artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
速水健朗『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』
発行所:東京書籍
発行日:2023/07/14
本書のタイトルに思わず引き付けられてしまった。なぜなら、私自身も1973年生まれであるからだ。2023年の今年はちょうど半世紀。だからこうした本が出版されるタイミングなのかと思うと同時に、もう50歳とは年を取ったなぁとしみじみ思う。1973年生まれはベビーブーマー、いわゆる団塊ジュニア世代である。かつてはX世代とも言われた。とにかく人口過多なのである。受験戦争がもっともピークに達した頃であったし、大学時代にバブル崩壊を迎えたため、就職氷河期の始まりでもあった。人口過多ゆえに損した世代と私は感じているのだが、本書で説かれているのはそういうお決まりの世代論ではない。1973年生まれの視点を通してこの半世紀を振り返る、社会史やサブカルチャー史のような側面をもつ。私も含めてになるが、彼・彼女らが物心の付いた1980年代からの出来事、事件、社会問題、芸能界、テクノロジーなどを列挙し、著者独自の解釈を加えた内容となっていた。
通読するとなかなか圧巻で、懐かしさや共感を覚えるモノや出来事もあれば、男女差のせいなのか、私があまり関心のなかった話題もいくつかあった。ただあまりに多くの事柄を列挙しているため、一つひとつに対する見解がやや少なく、もう少し深掘りしてほしいと思う面が総じてあるが、きっと本書の狙いはそこにはないのだろう。この半世紀を概観する試み自体が重要だったに違いない。
こうして振り返ると、1980年代はバブル期の始まりとはいえ、ずいぶん牧歌的な時代だったと思える。さまざまな機器がまだデジタル化される前であるし、大人も子どもも一緒にお茶の間でテレビを囲んでいた時代であった。当時、世間を騒がせたグリコ・森永事件や日航機墜落事故、リクルート事件といった事件は、私も子どもながら印象に深く残っていて、大人になってからその真相や詳細を調べたり聞いたりしたものである。1990年代はバブルが弾けたとはいえ、いま思えば、まだ深刻な不景気に差しかかる前で、世の中は比較的明るかった。後半からはパソコンや携帯電話が普及し始め、デジタル化に突入する過渡期となる。そして2000年代からは一気にデジタル化の波が押し寄せ、後半からはスマホの時代に入る。ここがまさに時代の節目だったのかもしれない。本書では、当時の出来事や事件に絡んだ人物、芸能人、スポーツ選手らのそれぞれの生年が逐一記されている点も面白い。1973年生まれとその同世代の人々、また彼・彼女らの親世代が世の中をどうつくってきたのかを知る手掛かりとしても読めるのだ。
2023/09/02(土)(杉江あこ)
カタログ&ブックス | 2023年9月1日号[テーマ:「物語る」表現と、それに触れる人の揺らぎを見つめる5冊]
災害の記憶から紡がれる言葉や、自らの状態を他者に伝える言葉。「物語る」と「話す」はどう異なるのでしょうか。6組の作家の表現から「物語ること」の多面性に触れる展覧会「物語ることも、物語らないことも、物語れないことも」(はじまりの美術館で2023年10月9日まで開催)に関連し、語りと人の関係性を見つめる5冊をご紹介します。
今月のテーマ:
「物語る」表現と、それに触れる人の揺らぎを見つめる5冊
1冊目:ハンターギャザラー
Point
2018年に秋田県立近代美術館で開催された展示の図録。同地でその4年前から始まり現在も続く、旅先で出会った人々の話を鴻池が聴き取り、描き起こした絵を語り手と共にランチョンマットにする『物語るテーブルランナー』のシリーズは、市井の人々の記憶への柔らかい目線と手仕事の集積に、静かに心揺さぶられます。
2冊目:やまなみ
Point
「物語ることも〜」展の出展作家でもある井上優が所属する、滋賀県の障害者多機能型事業所・やまなみ工房に川内が長期間通い、撮影した写真集。利用者それぞれが抱く「これをすることが幸せである」という思いから生み出される数々の豊かな表現と、それらを包む空間の光。素朴で端正な造本からも工房の空気が伝わります。
3冊目:10年目の手記 震災体験を書く、よむ、編みなおす
Point
「時間が経ったいまだからこそ、言葉にできることがある」。東日本大震災の“被災者”という枠組みによってかつてこぼれ落ちてきたものも含め、編者たちの元に寄せられた手記を一つひとつ読み、追体験し、そこで語られなかった言葉にも思いを馳せる。他者の言葉を読む行為のなかにある、原初的な豊かさを実感する一冊。
4冊目:物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ(シリーズケアをひらく)
Point
誰かに自分の経験を語るうちに記憶が整理され、そこに物語としての輪郭が生まれることで自己理解が高まるという経験に覚えのある人は少なくないはず。精神医学の現場において、病いの経験に関する当事者の語りに着目し、ケアやカウンセリングを捉え直す「ナラティヴ(=語り・物語)・アプローチ」を知るための入門書。
5冊目:わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か(講談社現代新書)
Point
個々人の間で、世界の捉え方は微妙に異なっている。そのことを認識するところを出発点に、わかりあえる部分を探っていくための「対話」とは何か。現代日本におけるコミュニケーションへの疑問や違和感、そして「物語る」行為と重なり合うところや違いも念頭に置きながら読むことで、より多くの発見がありそうです。
物語ることも、物語らないことも、物語れないことも
会期:2023年7月29日(土)~10月9日(月・祝) ※火曜休館
会場:はじまりの美術館(福島県耶麻郡猪苗代町新町4873)
公式サイト:https://hajimari-ac.com/enjoy/exhibition/monogatarukoto/
※展覧会会期終了後、関連イベントの記録なども収録した「記録集」を、はじまりの美術館館内とオンラインショップで販売予定。
2023/09/01(金)(artscape編集部)
カタログ&ブックス | 2023年8月1日号[近刊編]
展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
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ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男
〈本書が対象とするのは、見者としてのニジンスキーではなく、ダンサーかつコレオグラファー(振付家)としてのニジンスキーである。 20世紀にはヌレエフ、バリシニコフ、熊川哲也といったスーパースターたちが、バレリーナたちに劣らず、いやバレリーナたちよりも観客を魅了してきた。そうした男性スーパースターたちの系譜の先頭に位置しているのがニジンスキーである。ニジンスキーから男性ダンサーの時代が始まったのである。 その類い稀な跳躍力によって一世を風靡したにもかかわらず、最初の振付作品には小さな跳躍が一つあるだけだ。それだけでなく、その作品『牧神の午後』はバレエの二大原理、すなわち開放性と上昇志向性を否定した。そのニジンスキーの勇気ある一歩から、現代バレエが生まれたのである。〉 さまざまな創作の源泉ともなっている伝説の舞踊家ニジンスキー。その生涯を、豊富なバレエ鑑賞経験に基づき、貴重な資料と写真を駆使して再構成した、バレエ史研究の第一人者による待望のライフワーク。
藤田嗣治 安東コレクションより 猫の本
世界で初めて「藤田嗣治の作品だけを展示する個人美術館」として開館された軽井沢安東美術館。世界屈指のコレクションの中で、蒐集の原点となったのは猫の絵です。愛すべき猫たちのふとした仕草を、巧みにそして緻密に描き出した藤田嗣治。毛並みの一本一本まで繊細に線をひいた藤田の猫たちに出会えば、目も心も幸せに。新収蔵作品まであますところなく収載した本書で至福のひと時を。猫好き、アート好きのみなさま、必見です。
百の太陽/百の鏡 写真と記憶の汀
最古の実用写真術、銀板写真(ダゲレオタイプ)とともに旅に出る。福島の渚へ、遠野の田園へ、核実験場の砂漠へ、あるいは己の過去、夢と現の境へ――。詩人になりたかった美術家は、絶望と混迷の時代にあってもまた昇る陽を待ちながら、ひとり言葉とイメージを探す。世界と自身を見つめ、未来の先触れに手を伸ばす、文+写真エッセイ。
私たちは何者?ボーダレス・ドールズ
2023年7月1日~8月27日まで、渋谷区立松濤美術館で開催中の展覧会の図録。
愛でたり、憎んだり、宿ったり、働かせたり……呪い人形、雛人形、生人形、マネキン、リカちゃん、村上隆のフィギュアまで、厳選約90点を掲載!「日本人」と「人形(ヒトガタ)」の深くて長い複雑な関わりの1000年の歴史を検証
クリストファー・ノーラン 時間と映像の奇術師
フィルム・ノワールの時間を切り刻み、 スーパーヒーロー映画にリアリズムをもち込み、 スパイ・アクションとSFを融合させる…… 長編デビュー作『フォロウィング』から最新作『Oppenheimer』まで、 芸術性と商業性を兼ね揃えた特異点クリストファー・ノーランの歩み。
基礎から学べる現代アート
現代アートの始まりは、デュシャンの『泉』といわれています。なぜ既製品の便器をひっくり返したものがアートなのか? 本書を読めば、現代アートが誕生した背景から現代までの歴史的な流れが手に取るようにわかります。現代アートに初めて興味をもった中高生から、現代アートを基礎から学びたいと思っている全ての人への、とっておきの入門書。
つくる人になるために 若き建築家と思想家の往復書簡
建築する日々に励みながら、旅先でのスケッチや執筆活動にも精をだす若き建築家と、奈良の山村に私設図書館をつくり、執筆や自主ラジオなど様々な形でメッセージを発信する若き思想家が、些細な日常の出来事や思索をつぶさにみつめて綴った往復書簡。 私たちにとって「つくる」とはなにかを問いかけ、つくる喜びについて対話を重ねながら、生き物として生きやすい社会を模索していく。
2023/07/28(金)(artscape編集部)
成相肇『芸術のわるさ──コピー、パロディ、キッチュ、悪』
発行所:かたばみ書房
発行日:2023/06/10
2010年代、東京でもっとも批評的な展覧会を手がけていたキュレーター/学芸員は誰か──この問いをどのような水準で受け取るかにもよるが、わたしにとってその答えははっきりしている。成相肇(1979-)である。
本書『芸術のわるさ』は、その成相肇による初の著書である。目次を一瞥してみればわかるように、本書の中心をなすのは、かつて成相が企画した「不幸なる芸術」(switch point、2011)、「石子順造的世界」(府中市美術館、2011-2012)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(東京ステーションギャラリー、2014)、「パロディ、二重の声」(同、2017)といった展示の図録および関連原稿だ。それらに加えて、学生時代からの専門である岡本太郎についての論文や、他館の図録に寄せた原稿が、「コピー」「パロディ」「キッチュ」「悪」の全4章に編成されている。
成相が手がける展覧会はいつも、美術館ではなかなか取り上げられることのない対象を中心に据えてきた。展示物の3分の2が「非ファインアート」(188頁)であったという「石子順造的世界」にしても、かつて白川義員とマッド・アマノのあいだで争われた「パロディ裁判」(1971-1987)を大きく取り上げた「パロディ、二重の声」にしても、鑑賞者が一般的に想定する「現代美術展」とはまったく異なる光景が、そこでは広がっていた。これを小さな自主企画などではなく、公の美術館で堂々とやってのけるところに、成相肇という学芸員の真骨頂がある。
そして──これが重要なことだが──成相は文章がめっぽう巧い。いわゆる「論文」調のものはもちろんのこと、本書の随処に見られる「口上」をはじめ、アイロニーやユーモアを交えた文章を書かせたら、おそらく美術業界で右に出るものはいない(それは本書を読めば一目瞭然である)。本書刊行の詳しい経緯については詳らかでないが、これを創業第一書に定めたかたばみ書房の眼力には、ひとりの読者として唸らざるをえない。
念のため、本書の掲げる「芸術のわるさ」についても一言付言しておこう。あとがきでも明らかにされているように(377頁)、本書タイトルに含まれる「わるさ」とは、単に道徳的な「悪さ(=悪意・悪行)」のみならず、遊戯的な「わるさ(=悪戯)」の謂いでもある。後者の「わるさ」を能くしたものとしては、マルセル・デュシャンから赤瀬川原平まで、さまざまな先達の名前が挙がるだろう。本書が掲げる4つのキーワード(コピー、パロディ、キッチュ、悪)のなかで、この意味での「わるさ」ともっとも縁が深いのが「パロディ」である。げんにこのパートは本書の白眉と言ってよいものであり、前掲の「パロディ裁判」の判例を中心に展開される立論は必読である。
かつての鶴見俊輔による限界芸術論をはじめとして、いわゆるファインアート/非ファインアートの境界を問う試みは過去にもさまざまなされてきた。しかし展覧会という場そのものを、こうした思索のための空間に仕立て上げることはけっして容易ではない。本書は、石子順造をはじめとする先達のさまざまな理論的仕事に棹さしつつも、この問題を美術館という制度のど真ん中で展開してみせた、きわめてユニークなキュレーター/学芸員の活動の軌跡である。
2023/07/24(月)(星野太)
金川晋吾『いなくなっていない父』
発行所:晶文社
発行日:2023/04/25
本書の著者・金川晋吾(1981-)は、いまから7年前に写真集『father』(青幻舎、2016)を刊行した。同書は、著者が子どものころから失踪を繰り返してきたという父親を被写体とした作品であり、刊行後さまざまなメディアで取り上げられるなど、大きな反響をよんだ。しかしその父親も、金川がこの作品を撮りはじめた2008年と2009年に一度ずつ失踪したきりで、それ以後は一度も失踪していないという。本書『いなくなっていない父』は、『father』の後日譚に相当するここ数年の記録であるとともに、『father』で定着してしまった「失踪を繰り返す父」というイメージを、作家みずから払拭することを試みたエセーである。
かつて、わたしが『father』を読んだときに何より驚かされたのは、当の写真に続く長大な「日記」の存在だった
。そこでは、作家がこの作品を撮りはじめるにいたった理由が独白的に語られるのではなく、父親の蒸発、借金、転居、そして兄や弁護士との会話をはじめとする撮影中の出来事が克明に記述されていた。わたしがそこで得た直観は、これを文字通りの、つまり撮影の日々からそのまま垂れ流された日記として読むべきではない、というものだった。この写真集の一部をなす「日記」は、単なる作品解題でもなければ、その詩的なパラフレーズでもない、ひとつのすぐれた散文作品である。果たして『father』の刊行後、この作家の例外的な文才は、文芸誌などのさまざまな媒体で発揮されることとなった。その筆力は、本書『いなくなっていない父』においても遺憾なく発揮されている。著者は、とくに奇をてらったことを書いているわけではまったくない。むしろ本書は、家族をめぐって、あるいはかつての『father』という作品をめぐって、おのれが経験したこと、あるいはそこで考えたことを、ただ淡々と記録しているといった風情の散文である。だから、本書を一読したときの印象は、『father』のそれと同じく「日記」に近い。にもかかわらず本書が強い印象を残すのは、文章による観察と記録の水準が、一般的なそれと比べて著しく際立っているからだろう。
本書は、写真家が作品を通していちど定着させたイメージ(=「失踪を繰り返す父」)を、文章によって払拭する(=「いなくなっていない父」)という試みとしても、きわめて興味深い。芸術作品──とりわけ写真作品──というのは、往々にして対象の生をひとつのかたちに固定しがちである。むろん、これを回避するために、同じ被写体を数年、数十年のスパンで継続的に撮影する写真家もいる(A1, A2, A3…)。これに対して本書は、かつてのイメージ(A1)を新たなイメージ(A2, A3…)によって更新するのではなく、それとまったくオーダーを異にする文章(B)によって複層化しようとする稀有な試みである。すくなくとも本書は、写真家の単なる余技とみなされるべきではなく、みずからの作品に対して明確に「修復的な」(イヴ・セジウィック)アプローチをとった、ほとんど類例のない営みと見るべきであろう。
2023/07/24(月)(星野太)