artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
井村隆「カラクリン展」/井村一巴「カラクリン写真展」
会期:2014/05/08~2014/05/19
造形作家・井村隆と写真家・井村一巴親子の展覧会。銅や真鍮、アルミニウムなどの金属板や針金でつくられ、小さなモーターで動くカラクリ・オブジェを、井村は「カラクリン」と呼んでいる。造形のモチーフは気球や飛行船、船、そして魚(しばしばシーラカンス)。いずれにも共通するのは奇妙な浮遊感である。気球や飛行船が中に浮いているのは当然として、魚は空中を水に見立ててゆったりと泳いでいる。いや、それは本当に水中なのか。なぜならば、魚に羽根が生えていてゆったりと羽ばたいているのだ。あるいは、プロペラが付いていて、ゆっくりと回っているのだ。そして、その中には魚の頭をした痩せっぽっちの小人たち──井村はこれを「ボンフリくん(bone free)」と呼んでいる──がいて、船を漕いだり、車輪を回したり、羽根を動かしたり、健気に働いている。つまり魚のような形をして宙を行く乗り物なのだ。たったひとつのモーターにつながった単純な構造によって生み出される動きの意外性と、どこかノスタルジーを感じる金属の造形。そしてなによりもボンフリくんという奇妙なキャラクターの存在によって、ただ同じ動作が繰り返されているにもかかわらずストーリーが拡がる。機構の妙を追求するカラクリは他にもいろいろあるけれども、井村隆の作品にはいつまで見ていても飽きない魅力がある。井村一巴の写真は、街に出たボンフリくん。駅で切符を買い、電車に乗り、海を見に行く。言葉を発することはない寡黙なボンフリくんだけれども、テキストが添えられているわけではないけれども、なんと雄弁なキャラクターだろう。[新川徳彦]
2014/05/08(木)(SYNK)
「アンドレアス・グルスキー」展
会期:2014/02/01~2014/05/11
国立国際美術館[大阪府]
ドイツの現代写真家、アンドレアス・グルスキーの日本初の個展。まず展示空間に並ぶ作品のスケール感に圧倒される。2×3メートルにも及ぶ巨大なイメージに表わされる内容はさまざまである。《99セント》(1999)に写されたおびただしい商品の集積のように消費社会の一断面を切り取ったものから、《カミオカンデ》(2007)のニュートリノ検出装置のように最先端の科学技術を扱ったもの、《バンコクVI》(2011)のように現実と虚構が入り混じった川面を撮ったものなど、51点の作品がグルスキー本人の監修のもと展示されている。彼の作品においては、「画面の平面性と構築性」「絵画との類似/写真による抽象絵画」という特徴が指摘され、フラットでオールオーヴァーなモダニズム絵画との親近性が強調される。一見、その作品群はドキュメンタリーのように見えるが、じつは、巧妙に入念につくりあげられており、イメージの加工と編集の賜物なのである。デジタル技術を駆使して、複数の画像をモニター上で繋ぎ合わせたり諸要素を消し去ったりして、新たな一枚の画像を作り出しているのだ。巨大な作品を凝視すると、そこにつくりこまれた──デジタル化が進む今日ゆえに可能である──緻密な彼独自の世界がある。とても刺激的な展覧会であった。[竹内有子]
2014/05/07(水)(SYNK)
「ドキドキ・ワクワク ファッションの玉手箱──ベスト・セレクション123」展
会期:2014/04/12~2014/07/08
神戸ファッション美術館[兵庫県]
18世紀から現代までのさまざまな衣裳全般、関連資料を収集してきた神戸ファッション美術館の名品を123点公開する展覧会。展示は、18世紀ロココの時代から始まって20世紀へ、世界の民族衣装と現代というように、時代毎のファッションの変遷がわかるよう工夫されている。衣裳だけでなく靴・帽子・アクセサリーを身につけ同時代の化粧とヘアメイクを施されたマネキンによる展示(ちなみにマネキンはそれぞれが違う造形となっており、各時代を象徴する)や、絵画のなかにみられる同衣裳の表示・関連する写真・ポスター・版画・映像・雑誌等のメディアをフル活用して、各時代のスタイルの魅力を余すことなく伝えている。とくに興味深かったのは、18世紀から19世紀にかけての衣裳群とアクセサリー類。もちろんオリジナルで保存状態の素晴らしいものを、ガラスケースなしに見ることができるから、ドレスの裁縫技術や生地感・テクスチュア【テクスチャ】を目でしっかり確かめることができる。当時の丁寧な仕事ぶりと高い技術のありようが生み出す服飾の造形に、思わずため息が漏れた。[竹内有子]
2014/05/03(土)(SYNK)
ザ・ビューティフル──英国の唯美主義1860-1900
会期:2014/01/30~2014/05/06
三菱一号館美術館[東京都]
産業革命によって世界最初の工業国家となったイギリスでは、19世紀には多くの産業においてものづくりの方法が変わり、人々の暮らしかたも大きく変化した。産業と社会の構造転換によって急速に豊かになった階層もあったが、他方で貧しくなった人たちもたくさんいた。労働者の生活水準を巡って、それが向上したのか、低下したのかという議論も始まる。工業化がもたらした国土の変容に対して否定的な評価をする人たちも多く現われる。新しい産業が創り出す商品に対する評価も同様であった。粗悪なイギリス製品、美的水準の低下という印象を決定づけたのは、1851年の万国博覧会である。イギリス産業の力を見せつけるはずの場で人々が見出したのは、皮肉にも醜悪な自国製品であった。工業化がもたらしたさまざまな問題に対する反応があらゆる分野において噴出したのである(近代デザイン運動の発端もここにある)。そこには新興の産業家層をパトロンに得て、伝統的な絵画とは異なる主題、美のありかたを求める動きも現れた。「芸術のための芸術」を求める唯美主義者たちは、そうした文脈のなかで現われ、評価されてゆく。醜悪なデザインは人々の生活全体を覆っていたから、新しい美がカンバスの上に留まらず、家具や壁紙、タイル、インテリア、装身具へと拡大していったのは当然の帰結である。他方で美は個別のものにおいて完結するのではなく、その組み合わせによって最適な効果をもたらすものである。すなわち、重要なのは生活全体のコーディネートなのである。独自の美の基準を持たない新興市民にとって、唯美主義者たちは、その作品にとどまらず、住まいの装飾、ファッション、生活スタイルそのものもまた恰好のお手本となった。その唯美主義者たちの美の源泉はどこにあったのかといえば、それは日本と古代ギリシアであった。醜悪な同時代のイギリスは批判の対象であっても美の源泉とはなりえない。理想となるのは空間的あるいは時間的に遠く離れた様式になる。そしてそれらはしばしば複数が組み合わされて独自の様式となる。19世紀のイギリスにおいて、どういうわけだか、日本は古代ギリシャとのアナロジーによって語られた例が多く見られるという。唯美主義者たちの作品にはこのふたつの様式が大きく影響しているのはそのような理由からである。文学においてもまた唯美主義があった。オスカー・ワイルドはその作品とともに自身がカリスマとなり、称賛もされればカリカチュアライズもされた。その過程でカリスマの名と固く結びついた唯美主義は、やがてカリスマの凋落と軌を一にすることになる。1895年にワイルドが同性愛の罪で収監されると、唯美主義もまた断罪されるべきものとして、勢いを失ってしまったのである。芸術家たちが求めていたのは「唯、美しくあること」であったとしても、市民が求めていたのは、よりどころとなる規範であったのだろう。
三菱一号館美術館で開催されている「ザ・ビューティフル──英国の唯美主義1860-1900」展では、絵画にとどまらない多様な分野の作品と、さまざまな芸術家やデザイナーたちの仕事が紹介されており、そのことは唯美主義運動の特徴をよく捉えている。他方でわかりにくい部分もある。なぜならば、個々の画家やデザイナーで、生涯にわたって唯美主義と分類される作品を手がけていた人物は稀で、時期によって別の美術運動や社会運動との関わりの方が強調されることも多いのだ。「芸術のための芸術」という理念が共通していたとしても、じっさいの表現の様式や活躍したジャンルも多様であり、運動であったとしてもそれを様式として捉えることは難しい。しかしそれらの背後にヴィクトリア朝のイギリス社会が抱えていた矛盾、諸問題の存在と、それに対する芸術家や市民の反応を考えれば、唯美主義の盛衰、画家たちの関わりかたが意味するところを透かし見ることができるのではないだろうか。[新川徳彦]
関連レビュー
2014/04/24(木)(SYNK)
馬──その歴史と学習院
会期:2014/04/05~2014/06/07
学習院大学史料館[東京都]
午年にちなみ、学習院との関わりを中心に日本における馬と馬術の歴史をたどる展覧会。学習院は学生に対する正課の授業として馬術教育が最初に行なわれた学校である(明治12年)。華族会館が経営する学校として、学習院の教育には当初から軍事に関する科目が盛り込まれていた。馬術もそのひとつであり、学習院と馬の関わりの歴史は古い。興味深かったのは「騎馬打毬」に関する映像と道具の展示であった。騎馬打毬は馬を操りつつ先端に網が付いた棒を用いて的に球を投げ入れる競技。ペルシャを起源としてシルクロードを通じて世界に広まり、各地で独自の進化を遂げた。ポロもそのひとつである。日本には8世紀に渤海国から伝来し、天皇家や公家のあいだで行われたものの程なく衰退してしまい、徳川八代将軍吉宗の時代に復活。幕末には武家のあいだで盛んに行なわれるようになった。学習院において打毬が行なわれたのは明治18年の天覧試合が最初で、その後昭和の終わり頃まで打毬大会が開催されていたという。さらにひときわ目を惹く展示物は、学習院第10代院長・乃木希典の愛馬「寿(す)号」の仔「乃木号」の骨格標本である。「寿号」は日露戦争での旅順陥落の際に旅順要塞司令官ステッセルが乃木に贈ったアラブ種の馬である。体格が良く従順な名馬であったこの馬の血統を日本に広めるべく、乃木は馬種改良に熱心であった鳥取の牧場主・佐伯友文に寿号を贈った。寿号を親として生まれた約80頭の仔馬のうちの1頭が乃木号で、明治45年に今度は佐伯から乃木に贈られた。乃木が明治天皇に殉死した後、乃木号は昭和12年に亡くなるまで、学習院の馬として馬術教育に資した。このほか、大名家の馬術の免許状の展示や、学習院の馬術教官、学習院出身のオリンピック馬術競技選手の紹介がある。[新川徳彦]
2014/04/23(水)(SYNK)