなかったが、建築を破壊的なものではなく、制御力をもったものと捉えていたのが印象的。ピーター・アイゼンマンは、破壊的であるが、だからこそ建築的ではないという。アーバニズムは、そうすると破壊も建築的統御もない。建築の死がアーバニズムということになるだろう。この言説によって、コールハースにおける建築とは何かという定義が、かなりはっきりすると思う。
4──建築家というのは、一時に二〇ほどの異なった問題を集中して考えているものです。基本的にそれらの間に関係性がないということが、ランダムかつシステマティックに交差点を見つけることを強要するのです。
関係性を見つけるのではなく、関係性が否応なくつくられる。まさに圧縮された時間に生きているコールハースだからこそ言える言葉。僕もまさにそうありたい。

2009/02/08(日)(松田達)