artscapeレビュー

デザインに関するレビュー/プレビュー

マカオのアズレージョ──ポルトガル生まれのタイルと石畳

会期:2015/11/26~2016/02/20

LIXILギャラリー[東京都]

マカオで建物などに用いられているポルトガル由来のタイル(アズレージョ)と街路を彩る石畳(カルサーダス)の現在を紹介する展覧会。アズレージョは、技術的にはイスラムで発達した色絵のタイルで、11世紀初頭にスペイン南部でつくられはじめた。ポルトガルでは15世紀後半以降、スペインから輸入されるようになり、16世紀後半にリスボンで制作が始まっている。東インド貿易によって輸入されるようになった中国の染付磁器の影響を受けて、白地に青い絵付のタイルが多くつくられたという。他方、カルサーダスはポルトガルで19世紀に広まった石畳の路面鋪装である。
 ポルトガルとマカオとの関係は深い。ポルトガル人が初めて中国に来航したのは1513年。その後1557年に定住が認められて以来、ポルトガル人はマカオに居住を続ける。1887年にポルトガルはマカオの統治権を獲得し、1999年に中国に返還されるまで東西文化が入り交じった地域として発展してきた。2005年にはマカオ歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。と聞くと、アズレージョやカルサーダスは長い歴史のなかでマカオに根を下ろしてきたポルトガル文化なのだろうという印象を受ける。ところが興味深いことにアズレージョがマカオで広まったのは1980年代以降、カルサーダスが導入されるようになったのは1992年以降のことだという。アズレージョは西洋建築やその修復の際に新造されたり、広場の装飾として制作されるほか、1983年ごろからは街区表示に中国語(広東語)とポルトガル語を併記したアズレージョが採用されている。もともとはポルトガルから輸入されていたアズレージョであるが、現在では中国にポルトガル風のタイルを製造するメーカーも登場しているという。また、カルサーダスは中国人居住区とポルトガル人居住区を隔てなく結ぶ要素として道路に用いられている。展示は、いくつかのアズレージョとマカオ市街の写真、カルサーダスが敷設された街路を歩く映像で構成されている。統治機構が変わり、街の姿が変化するなかで、アズレージョやカルサーダスはマカオの歴史とアイデンティティを表わし伝える手段として、都市計画のなかで積極的に活用されているようだ。[新川徳彦]

2015/12/04(金)(SYNK)

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土木デザイン競技「景観開花。2015『活かす』」公開最終審査会

会期:2015/11/28

東北大学 青葉山キャンパス[宮城県]

「景観開花。2015」の公開審査。一次審査はこれまでになく票が割れたのに、プレゼを経た最終の投票では全員一致でトップ2が決定した。千葉の山を削って東京の建築がつくられたのをリバースし、解体して山を復元する三田恭裕・鈴木寛人が最優秀に選ばれた。そして縁石を活かすユニークな視点の富山大学チームが優秀賞となった。審査後は、八馬智と「まちの見方・歩き方~ドボクに驚き、ケンチクに惚れる~」のトークセッションを行なう。彼が用意したパリやオランダの建築と土木、あるいはヨーロッパの産業遺産やリノベーション事例を映し出しながら、なぜやんちゃなデザインが出てくるのか、逆になぜ残して活用するのかなどを語る。

2015/11/28(土)(五十嵐太郎)

プレビュー:山本爲三郎没後50年 三國荘展

会期:2015/12/22~2016/03/13

アサヒビール大山崎山荘美術館[京都府]

アサヒビール初代社長・山本爲三郎(1893~1966)の没後50年を記念し、彼が民藝運動をあつく支援した証でもある「三國荘」を再考する。三國荘とは、民藝運動を主導した柳宗悦らが1928年の御大礼記念国産振興東京博覧会に出品したパビリオン「民藝館」を、山本が博覧会後に買い取り、大阪・三国の自邸に移築したもの。室内には、全国から蒐集した家具調度、河井寛次郎、濱田庄司、青田五良、黒田辰秋らの作品が並べられ、山本の日常生活の場であると同時に初期民藝運動の拠点として機能した。本展では、山本家からアサヒビール大山崎山荘美術館に寄贈された三國荘ゆかりの品々を一挙公開。また、河井、濱田、バーナード・リーチらの初期作品が展示されるほか、三國荘の応接室と主人室の再現も試みられる。

2015/11/25(水)(小吹隆文)

美術工芸の半世紀 明治の万国博覧会展[I]デビュー

会期:2015/10/31~2015/12/06

久米美術館[東京都]

幕末から明治前半期に日本が参加した万国博覧会と、博覧会や美術工芸の振興にかかわった人物──佐野常民(1823-1902)・田中芳男(1838-1916)・久米邦武(1839-1931)・ゴットフリート・ワグネル(1831-1892)──の仕事を紹介する展覧会。明治期の輸出工芸の特異な作品や工芸家たちは近年「超絶技巧」というキャッチコピーで注目を浴びているが、本展はそうした作品・工芸家が生み出された背景に焦点を当てた企画で、3回を予定しているシリーズの1回目は明治政府が国家として世界にデビューした舞台としての万国博覧会が取り上げられている。
 展示は縦軸に博覧会、そして横軸にそれら博覧会にかかわった人物を配し、関連する史料と工芸作品を紹介する構成になっている。序章は第2回パリ万博(1867)。このとき日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ別個に参加。幕府からはのちに博物館の父と呼ばれる田中芳男、佐賀藩からは博覧会の父と呼ばれることになる佐野常民が派遣されている。第1章はウィーン万博(1873/明治6)。佐野常民は日本の博覧会事務局の副総裁を務め、ワグネル等の助言により各地の産物や工芸品を選定。好評を博したことから明治政府の殖産興業政策のなかに欧米の嗜好に合わせた工芸品輸出が組み込まれることになった。岩倉使節団の一員だった久米邦武は、使節団一行とともに万博を視察し「博覧会は太平の戦争」と評している。第2章はフィラデルフィア万博(1876/明治9)。展示には田中芳男、ワグネル等、ウィーン万博経験者たちが力を振るったという。また久米邦武は出身地佐賀の有田焼の近代化と海外輸出を進めるべく、香蘭社、のちには精磁会社の設立にかかわり、フィラデルフィア万博への出品を後押しした。第3章は第3回パリ万博(1878/明治11)。欧米における日本美術ブームのさなかであり、万博には欧米でつくられた日本趣味の工芸も見られたことが示されている。
 この展覧会の主題は万博と美術工芸と人(工芸家ではない)であるが、企画の背景を理解しておくと、出品史料、作品の位置づけが良くわかるように思う。会場が久米邦武・久米桂一郎父子の資料・絵画を紹介する久米美術館であるから、万国博覧会に直接には関わらなかった久米邦武の事績が取り上げられていることはそのひとつ。もうひとつは、本展の企画・主催が霞会館(旧・華族会館)であること。今回の出品作品には霞会館が所蔵する七宝瓶と薩摩様式陶器が含まれているが、これらは明治2年に浜離宮庭園内に外国からの賓客を迎えるためにつくられた「延遼館」の調度品が華族会館に引き継がれたものだという。久米邦武が支援した精磁会社が皇室や迎賓館に納めた和製洋食器の意匠が輸出向けとは異なる日本風の比較的シンプルなものであるのに対して、延遼館伝来の陶磁は欧米で人気を博した薩摩様式(うちひとつは錦光山の京薩摩)である。すなわち、外国からの賓客が滞在する場に海外向けにつくられた当代の工芸品が備えられたのは、日本の美術工芸品輸出をプロモートしようとする政府の意図によるものであり、そのことは明治政府による各国の万国博覧会参加・美術工芸振興と軌を一にしていたことになる★1。[新川徳彦]

★1──詳細については、金原さやこ「延遼館の陶磁器──その伝来と薩摩様式陶器について」(本展図録、114~119頁)。

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2015/11/20(金)(SYNK)

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愛すべき海辺の観光の今・昔

会期:2015/10/10~2015/11/23

横浜みなと博物館[神奈川県]

江戸末期から現代まで、東京から三浦半島、江ノ島、大磯、伊豆、伊豆諸島まで、横浜を中心とした海辺のレジャー、観光の歴史とこれからを、浮世絵、印刷物、写真、ポスターなどで紹介する展覧会。とくに海水浴発祥の地、大磯に関する資料が興味深い。幕末から明治にかけて、西洋医学の影響から海水浴は医療行為として伝えられた。衛生思想の普及にも尽力した陸軍の軍医総監・松本順(1832-1907)は海水浴の効能を説き、1885(明治18)年に大磯に日本で初めての海水浴場を開設している。三代歌川国貞「禱龍館繁栄之図」(1891)は、松本順の発案で開設された大磯の旅館に松本と親交があった歌舞伎役者たちを招いたときに描かせたもので、この錦絵が東京で販売されたことで大磯に多くの海水浴客が訪れることになったという。「大磯海水浴富士遠景図」(明治後期)には着物姿で岩場に立つ女性の横に麦藁帽子と洋風の全身を覆う縞の水着を着た女性が描かれる一方で、波間には上半身が裸の女性が描かれているところが面白い。京浜地区から三浦半島、湘南地区へ、行楽地としての海水浴場の展開は、鉄道会社が制作した絵地図やポスター、広告に顕著に現われている。戦後は工業化の進展により、東京や横浜にあった海水浴場は姿を消し、人々は三浦半島や湘南、伊豆半島へと足を伸ばすようになる一方で、東京湾では観光船による遊覧が登場している。歴史の紹介だけではなく、埋め立て、開発、そしてこれからの観光資源としてのウォーターフロントまでを取り上げているところ、とてもよい企画である。[新川徳彦]

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2015/11/20(金)(SYNK)

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