artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
金川晋吾『いなくなっていない父』
発行所:晶文社
発行日:2023/04/25
「いなくなっていない」という言葉は、「いる」ことは必ずしも自明ではないのだと告げている。写真は、ロラン・バルトが「それはかつてあった」という言葉で端的に示したように、そこに写るものがかつてはたしかにあったのだという、本来であれば確認することができないはずの過去をたしからしいものにする。一方、「いなくなっていない」という言葉は、バルトの言葉をちょうど裏返したように、「いる」現在を意味するようでいて、「いなくなった」過去と「いなくなる」未来の可能性を現在に呼び込み、現在のたしからしさを危うくする。いや、過去と未来に挟まれ移ろい続ける現在はもともとそれほどたしかなものではないのだ。
写真家・金川晋吾による本書は、2016年に出版された金川の最初の写真集である『father』(青幻社)を起点に書かれたものだ。『father』の帯には「失踪を繰り返す父、父を撮る息子」という言葉が記されており、『いなくなっていない父』というタイトルはこの言葉に対応するかたちでつけられている。しかしそれは金川の父が『father』の出版後、失踪することをしなくなったのだということを意味しているわけではない。いや、その後は失踪をしていないという意味ではそれは正しくもあるのだが、そもそも金川の父が失踪を繰り返していたのは金川が中高生だった頃のことであり、金川が父の写真を撮り始めてからも2008年と2009年にそれぞれ一度ずつの失踪はあったものの、それから現在に至るまでは一度も失踪はしていないのだという。写真集の出版後、「失踪する父」という言葉を繰り返し見聞きするようになった金川は本書の冒頭で、「『失踪』という言葉を使ったのは他でもない自分だったので、他人を責めるわけにもいかず、何か自分が過ちを犯してしまったような、居心地の悪さを感じるようになった」と記す。「父という人は、『失踪を繰り返す』という言葉で片づけてしまえるような人ではないのだ」とも。
だから、『いなくなっていない父』というタイトルをもつ本書はひとまず、「失踪する父」を冠された『father』の語り直しのようにしてはじめられる。父が失踪を繰り返したという金川が中高生だった頃の家族の様子、高校生で写真をはじめたこと、大学院進学に伴う上京、『father』に収められた写真を撮った当時のこと、そして『father』出版後のNHKのドキュメンタリー番組による取材。これらの出来事を綴る金川の文章はエッセイのようでも写真論のようでもあり、ときに制作日誌のようでもある。実際、本書の後半に収録された文章は、NHKの取材を受けている時期の日記として書かれたものであり、それは『father』をめぐる、つまりは父の/と写真をめぐる出来事や金川の思考の足跡を記したものとなっている。
『father』の巻末にも撮影当時の金川の日記が収録されているのだが、その日記と本書における当時の記述は、当然のことながらそれなりに重複しているにもかかわらず、全体としての印象は相当に異なっている。単純に本書の方が情報量が多いということもあろうが、金川の言うようにそれは結局のところ、昔のことをどう書くかは「書いている、思い出しているときの自分次第のようなところがある」ということなのだろう。だがそれは、過去は自分次第でどうにでも解釈できるという意味ではない。
出来事の渦中にあって記した日記と当時を振り返って書いた文章とで印象が異なるのは当たり前のようだが、しかしここには本書の、というよりは金川の思考とそのベースにある態度の核心めいたものがあるように思う。金川は父のことを、その不可解なふるまいをどうにか理解しようとあれこれ考えてはその試みを断念するということを繰り返す。「わからない」と立ち尽くすのではなく、「わかる」と考えることをやめるのでもなく、わかろうとしてはあるところで断念すること。それはときに到達したように思える答えもまた、ある時点での仮のものに過ぎないと諦め受け入れることでもある。 金川にとっては文章の執筆自体も「『本当に自分はこんなことを思っているだろうか』という不安や、『もっとおもしろくかけるんじゃないか』という甘い期待」を抱きつつ「どこかのタイミングであきらめて、踏ん切りをつけて」なされるものとしてあり、日記という形式もまた、思考の足跡を暫定のものとして切断するものだ。だが、それは必ずしもネガティブなものではない。明日には別の考えをもっているかもしれないというふたしかさは、変化に開かれているということでもあるからだ。
金川は現在、セルフポートレイトを中心とした新作の制作中であり、その一部は、2022年7月から10月の4カ月間の写真と日記を1カ月ごとにまとめたzineとして発行されている。それはまさに瞬間ごとの、日々の、月々の、その都度の断念の記録としての形式だ。セルフポートレートということもあり、そこには金川自身のふたしかさへの開きがよりはっきりと記されているように思う。
さて、わかったふうなことを書き連ねてしまったが、本書の面白さが父の/と写真をめぐる具体的な記述にあることは言うまでもない。『father』や新作のzineと併せて本書を手に取り、金川の思考とその断念の具体的な足跡に触れていただければと思う。
金川晋吾:http://kanagawashingo.com/
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2023/06/24(土)(山﨑健太)
カタログ&ブックス | 2023年6月15日号[近刊編]
展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
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いなくなっていない父
『father』にて「失踪する父」とされた男は、その後は失踪を止めた。不在の父を撮影する写真家として知られるようになった著者に、「いる父」と向き合うことで何が浮かび上がってくるのか。時に不気味に、時に息苦しく、時にユーモラスに目の前に現れる親子の姿をファインダーとテキストを通して描く、ドキュメンタリーノベル。
『日台万華鏡』台湾と日本のあいだで考えた
台湾在住で日本人の著者が、2016~2023年 の間“日台のあわい”で書き続けたエッセー。台湾社会や日台の文化比較、歴史的交錯から、映画やアート、ジェンダー、LGBTQにまつわる話題まで広く言及し、リアルな台湾をあわいの視点からあぶりだす。
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谷川俊太郎 絵本★百貨典
「絵本は楽しい!」
この真っすぐなひとことは、谷川俊太郎さんが本書『谷川俊太郎 絵本★百貨典』の巻末に寄せた言葉です。詩人として知られる谷川さんは絵本の名手でもあり、約70年におよぶ創作活動の中でバラエティ豊かな絵本を数多く手がけてきました。本書は、そんな谷川さんの絵本にまつわる展覧会「谷川俊太郎 絵本★百貨展」(2023年4月12日−7月9日 PLAY! MUSEUMほか)の公式図録であり、展覧会では紹介しきれなかった絵本を含む、全タイトルを網羅した決定版です。
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ヱビス日記
iPhoneで日常を撮影した写真と日記で構成された写真集。
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POLITICS OF LIVING 生きるための力学
本書は、設計、施工を手がけ、その後も関わり続ける5つの事例を収録しています。使いこなされた、ありのままの現状を撮り下ろした写真、町の歴史や建物の背景を含む解説文とで紹介します。 自らつくり、携わることで生み出す小さな自治空間、「POLITICS OF LIVING」の実践をまとめています。
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ドットアーキテクツ展 POLITICS OF LIVING 生きるための力学|杉江あこ:artscapeレビュー(2023年06月15日号)
バウハウス—モダン・デザインの源流
第一次世界大戦の敗戦国ドイツの廃墟から、忽然と立ち上がったモダン・デザインの工芸美術学校、バウハウス。 バウハウスは、モダン・デザインの思想と教育指針を世界に蒔き、世界のデザインをリードし、現代産業デザインにも大きく貢献した。ヒトラーとスターリンの弾圧によってやむなく閉校しても、現代デザインに影響を与え続けたバウハウス100年の軌跡を追う。
アジア・中東の装飾と文様
旅をしながら変容してきたアジア・中東地域の装飾文化の歴史を豊富なビジュアルで紐解きながら、ドラマティックなユーラシア大陸の世界史を目で見ることのできる貴重な書籍です。
アーティスト・イン・レジデンス
異文化との出会い、インスパイア、成長とともに新しい表現を生み出すアーティストたち。自らの足元にある豊かな文化を再発見していくプロセスを共有する運営者(地域)。それぞれの経験に基づく言葉が多様な視点から、日本のアーティスト・イン・レジデンス(AIR)の「これまで」と「これから」を言語化、記述する。
応答、しつづけよ。
現代の人類学を牽引する思想家が随筆、批評、寓話、詩などさまざまな形式を駆使して、アート、建築、デザインを論じる。火、樹木、山、飛行、地面、時間、石、絶滅、線、糸、言葉、手書き、頭字語、色……創造と想像を刺激する思考の集成。
艾未未アート「戦略」——アートが「政治」を超えるとき
艾未未にとってアートとは、その「生きる」現実のただならぬ種々相を、見えるかたちにして残すことだ。本書は、彼に拮抗するばかりの熱量を傾けて、この「全身アーティスト」の全貌に迫った。
フリーダ・カーロの日記 ─新たなまなざし─
本書はメキシコ人美術専門家カレン・コルデロ・レイマンとエドゥアルド・カサールの解説により、日記の中でフリーダを感じ、絵と文を鑑賞し、この二つの才能がいかに共存しているか知ることができるだろう。そこから五感と想像力が呼び覚まされ、絵と言葉が融合し、読者は別の局面へ導かれる。そして観客となって、フリーダの声を聞き、彼女の息遣いを感じ、美しさに感動し、ブラックユーモアに笑うであろう。
痛みを希望に変えるコミュニティデザイン
問題点を「痛み」、改善策を「希望」と捉え、周囲を巻き込みながら持続可能なあたたかい場を生成する。四国の病院で実践される新しいコミュニティ作りの軌跡。
杉浦康平のアジアンデザイン
本書は、インタビューという形で、いままで語ることのなかった杉浦の内面に深く切り込み、「杉浦デザイン」の核心を捉えた貴重な証言集である。 杉浦の尽きない好奇心と探究心、そして自らの直感を信じ自由闊達な姿勢は、デザイナーを志す若者のみならず、読者に人生の生き方と希望を与えるに違いない。
Under 35 Architects exhibition 2023 OPERATION BOOK
35歳以下の若手建築家による建築の展覧会(2023)
2023年10月20日(金)~30日(月)まで大阪駅・中央北口前 うめきたシップホールにて開催される展覧会「Under 35 Architects exhibition 2023 35歳以下の若手建築家による建築の展覧会」のカタログ。
2023/06/14(水)(artscape編集部)
ガルギ・バタチャーリャ『レイシャル・キャピタリズムを再考する──再生産と生存に関する諸問題』
翻訳:稲垣健志
発行所:人文書院
発行日:2023/01/30
本書は、イギリスの社会学者ガルギ・バタチャーリャ(1968-)の初の邦訳書である。バタチャーリャの専門は人種およびセクシュアリティの諸問題であり、英語ではすでに10冊を超える編著書がある。本書『レイシャル・キャピタリズムを再考する』(原著2018年)は彼女の最新の仕事のひとつであるが、その内容に入っていく前に、いくつか前提を確認しておく必要がある。
まず、「レイシャル・キャピタリズム」といういささか聞き慣れない用語は、アメリカの政治学者セドリック・ロビンソンの『ブラック・マルクシズム』(1983)に由来する。これは、資本主義が生みだす社会構造には、必然的にレイシズムが浸透するという考えかたである。『レイシャル・キャピタリズムを再考する』の訳者解題(342-353頁)によれば、このロビンソンの議論は従来そこまで注目されてきたわけではなかった。だが、2020年のジョージ・フロイドの死をきっかけとしたBLM(Black Lives Matter)への関心の高まりもあり、このロビンソンの議論にも近年ふたたび注目が集まっているという。むろん本書はジョージ・フロイド事件よりも前に書かれたものであるが、『ブラック・マルクシズム』をはじめとするロビンソンの議論に新たな光が当てられるいま、本書をひもといてみるのは時宜に適ったことであろう。
そのうえで言うと、本書はそのタイトルが示すように、レイシャル・キャピタリズムを「再考する(rethinking)」試みである。つまりここでは、資本主義があらかじめレイシズムを構造化しているというロビンソン的なテーゼは、なかば暗黙の前提とされている。本書は、資本主義とレイシズムの複雑な関係をより精緻に──すなわち、一見レイシズムとは関係のないようなところにまで視野を広げて──検討するための試みなのだ。その点を見落としてしまうと、なぜ本書が、フェミニズムやエコロジーといった多種多様な問題に多くの頁を割いているのかがまったくわからなくなってしまうだろう。
ここではさしあたり、本書のイントロダクションとして書かれた「レイシャル・キャピタリズムをめぐる一〇のテーゼ」に即して、その要点のみを見ておきたい。ここで明示的にのべられているように、バタチャーリャが「レイシャル・キャピタリズム」と呼ぶもののなかには、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、あるいは年齢などを通じた「他者化」と「排除」の手法もまた含まれる(19-20頁)。つまり、問題は帝国主義の時代における奴隷貿易や、近代において黒人たちが被ってきた職業差別の話にとどまる(べき)ものではないのだ。昨今しばしば耳にする言葉でいえば、本書でバタチャーリャは「交差性(インターセクショナリティ)」とよばれる複合的な差別や抑圧の存在を明らかにすることによって、ロビンソンのレイシャル・キャピタリズム論を現代的にアップデートすることを試みているのだと言えよう。
以上のような複雑なコンテクストが畳み込まれているがゆえに、日本語で本書を読む読者にはまず「緒言」(小笠原博毅)と「訳者解題」(稲垣健志)に目を通すことを勧める。バタチャーリャが巧みな表現でのべているように、「利益を追求するために規定された人種的な略奪」は、それに関わるわれわれ全員を道徳的に退行させる(34頁)。その一方で彼女は、そのような信念を共有しない読者に対して、以上のような「道徳的な問題」を押しつけるつもりはない、とも言う。いくぶん逆説的なことながら、ここに読み取られる暗黙のメッセージは次のようなものであろう──それは、読者の信念がどのようなものであるかにかかわらず、
2023/06/11(日)(星野太)
アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』
監訳:田中東子
発行所:花伝社
発行日:2023/02/25
「創造的(creative)」という言葉が、行政文書のなかに目につくようになって久しい。2004年に始まったUNESCOの「創造都市ネットワーク」はすでに20年弱の歴史をもつが、これにかぎらず、今日において「創造(的)」という言葉は、国家や企業が推進する事業に完全に絡め取られている。おそらく、ひろく芸術に携わる誰もがそのことに気づきながら、この言葉が行政やビジネスの論理に掌握される様子を、なすすべもないまま眺めている。
本書『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』の著者であるアンジェラ・マクロビーは、ロンドン大学ゴールドスミス校で長らく教鞭をとったカルチュラル・スタディーズの研究者である。ポピュラー文化やフェミニズム理論を専門とし、昨年には『フェミニズムとレジリエンスの政治──ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022)が訳出されている。
おもにロンドンとベルリンを対象とする本書は、ファッション、音楽、現代アートをはじめとする文化的労働についての研究書である。とはいえ、ここに書かれていることは、すでに「やりがい搾取」という言葉が定着して久しい日本語圏の読者にとってみれば、ごく馴染みのある事象ばかりであるかもしれない。マクロビーが本書において明らかにしようとしているのは、つまるところ、ファッションやアートのような「創造的な」労働の領域において、いかに容赦ない「やりがい搾取」が行なわれているかということだからだ。日本では過去、アニメーション制作会社の低賃金が大きく取り沙汰されたことがあったが、これにかぎらず、ひろく文化にかかわる世界では、当事者の「熱意」や「やりがい」に支えられるかたちで、低賃金(ないし無給)の長時間労働が横行していることは周知のとおりである。
もちろん、そこには国や地域ごとの特殊事情がないわけではない。たとえば、イギリスでは1990年代後半に、当時の労働党首相トニー・ブレアによって「クール・ブリタニア」という政策が大々的に掲げられた。そこでは、まさに映画や音楽をはじめとする「クリエイティブ産業」が、国を挙げた国際戦略の中心に躍り出たのだ。本書が描き出すロンドンのクリエイティブ産業の状況は、こうした政府主導の戦略と切り離せない。
本書の議論はけっしてひとつに収斂するものではないが、そのなかでいくつか本質的と思われるものを挙げておこう。第一に、クリエイティブ産業における「やりがい搾取」には、明らかにジェンダー的な不平等がある。本書序文で著者が描き出す当事者たちのプロフィールも、その大半が若い──なおかつ、イギリスの外からやってきた──女性たちである(マクロビーは、労働環境をめぐる従来の左派の言説が、この男女の境遇の違いを見落としてきたことをくりかえし指摘する)。第二に、前述したような「やりがいのある仕事」の多くは、その華やかなイメージと裏腹に、不安定な雇用や不十分な保障と背中合わせである。そのため、クリエイティブ産業を推進する政策は、若者たちに「やりがいのある」仕事を供給するかに見えて、その実、社会福祉の切り下げを行なっているというのも正鵠を得た指摘である。
最後に、著者はバーミンガム学派が主導してきたカルチュラル・スタディーズ(CS)の伝統に連なる一人として、これまでCSが政治的抵抗の場として見いだしてきた文化的な諸領域が、いまや経営・起業的な関心から「創造性」を涵養するためのもっとも効果的な学問へと転じてしまっていることを率直に認めている。著者の言葉でいえば、CSはおのれの功罪を問うべき「再帰的なカルチュラル・スタディーズ」(23頁)へと歩みを進める段階に来ているのだ。ブルデューやベックの「再帰的な社会学」に倣ったこうした問題意識は、今日なんらかのかたちで文化と教育、あるいは文化の教育に携わるすべての人間によって、ひろく共有されるべきものだと言えるだろう。
2023/06/07(水)(星野太)
谷口昌良『空を掴め―空像へ』
発行所:赤々舎
発行日:2023/05/31
谷口昌良は東京・谷中の寺院、長応院の住職を務めながら写真家として活動している。2006年には長応院境内に「瞑想ギャラリー」空蓮房を設立し、ユニークな展示活動も展開してきた。
その谷口の新著『空を掴め―空像へ』は、彼の「仏僧写真家」としての経験を踏まえ、長年にわたる写真という表現メディアに対する思考の蓄積を形にした、これまたユニークな写真集である。被写体となっているのは三保の松原の松林だが、ほとんどの写真はピントが外れて写っている。メガネを外して外界を見た時の、視覚全体がボケた状況を再現したものだが、そこには「モノという実体は無常ではないか! 写真に固定できるものでは無く、それも無常だ! 写真は無常像だ!」という「仏僧写真家」としての思いが投影されている。
このような観念的ともいえる「写真による写真論」は、ともすれば思考の輪郭をなぞるだけの空疎なものになりがちだ。だが、谷口の写真作品を見ると、撮影することの歓び、固定観念を打ち壊していく解放感、新たな何物かの出現を寿ぐ気持ちなどが溢れているように感じる。仏教的な思念の実践というだけでなく、むしろ写真による視覚的世界の拡張の実験として充分に楽しむことができた。今回は松林というテーマに絞り込んでいるが、「空像」あるいは「無常像」としての写真のあり方は、ほかの被写体にも適用できるのではないだろうか。今後の展開も期待できそうだ。
2023/06/01(木)(飯沢耕太郎)