2020年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

ホンマタカシ『Symphony その森の子供』

発行所:Case Publishing

発行日:2019年11月

ホンマタカシは2011年に福島の森のきのこを撮影した。2012年には東京・代々木のBlind Galleryで「その森の子供」と題する個展を開催し、同名の写真集も刊行している。同作品は2015年4月〜7月にボストン美術館で開催された「In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11」展にも出品された。今回、Case Publishingから出版された『Symphony その森の子供』は、その完成版といえる。同書には福島に加えて、スカンジナビア、チェルノブイリ、ストーニーポイントで撮影されたきのこの写真がおさめられていた。

スカンジナビア(スウェーデン、フィンランド)と、チェルノブイリ(旧ソ連、現在はウクライナ)で撮影されたきのこの写真は、福島のそれとつながっている。2011年の東日本大震災直後の津波による福島第一原子力発電所の大事故、1986年のチェルノブイリ原子力発電所4号機の爆発事故によって放出した放射性物質が、森のきのこたちに吸収・蓄積され、摂取規制が長く続いてきたからだ。チェルノブイリからかなり離れたスカンジナビアでも、爆発事故後に、風の影響によって放射性物質が集中してふりそそいだのだという。

写真集の最後のパートにおさめられた、アメリカ・ニューヨーク郊外のストーニーポイントのきのこたちは、やや違った意味を持っている。現代音楽家のジョン・ケージは、1954年にストーニーポイントに移り住んだ。ケージは同地の野生のきのこたちに魅せられて、その研究を開始する。ケージはのちにニューヨーク菌類学会の創設者のひとりとなり、「きのこ狂」として知られるようになる。きのこの持つ魔術性、偶有性、多様性はケージの音楽活動にも多大な影響をもたらした。ストーニーポイントは、それゆえ、世界中のきのこ愛好家(マイコフィリア)にとって、聖地というべき場所となった。

この4つの土地を巡礼のように彷徨うことで、『その森の子供』は、さらにふくらみを増し、きのこの世界の豊かさを、静かだが力強いメッセージで歌い上げる作品に成長した。森で採取したきのこたちを、その場で白い紙の上にそっと載せて撮影した写真と、それぞれの森のたたずまいを、やや引いたアングルで押さえた写真とを組み合わせる写真集の構成もとてもうまくいっている。ホンマタカシの写真家としての美点が、最大限に発揮された作品といえるだろう。

関連レビュー

ホンマタカシ「その森の子供 mushrooms from the forest 2011」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年02月15日号)

2019/12/10(火)(飯沢耕太郎)

安楽寺えみ『Balloon Position』

発行所:赤々舎

発行日:2019年9月7日

何ともとらえどころがない本である。25.7×36.4センチメートル(B4変型)という、かなり横長の判型の208ページの作品集には、モノクロームの写真がぎっしりと詰め込まれている。タイトルにもなっている「Balloon」、あるいは黒と白のドット(球体)がたびたび登場するが、それ以外は身体の一部、風景、モノなど、とりとめがないとしか言いようがない内容だ。とはいえ、ページをめくっていくと奇妙な浮遊感、トリップ感が生じてくる。あらゆる事物が流動化し、溶解していく世界をあてもなくさまよっている気分というべきだろうか。どこに連れていかれるかはわからないが、不安感よりはむしろ陶酔の感覚が強まってくる。そしてその感覚は、どこか懐かしさをともなっている。

本書は、安楽寺えみが20年前に制作した「幻の手製本」をもとにしている。20年前といえば、安楽寺がデビュー写真集『HMMT?』(スタジオワープ、2005)を刊行する以前のことで、長い闘病生活から回復して、写真作品を本格的に制作し始めた頃である。安楽寺はその時期に、ザラ紙にプリントした写真を束ねた手製本をいくつか試作していて、この『Balloon Position』もその中の一冊である。つまり、彼女が写真というメディアを通じて、世界をどう見ていたのか、捕獲したイメージをどのように組織していこうとしていたのか、その初心がここにはくっきりとあらわれているということだ。

安楽寺は、その後アメリカのNazraeli Pressから『Emi Anrakuji』(2006)、『Ipy』(2008)など、性的なオブセッションをより強く打ち出した写真集を刊行し、より高度な構想力を発揮するようになっていく。この復刻された「幻の手製本」にうごめきつつかたちをとっている、彼女の作品世界の原型は、まだナイーブで荒々しいが、それはそれでとても魅力的だ。

2019/12/09(月)(飯沢耕太郎)

百々俊二『空火照の街』

発行所:Case Publishing

発行日:2019年11月

百々俊二は一貫して被写体と直接的に向き合いつつ撮影を続けてきた。そして、カメラの前にはつねに混沌とした人間たちのうごめきがある。そのことは、大阪のディープな街と人とを撮影して最初の写真集としてまとめた『新世界むかしも今も』(長征社、1986)から、東日本大震災後に日本海沿岸を8×10インチの大判カメラで撮影した『日本海』(赤々舎、2014)まで、まったく変わりない。その百々の新作写真集『空火照の街』におさめられているのも、いかにも彼らしい直写、直撃の写真群である。

百々は1983年にはじめてタイの首都、バンコクを訪れ、以来1991年まで計7回、2014年から18年までは年2回のペースで撮影を続けた。『空火照の街』には、そのあいだに6×6判の二眼レフカメラで撮影したモノクロームの写真群が、見開き、裁ち落としのページ構成でびっしりと並んでいる(ブックデザインは田中義久、山田悠太朗)。モノクロームへのこだわりについて、百々は写真集のあとがきの文章で以下のように述べている。

「モノクローム、黒白は、私の心にひそむ隠れた感傷を引き出してくれる。太陽の光と闇と、影、陰翳が色彩よりも存在感がある。[中略]暗室のプリント作業で好きなのは、現像液の中で印画紙に陽画として浮かび上がる水に滲む陰影を見る瞬間スリリングでたまらなく魅力的だ。それは撮影したときの記憶が、具体的なイメージとして立ち現れるからだ。」

この百々の言葉には説得力がある。たしかに、白黒の深みのある「陰翳」は、彼が被写体と対峙していたときの感情の起伏を、生々しく伝えてくれる。読者は、百々の視線と同化して、熱気でむせ返るようなバンコクの街を彷徨うことになる。タイトルの「空火照」(そらほでり)というのは、「空が赤く映えること。夕焼け」という意味だという。モノクロームの写真群から、夕焼けの赤を感じとってほしいという思いを込めたネーミングだろう。

2019/12/09(月)(飯沢耕太郎)

山本浩貴『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』

発行所:中央公論新社

発行日:2019/10/17

ここ数ヶ月のあいだ、書店や美術館のショップで、本書が平積みにされている光景を幾度となく目にした。その理由は言うまでもなく、山本浩貴(1986-)による本書が、日本語によるはじめての本格的な「現代美術史」の入門書として広く受け入れられているからだろう。過去にも現代美術の入門書を謳う書物は数多く存在したが、新書サイズで国内外の現代美術「史」を通覧しようとした日本語の書物は、本書がはじめてと言ってよいはずである。

とはいえ、著者も早々にことわっているように、限られた紙幅で包括的な「現代美術史」を書くことには大きな困難が伴う。そこで本書が選択したのは、「芸術と社会」というテーマをその中心に据えることであった。本書は1960年代を「現代美術史」の出発点に定めるが、序章でその「前史」として紹介される戦中・戦後の芸術運動は、「アーツ・アンド・クラフツ」「民芸」「ダダ」「マヴォ」の四つである。この選択は、専門家や美術愛好家を含む多くの読者にとって、かなり大胆なものと映るのではないか。だが、芸術をひとつの社会実践としてとらえる本書の立場からすれば、現代美術の「前史」は、いわゆる近代美術(モダン・アート)の名作の数々などではなく、これら四つの芸術運動にほかならないということなのだろう。

第一部の「欧米編」で取り上げられる60年代から80年代の芸術は、ランド・アート、インスティテューショナル・クリティーク、ハプニング、フルクサス、ヨーゼフ・ボイス、シチュアシオニスト・インターナショナルである。これもいくぶん大胆な選択であると思われるが、その後に来る90年代以降の美術がリレーショナル・アート、ソーシャリー・エンゲージド・アート、コミュニティ・アートであることに鑑みれば、この選択も首肯できるものだろう。第二部の「日本編」はさらに大胆で、九州派、万博破壊共闘派、美術家共闘会議といった、従来の歴史記述では周縁に置かれがちな活動が中心に据えられている。これもまた、その後で論じられる90年代以降の美術がアート・プロジェクトや3・11以降のアートであることから、遡行的になされた選択であることは明らかだろう。

印象的なのは、第一部と第二部では、個々の作家や芸術運動に対する論評が、いずれもごく控えめなものにとどまっている点だ。おそらく意識的な選択として、著者はすでに専門的な研究のある各トピックについてはあらためて詳述することを避け、運動の周辺にいた人物や後世の研究者をはじめとする、固有名のネットワークを浮かび上がらせることに専心しているように見える。そのため記述がいささか平板に流れているきらいもあるが、限られた紙幅で、意欲的な読者のさらなる探求を促そうとする配慮を、ここには見て取ることができる。

第三部の「トランスナショナルな美術史」では、それまでの第一部、第二部とは打って変わって、戦後ブリティッシュ・ブラック・アートと、東アジアの現代美術におけるポストコロニアリズムについてのまとまった分析がなされる。欧米と日本の現代美術史を通覧する前二部とは異なり、この第三部では「国家」単位ではない、国家横断的な現代美術史の可能性が示唆される。この前者から後者への流れに、アンバランスな印象を抱く読者もいるかもしれない。しかしおそらく著者の意図は、従来の慣習的な「美術史」の作法にある程度まで倣いつつ(第一部、第二部)、昨今の「グローバル・スタンダード」としての世界美術史へと読者の目をむけさせることにあるのではないだろうか(第三部)。終章の「美術と戦争」も含め、本書後半の詳細な記述からは、新書という体裁に応じた「入門書」であることを超えた、そのような野心を読み取ることができる。

hontoウェブサイト

2019/12/09(月)(星野太)

村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』

会期:2019/11/29~2019/12/11

東京芸術劇場[東京都]

松井周と村田沙耶香が取材旅行を通じて、共作というかたちでつむがれた架空の島の物語が、同じタイトルを共有しながら、演劇と小説という2種類の形式で作品化された。2人は、外界と地理的に閉ざされた場所であるがゆえに成立する小さな社会のコスモロジーを創造するわけだが、もちろんそれは現在の日本の状況とも呼応している。

さて、演劇の方は、島の祭りで亡くなったはずの弟が突然蘇ることによって、海と山のコミュニティに波紋を起こす。そして国生みの神話を背景に、島で発掘されるレアゲノムによって異種交配する人類の進化と終焉といった、壮大な物語に展開していく。筆者もそうだったが、予備知識なしに鑑賞したら頭がくらくらするような終盤の展開は、ほとんど予想がつかないだろう。しかしながら、スケール感のでかい内容に対し、舞台美術は海が見える風景ではなく、基本的には室内である。すなわち、日が射して、大きなガラス窓のあるコンクリートの建物という小さな空間だ。だが、その外部の社会構造と変容を想像させながら、住民の会話は進行し、存在してはいけないはずの弟が出現すると、世界のタガが外れていく。祝祭と狂気、笑いと不道徳、そして悲哀。演劇という方法でしか享受できない体験を通じて、アンチ・ヒューマニズムの未来を目撃させる作品だ。

かたや小説版の『変半身』は、設定は同じだが、作品内に登場する奇祭を別の角度から解釈している。すなわち、若い登場人物が島を脱出し、生活の拠点を変え、大人になることによって、身も蓋もない外部からの視点も導入されるのだ。こちらはある意味メタ視点であり、都合がいい歴史修正主義に対する批評性をもつ。小説版は、演劇とはだいぶ違った切り口のまま終わるような印象を読み手に与えるが、ラストのぶっ飛び方は演劇とも共振している。

特に小説だけに、祭りによって「ニンゲン」が終わると、言語そのものが書き換えられていく。そして見開きのページが、「ポーポー」というオノマトペの群れで埋めつくされる。途中の経緯こそ異なれど、結論は同じなのだ。なるほど、演劇と小説の2作品は、セットで楽しむことができる。いや、プロジェクト名に掲げられていたように、両者は「inseparable」=切っても切れない関係なのだ。

公式サイト:
http://samplenet.info/inseparable/ [演劇版]
https://www.chikumashobo.co.jp/special/kawarimi/ [書籍版]


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2019/12/06(金)(五十嵐太郎)

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