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デザインに関するレビュー/プレビュー

小林路子の菌類画──きのこ・イロ・イロ

会期:2015/04/04~2015/05/17

武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]

日本における「きのこ画」の第一人者と呼んでよいのだろうか。きのこ画家・小林路子が1986年から2014年までに描いた作品約850点から選ばれた70点に加え、スクラッチボードに描かれた作品、きのこグッズコレクションまで、可愛らしかったり、毒々しかったり、グロテスクだったり、キノコの魅力たっぷりの展覧会である。作品に付された短い解説文も画家本人によるものだ。展覧会に足を運ぶ前に小林路子のエッセー『きのこの迷宮』(光文社、2006)を読んだが、ユーモアのある文体ときのこへのあふれる愛情に魅せられた。吉祥寺美術館の大内曜氏は図録の解説に「小林の作品は、いわゆる『ボタニカル・アート』の範疇におさめられるべきものではない」と書く。その理由として、小林が描いているのは菌類の生態のすべてではなく子孫を残すために一時的に地上に姿を現わすきのこののみであることと、博物画としてのボタニカル・アートがその平均的、標準的な姿を描くのに対して「小林は一つ一つのきのこの個性を全面的に認め、そのありのままの姿を描いていく」と指摘している。なるほど、小林路子のきのこ画が魅力的である理由は、それぞれが個性あるきのこの肖像画になっているからに違いない。展覧会では作者の意向により作品の制作年が記されていない。1986年にきのこに関する書籍の挿画を引き受けたことをきっかけとして、すでに30年近くきのこを描き続けているはずだが、どの画を見てもクオリティにブレが見えない。きのこを描き始める前から画家としてのキャリアがあったとはいえ、そのブレのなさはすばらしい。
 展示を見に来ていたご婦人方はみなたいへんにぎやかであった。ご婦人たちのお喋りは「マツタケ」の画の前で最高潮に達する。ご婦人だけではない。画の前で独り言をいう紳士も何人か見かけた。小林路子のきのこ画には人を饒舌にさせる何かがあるのだろうか。[新川徳彦]

2015/04/23(木)(SYNK)

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ヨーロピアン・モード

会期:2015/03/07~2015/05/13

文化学園服飾博物館[東京都]

18世紀半ばから20世紀末まで、250年にわたるヨーロッパの女性ファッションを通史で見る、毎年恒例の服飾史入門企画。この展示の特徴は、様式の移り変わりを実物資料で追うばかりではなく、そのような様式の出現、変遷の理由について、同時代の社会経済的背景を解説することで、ファッションの歴史を立体的に見せている点にある。いつものように、館内には熱心にメモを取る学生の姿がたくさん見られる。
 1階展示室では特集としてデニムの歴史が取り上げられている。デニムというとアメリカにおける作業着からファッションへの展開の歴史がイメージされるが、起源はヨーロッパにあるという。デニム(denim)の基本は縦糸が藍、緯糸が未晒しの木綿の綾織地。デニムの語源は「セルジュ・ドゥ・ニーム(serge de N mes)」、すなわちフランス・ニーム地方の綾織物にあるという。この丈夫な綾織生地が19世紀半ばにアメリカに渡って労働者の仕事着となり、リーバイス(1853年創業)やリー(1889年創業)といったジーンズメーカーを生み出した。展示はニーム地方の織物から始まり、ヨーロッパの藍染の作業着、アメリカにおけるデニムの展開に至る。実物資料以外の興味深い展示品としては、モンゴメリー・ウォードやシアーズ・ローバックなど、アメリカのメールオーダー会社が刊行した通販カタログや、ファッション誌がある。展示では一部のページを見せているだけだが、これらの各シーズンのカタログや雑誌の写真を追っていくだけでもアメリカにおけるデニムの位置づけの変遷がよくわかるに違いない。展示ではさらに海外でも高い評価を受けている日本のデニムが紹介されている。日本のデニムの産地は三備地区(岡山県南部および広島県東部)。江戸時代から木綿の生産が盛んだった地域で、学生服の製造を経てデニムの生産に展開してきたという。大阪のエヴィスや児島の桃太郎ジーンズなどによるレプリカ・ヴィンテージ・ジーンズの紹介、デニムの糸染め、織布、縫製、洗い加工、シワ加工の実際を紹介する映像もとても興味深い。なかでもヴィンテージ・ジーンズのデータを用いたレーザーによるダメージ加工には驚かされた。[新川徳彦]


2階展示風景


1階展示風景

2015/04/22(水)(SYNK)

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ラース・ミュラー 本 アナログリアリティー

会期:2015/04/10~2015/05/30

京都dddギャラリー[京都府]

スイスを拠点に国際的に活躍する出版者でデザイナーのラース・ミュラー。彼の仕事を紹介する本展では、会場に設置された白いテーブルと壁面の小棚に100冊の書籍が並び、観客が手に取って読める図書室のような形式がとられた。グラフィック・デザイン展で出版メディアが並ぶ場合、実物に直接触れられる機会は思いのほか少ない。書籍が痛む可能性が高いからだ。本展ではリスクを承知した上で最も効果的な形式を採用しており、それはコンテンツに対して最適な形式と素材を追求するミュラーの仕事とも合致する。スイス・デザインの正しき継承者であるミュラー。筆者自身はその厳格さにしんどさを感じることもあるが、こうして彼の仕事を概観できたのは嬉しい限り。また、本展では建築家の藤本壮介が展示デザインを担当し、ミュラーの世界観と合致したミニマルな空間を作り上げていたことを付記しておく。

2015/04/16(木)(小吹隆文)

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大阪万博1970 デザインプロジェクト

会期:2015/03/20~2015/05/17

東京国立近代美術館[東京都]

シンボルマークの制定やポスター制作などの事前のプロモーション、ピクトグラムやサイン計画、ストリートファニチャーなどの施設デザイン、そして各パビリオンの制服まで、1970年の大阪万博に関わったさまざまなデザインワークを紹介する展覧会。建築や美術、サブカルチャーの視点から大阪万博を見る試みは多いが、これをデザインの視点から検証する企画は寡聞にして知らず。とても興味深く見た。
 「東京オリンピック1964デザインプロジェクト」(東京国立近代美術館、2013/2/13~5/26)に続いて本展を企画した木田拓也・東京国立近代美術館工芸課主任研究員によれば、東京オリンピック、そして大阪万博のデザインプロジェクトには、1960年に開催された世界デザイン会議を起点として共通するデザイン・ポリシーが存在するという。ひとつはデザイナーの社会的役割。「デザイナーとはたんに産業社会の一員として企業や商品の広告宣伝を担う職業ではなく、その仕事を通じて社会の変革を促す力を備えた思想家のような存在でもあるという自覚」。これが「1960年代の日本のデザイン界の底流には流れていた」とするのである(本展図録、11頁)。もうひとつは「一貫性のあるデザインポリシーの確立」という実務的な側面である。具体的には最初にシンボルマークを決定し、そこからポスターなどのデザインを派生させるという方法で、世界デザイン会議でも、東京オリンピックでも、そして大阪万博でも、勝見勝のディレクションのもとに、同様の手法が試みられた(同、12頁)。
 しかしながら、ポリシーが存在したということと、それが実現され得たかどうかとはまた別の話である。実際のところ、大阪万博では「デザインに一貫性がみられず、水準にもばらつきがあった」(同、13頁)のである。なにしろ、シンボルマークの決定自体に躓きがあった。1966年に行なわれた指名コンペで選出された西島伊三雄の作品が石坂泰三・万博協会会長によって「抽象的で大衆性がない」と酷評されて却下され、選考がやり直しになったのだ。再度のコンペでは石坂会長も審査員に加わり、桜の花をモチーフにした大高猛の作品が選ばれた。現在から振り返ってみれば、大高猛によるシンボルマークは大阪万博のイメージと固く結びついて記憶されているし、万博というイベントそのものも想定以上の成功に終わったことを考えれば、事後的にはデザインも成功であったと言ってよいのかもしれない。しかし同時代には多くの批判を受けている。勝見勝は大高の作品を称賛したが、それならば最初に選ばれた西島伊三雄の作品はなんだったのか。デザイナーのなかには桜という具象的なイメージを古くさいと批判した者もいたし、デザイン選考過程の混乱も批判された。川添登は、最初の提案が否定された時点で勝見勝委員長は辞任すべきだったと述べている。
 大阪万博において「一貫性のあるデザインポリシーの確立」ができなかったのはなぜだろうか。木田研究員は「(大阪万博の)デザイン懇談会とはあくまでも万博協会の外部の自主的な団体であり、その位置づけはあいまいで、諮問機関として十分な機能を果たせていなかった」とする(同、13頁)。端的に言えば、デザインに関するマスターシップの不在がその主因だったようだ。勝見勝は「デザイン委員長に事務総長相当の権限を与えない限り、十分なコントロールは不可能である」と批判したが、結局万博全体のデザインを主導する強力な組織はつくられることがなかった。マスターシップの不在は大阪万博のデザインに関わったデザイナーたちによる座談会の席でも指摘されている(「座談会:EXPO'70のデザイン・システムとプロセス」『工芸ニュース』第38巻第3号、1970年11月、53~61頁)。優れたポリシーがあったとしても、それが貫徹できないならばデザインが成功したとは言えない。組織という点では「せんい館」の展示プロデューサーであった吉村益信が興味深い証言をしている。横尾忠則をはじめとする多くのクリエーターが参加し、伝説となったせんい館の建築や展示プロジェクトには「施主、クライアント・サイドとも初めから非常に激烈なみぞ」があったという。それにも関わらずプランを貫徹できたのは「コア・スタッフというものをつくって、そのあと一切クライアントが文句をいえないような主導権をきっちりつくった」からであると同座談会で吉村は語っている。この事例と対比すれば、デザイン懇談会が当初のポリシーを貫徹できなかった理由は、彼らが万博デザインの主導権を握ることができなかったためと考えられよう。
 万博が成功したがゆえのデザインの失敗とも言える現象もあったようだ。入場者数は当初計画の1.5倍、約6500万人に上った。長蛇の列とその誘導、会場内の動線の確保、トイレや休憩所の不足など、事後になって顕在化した多くの問題点に臨機応変に対応できなかったこともまた、組織と運営の問題であろう。亀倉雄策は福田繁雄によるピクトグラムを評価しているが、トイレのサインについては人々が男女の区別をできず、男子トイレに女性が並んでいたことを指摘している(もっともこれは女子トイレの不足が主因だったようだが)。当初はピクトグラムだけだったサインがわかりにくいとされたために文字表記が後付けされた例もあったという。
 本展では検証されていないが、クローズドな場である世界デザイン会議と、2週間の会期であった東京オリンピックと、半年にわたって開催された万博とでは、デザインポリシーを共通としても予算、組織、運用には大きな違いがあったはずである。大阪万博後の最初の国家イベントである札幌オリンピックでこれらの問題点はどのように処理されたのか。デザインは進歩したのかどうか。「札幌オリンピック1972 デザインプロジェクト」として、ぜひとも検証してもらいたいと思う。[新川徳彦]

関連レビュー

東京オリンピック1964 デザインプロジェクト:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/04/15(水)(SYNK)

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大阪万博1970 デザインプロジェクト

会期:2015/03/20~2015/05/17

東京国立近代美術館 ギャラリー4[東京都]

「大阪万博1970デザインプロジェクト」が興味深い。以前、同館ではオリンピックのデザイン展を開催していたが、その万博版というべき内容だ。万博については、だいぶ勉強したと思っていたが、まだ知らないことがいろいろある。サイン、ファニチャー、広場、制服、展示など、来場者を取り巻く環境のすべてに、優秀なデザイナー、建築家、芸術家が数多く動員されていた。果たして2020年のオリンピックはどうなるのか?

2015/04/15(水)(五十嵐太郎)