artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

王欽『魯迅を読もう──〈他者〉を求めて』

発行所:春秋社

発行日:2022/10/19

本書のタイトルを見たとき、いくぶん意表を突かれる思いがした。「魯迅を読む」ではなく、「魯迅を読もう」である。このタイトルは、文字通りに取れば、読者に対して「ともに」魯迅を読むことをうながしているかに見える。事実そうなのだろう。だが、「魯迅を読もう」というこの誘惑の背後には、もうすこし複雑なコンテクストが畳み込まれているように思える。

魯迅(1881-1936)と言えば、日本への留学経験もある、中国近代文学におけるもっとも重要な作家である。したがって、中国語や日本語のみならず、英語でも魯迅についての書物や論文のたぐいは豊富にある(個人的にも、魯迅を専門とする英語圏の研究者にはこれまで数多く会ってきた)。さながら日本における夏目漱石のごとく、中国の近代文学を話題にするうえで、およそ魯迅を避けて通ることなどできない。これはいまや世界的な事実である。

ひるがえって、いまの日本語の読者のあいだに、魯迅を読もうという気運はどれほどあるだろうか。日本とも縁浅からぬこの作家への今日的な無関心が、著者をして本書を書かしめた最大の要因であるように思われる。

むろん、過去には竹内好の仕事をはじめとして、日本語で読める魯迅のすぐれた訳書・解説書は現在までに数多く存在する。だが、本書の著者である王欽(1986-)のアプローチは、これまでに存在した魯迅の解説書とはいくぶん毛色を異にするものだと言えよう。著者は中国・上海に生まれ、ニューヨークで学業を修め、現在では東京で教鞭をとる研究者である。つまり本書は、中国語を第一言語とし、英語圏の批評理論にも精通した著者が、あえてみずから日本語で書いた本なのである。

本書は、魯迅の『阿Q正伝』をはじめとする小説から雑文にいたるまでの全テクストを視野に収めた、堅実な解説書である。ただし、そこでは中国語や日本語による文献に交じって、ベンヤミン、ド・マン、デリダを援用しながら議論を進めるくだりが散見される。こうした批評理論を噛ませたアプローチには賛否あるだろうが、すくなくとも今日の英語圏における魯迅の読まれかたとして、本書のような「釈義」(11頁)による方法はむしろ王道に属するものであるように思われる。

個人的には、『村芝居』『凧』『阿金』といった比較的マイナーなテクストを論じた後半の議論を興味ぶかく読んだ。全体的に、編集の目が行き届いていないがゆえの誤字脱字も散見されるが、本書のようなすぐれた書物が日本語で著されたことの意義は、それを補って余りあろう。本書の読後、きっと読者は魯迅を「読もう」という気にさせられる──その点において、本書の目論見は十分に達成されているように思われる。

2023/02/09(木)(星野太)

ジャック・デリダ『メモワール──ポール・ド・マンのために』

翻訳:宮﨑裕助、小原拓磨、吉松覚

発行所:水声社

発行日:2023/01/10

本書は、哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)が、アメリカ合衆国における「脱構築」の後見人であり、唯一無二の友人であった批評家ポール・ド・マン(1919-1983)について書いた文章をまとめたものである。いずれもド・マン没後数年のうちに書かれた文章であるが、前半「Ⅰ」と後半「Ⅱ」でテクストの性格がかなり異なる。まずはそのあたりの事情を見ていくことにしたい。

本書の第Ⅰ部は、1984年にカリフォルニア大学アーヴァイン校で行なわれた連続講演にもとづいている。もともと「アメリカにおける脱構築」というテーマを構想していたデリダは、その前年末のド・マンの訃報に接し、急遽その内容に変更を加えた。「1 ムネモシュネ」「2 メモワールの技法」「3 行為──与えられた言葉の意味」と題されたこれらのテクストでは、おもにド・マンにおける「記憶」の問題を論じるというかたちで、その数ヶ月前に亡くなったド・マンに対する「喪の作業」を遂行するとともに、もともとのテーマであった「アメリカにおける脱構築」にも間接的に応じる格好となっている★1

これに対して第Ⅱ部は、それから4年後の1988年に執筆・公表されたものである。その経緯については本文でも述べられているように、やはりその前年(1987年)に明らかになったド・マンのベルギー時代の活動が直接的なきっかけとなっている。ご存じの読者も多いだろうが、戦後アメリカ合衆国に渡り、のちにイェール大学で教鞭をとることになる若きド・マンが、『ル・ソワール』という親ナチ的な新聞に文芸時評を書いていたことが一大スキャンダルを引き起こした。さらにこれをきっかけとして、ひとりポール・ド・マンのみならず、アメリカにおける脱構築批評、さらにはその震源地であるデリダらの「フレンチ・セオリー」にも、その攻撃は飛び火したのである。

この反・脱構築のキャンペーンが当時においてどれほど苛烈なものであったか、それを直接見聞していないわたしでも、その光景を容易に想像することができる。というのも、このたぐいの批難は、それから30年以上が経った最近でも──ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(岡崎玲子訳、集英社、2019)などを通じて──また異なったしかたで反復されたものであるからだ★2。何らかの理由からデリダやド・マンの理論──さらにはそのエピゴーネン──に苦々しい感情を抱いていた人々が、鬼の首をとったようにこの事実に飛びかかったことは間違いない。だが、これはほとんど断言してよいと思われるが、それらの人々は、20歳そこそこのド・マンが親ナチ的な新聞に文章を寄せていたという「事実」を強調するばかりで、その文章に目を通してみようとすら思わなかったに違いない。これに対して、デリダが本書第Ⅱ部(「貝殻の奥にひそむ潮騒のように──ポール・ド・マンの戦争」)で行なったのは、この若きベルギー人が書いたものをまずは徹底的に読み、そこから何が読みとれるのかを日のもとに晒すという作業であった。

その成果が少しでも気になった読者は、まずは本書をじかに読んでみてほしい。友人ド・マンへの深い哀悼の意と、その過去の出来事にたいする(あくまでも公平な立場からなされた)弁護からなる本書は、これからデリダを読もうとする読者にとっての最初の一冊として、留保なく推薦できるものである。

本書を読んでいると、ある資料体を徹底的に、時間をかけて読むことがひとつの「倫理」であるということを、あらためて痛感せざるをえない。本書をはじめとするデリダの文章はたしかに迂遠な印象を与えるかもしれないが、そこに不必要に難解なところはひとつもない(念のため付言すると、本書『メモワール』の訳文はきわめて正確かつ流麗である)。ある「新事実」の暴露に右往左往する今日の人間からすれば、そこで告発されたテクストをゆっくり、丹念に検討するというのはどこか反時代的な身振りに映るかもしれない。だが、そうした倫理=慣習(エートス)を失ったとき、わたしたち人間を人間たらしめる根拠はまたひとつ失われるだろう──本書を読んでいると、いささか大仰とも思われるそのような感慨を抱かずにはいられない。

★1──本書のタイトルでもある単語「メモワール(mémoires)」の多義性についてはここでは踏み込まない。これについては宮崎裕助「訳者あとがき」(本書 pp.325-339)のほか、郷原佳以「記憶と名前──ド・マンとデリダの「メモワール」」(『コメット通信』第30号、水声社、2023、pp.11-13)を参照のこと。
★2──この問題については次の拙論で論じた。星野太「真実の終わり?──21世紀の現代思想史のために」(東京大学東アジア藝文書院(編)『私たちは世界の「悪」にどう立ち向かうか──東京大学 教養のフロンティア講義』トランスビュー、2022、pp.53-81)

2023/02/09(木)(星野太)

金サジ『物語』

発行所:赤々舎

発行日:2022/12/22

在日コリアン三世という自らの出自を踏まえて、独自の神話的世界を構築し、写真作品として提示する仕事を続けている金サジが、最初の写真集をまとめあげた。ジェンダー、植民地主義、戦争、自然破壊、文化的軋轢など、さまざまな問題を抱え込んだ老若男女が展開する壮大なスケールの「物語」は、複雑に絡み合いつつ枝分かれしていく。それだけでなく、大地、樹木、岩、さらに火や水などの神話的形象が随所にちりばめられ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの西洋絵画のイコノロジーまでが取り入れられている。野心的なプロジェクトの成果といえるだろう。

ただし、それぞれのヴィジョンに対する思いが強すぎて、それが金の神話世界においてどのような位置にあるのか、どう展開していくのかが伝わりきれていないように感じた。彼女自身の短いテキストが写真の間に挟み込まれ、巻末には早稲田大学教授の歴史学者、グレッグ・ドボルザークによる解説「トリックスターとトラウマ」が付されているのだが、それでもなかなかうまく全体像が形をとらない。もしかすると、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような、長大なテキストが必要になるのかもしれない。また、主人公にあたるようなキャラクターが成立していれば、「物語」としての流れを掴みやすかったのではないだろうか。

とはいえ、金の写真家としてのキャリアを考えると、これだけ豊かなイマジネーションの広がりをもち、しかもそれらを説得力のある場面として定着できる能力の高さは驚くべきものだ。日本の写真界の枠を超えて、国際的なレベルでも大きな評価が期待できそうだ。

関連レビュー

金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月15日号)

2023/02/05(日)(飯沢耕太郎)

カタログ&ブックス | 2023年2月1日号[テーマ:手も眼も使って考え、暮らす──現代のデザイナーの思考回路を覗き見る5冊]

生活のなかでの観察・思考や、アイデアを形にするまでの密かな知的興奮。「デザインスコープ─のぞく ふしぎ きづく ふしぎ」(富山県美術館で2022年12月10日〜2023年3月5日開催)の参加作家が登場したり書いた本を中心に、つくることとその手前にある日常の見方のそれぞれの個性が浮かび上がってくる5冊を選びました。

※本記事の選書は「hontoブックツリー」でもご覧いただけます。
※紹介した書籍は在庫切れの場合がございますのでご了承ください。
協力:富山県美術館


今月のテーマ:
手も眼も使って考え、暮らす──現代のデザイナーの思考回路を覗き見る5冊

1冊目:デザインあ 解散!

著者:岡崎智弘
発行:小学館
発売日:2013年1月30日
サイズ:21cm

Point

NHK Eテレ『デザインあ』内の人気コーナー「解散!」のビジュアルブック。しめじ、電卓、みかん──身近にあるモノを分解して並べるというシンプルな工程を経て、まったく異なる表情が立ち上がってくるさまは目が離せません。読んだ後しばらくは、視界に入ったあらゆるモノを頭の中でついつい分解してしまいます。


2冊目:りんごとけんだま

著者:鈴木康広
発行:ブロンズ新社
発売日:2017年10月19日
サイズ:27cm

Point

りんごとけん玉、そしてそれを持つ自分の身体を介在させることで、ニュートンの万有引力、ひいては自分と地球の関わりまで、イメージの力を及ばせることができる──そんな気づきを得られる絵本。鈴木康広氏のスケッチは一見ソフトな印象でありつつも、空想力も地道な鍛錬の積み重ねであることが垣間見えます。


3冊目:waterscape 水の中の風景

著者:三澤遙
発行:エクスナレッジ
発売日:2018年9月1日
サイズ:26cm、143ページ

Point

身近な素材にある小さなひとひねりを加えると、見たことのない風景が立ち上がる。領域を越え活躍するデザイナー・三澤遥氏が、本書では水中生物の棲む多様な環境を水槽の中に再構築しています。個々の設計図と、それに添えられたアイデアの出発点を明かす解説を読んでから写真に戻ると、より風景が豊かに見えてきます。



4冊目:SPREAD by SPREAD

著者:SPREAD
発行:青幻舎
発売日:2021年5月28日
サイズ:30cm、167ページ

Point

ランドスケープとグラフィックを軸に人の記憶と想像力を拡げるクリエイティブユニットSPREADが得意とする、色をコミュニケーション媒介とした制作物。本書は彼らの活動開始からの15年間を記録した作品集で、表紙の鮮やかな朱色は「人類が用いた最初の色」のひとつだそう。質感の豊かさも含めて手元に置きたい一冊。



5冊目:つくる理由 暮らしからはじまる、ファッションとアート

著者:林央子
発行:DU BOOKS
発売日:2021年6月25日
サイズ:19cm、309ページ

Point

つくる理由=生きる理由とも言い換えられるのではないか。著書『拡張するファッション』で知られる編集者の林央子。彼女が美術家やデザイナーなど、多様な分野の「つくる」人々の声を集めた本書の終盤、「デザインスコープ」展参加作家の志村信裕も登場し、不可分である暮らしと制作活動について語っています。







開館5周年記念 デザインスコープ─のぞく ふしぎ きづく ふしぎ

会期:2022年12月10日(土)~2023年3月5日(日)
会場:富山県美術館(富山県富山市木場町3-20)
公式サイト:https://tad-toyama.jp/exhibition-event/16596


[展覧会図録]
「開館5周年記念 デザインスコープ─のぞく ふしぎ きづく ふしぎ」公式図録

監修・発行:富山県美術館
発行日:2022年12月10日
サイズ:A4判型、28ページ
執筆:桐山登士樹、川上典李子、以倉新(富山県美術館 学芸課主幹)、内藤和音(富山県美術館 普及課学芸員)
アートディレクション/デザイン:永井裕明(N.G.inc.)
デザイン:柏木美月(N.G.inc.)
編集:浦川愛亜

◎富山県美術館ミュージアムショップにて販売中。

2023/02/01(水)(artscape編集部)

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兼桝綾『フェアな関係』

発行所:タバブックス

発行日:2022年11月24日


兼桝綾は屈託を書くのが巧い。思い悩む本人には申し訳ないが、あちらに行っては引き返し、そちらに行っては立ち止まり、ときに思い悩んでいること自体を思い悩むようなくよくよにはある種のグルーヴさえ感じてしまう。思い悩んでも仕方ないとわかっていても思い悩まないではいられない(そして時々爆発してしまう)登場人物の姿は切実だからこそ滑稽で愛おしい。

雑誌「仕事文脈」に掲載された短編をまとめた兼桝の第一小説集『フェアな関係』には「友情結婚からのセックスレスなのである」というキャッチーな一文からはじまる表題作とそのⅡ、Ⅲを含む9編が収録されている。

お互いに一番居心地がいいからという理由で(ほぼ)セックスなしのままに結婚した「私」と夫は結婚2年目。しないと決めて結婚したわけでもないのだしと「私」は夫を何度か誘ってみるもののあっさりと断られ、ほかに彼氏をつくることにも難色を示される。「権利だけ奪っておいて何もくれないって、フェアじゃなくない?」とブチ切れた翌朝、セックスする代わりに運動して痩せてほしいと「等価交換」を持ち出された「私」は「解き放った『フェア』が威力をまして攻撃してきたのに面食らって、そこまでしてセックスしてくれなくていい」と言うことしかできない。セックスをしたくない夫は子供は欲しいと思っていて、セックスをしたい「私」は子供は欲しくない(しかし夫はそれを知らない)というのだから事態はさらにややこしい。思い余った「私」は家族を続けるために夫には内緒で風俗まがいの「セラピー」を受けるのだが、そこでも「ただでさえこんな搾取行為をするのだから」年上で長身の自分が敵わないくらいのセラピストが相手でないと「金でケアを買うってことに、抵抗がありすぎる」と屈託は止まらないのだった。

恋愛とセックスと居心地のよさと結婚と関係を維持することは関係しつつもそれぞれに異なる問題で、本当はそれらが持つ意味合いもそれらに対する重みづけも人それぞれに違っているはずである。とどのつまり「フェアな関係」などというのはほとんど不可能なのだ。それどころか「フェア」の概念が持ち込まれた途端に親密さが損なわれかねないことは「私」が身をもって体験した通りだ。多くの人はそこをなあなあにすることで、あるいはなあなあにしていることを意識しないことで日々をやり過ごしている。だがセックスレスという大問題に直面している「私」にはそれをやり過ごすことができない。だからくよくよするしかない。

屈託とはああでもないこうでもないと思い悩むことであり、それを書くのが巧いということは一筋縄ではいかず割り切れない(つまりはああでもなくこうでもない)人間の面倒臭さを書くのが巧いということだ。「私とぬったんは親しいが、非常時に私より先に逃げることが出来るという点において、私はぬったんを憎んでいる」という、こちらもインパクトのある一文ではじまる「避難訓練」の「私」は事務センターの同僚であるぬったんの鈍さに苛々しっぱなしなのだが、それは同じ派遣社員として働く自分自身の立場の弱さへの苛立ちでもあり、だからこそ自分への叱咤=ぬったんへの連帯に転じる可能性を秘めている。「魔女の孫娘たち」で描かれる「あなた」と「彼女」の関係もこれに通じてグッとくる。

「総合出版社鶏頭社労働組合の庶務係、丸本萌香は憤った」と「走れメロス」を思わせる書き出しではじまる「冬闘紛糾」はバラエティに富んだこの短編集のなかでもやや異色。しかし表題作と並んで私がもっとも好きな作品だ。冬闘の描写の合間に挟み込まれる登場人物の紹介とそれぞれのエピソードがおかしい。たとえば、今期初めて委員長になった営業部主任の松葉は東大卒の元野球部主将。顔も良く仕事もできたがこの春に離婚してシングルファーザーになったばかり。自身が社会的少数者になったことでこれまで知らなかったことの多さを反省し云々。20ページの短編で冬闘の交渉を展開させつつ、この調子で5人分だ。組合運動の大義と(あるいは会社側の事情と)それぞれのごく個人的な事情や思惑が交渉の場に並んで混ざり合う。そこに居並ぶ人々の、なかでも組合員最年長〈ミスター組合〉亀田のなんと面倒臭くチャーミングなことか。

「東京より速く遠く」では東京への、「私より運命の人」では元カレへの、「スイミング・スクール」では父への屈託を軸に人間の面倒臭さが描かれる(いやもちろんそれだけではないのだが)。だが、作品ごとに凝らされた趣向は異なっており、違った読み味が楽しめるのもこの短編集の魅力だ。


『フェアな関係』:http://tababooks.com/books/fairnakankei

2023/01/20(金)(山﨑健太)