artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
鈴木紀慶+今村創平『日本インテリアデザイン史』
日本の「インテリアデザイン」がどのような土壌から生まれ出て発展していったのかという歴史を綴った、いままでにない書。欧米の文化が日本へ流入してきた「黎明期」の大正時代より、「開花期」の戦後から90年代までを扱う。この場合、「インテリア」は「室内空間」と換言できる。それなら「インテリアデザイン」とはなにか。本書によれば、1960年代初頭に発刊された『インテリア』誌上に掲載された記事をきっかけに「インテリア論争」──インテリアデザイナーとインテリアデコレーター(室内装飾家)は同じものなのかという問い──が起こったという。つまり「インテリアデザイン」という概念と、「インテリアデザイナー」という職能が確立へ向かうのは、60年代以降のことになる。60年代は、現代美術が「空間」や「環境」を対象にし始めて、新領域としての「インテリアデザイン」の空間表現に影響を与えた時期でもあった。そのようななかで「商業空間だってインテリアだ」と述べた倉俣史朗の仕事は、それまで想定されてこなかった対象の領域を拡張した点と、インテリアデザインの定着を──「アート」との協働をしながら──うながした点において注目される。だから、読者が読んで興味深く感じるのは、彼の登場以降の「開花期」だろう。最後には、監修者の内田繁とデザイナーの吉岡徳仁の特別対談があり、現代のインテリアデザイナーから見た課題・未来への展望などが生き生きと語られる。[竹内有子]
2014/04/20(日)(SYNK)
Future Beauty 日本ファッション:不連続の連続
会期:2014/03/21~2014/05/11
京都国立近代美術館[京都府]
ロンドンをかわきりに2010年から世界各都市を巡回してきた「Future Beauty」展が、このたび京都でお披露目の運びとなった。国内では、2012年の東京での「Future Beauty 日本ファッションの未来性」展に次ぐ、二度目の開催となる。本展では副題が「不連続の連続」へと変更されていることからもわかるように、「日本ファッションが受け継ぐ文化性へと視点を移し」て東京展とは構成が一部改められている。
4部構成からなる本展のなかで、開催地、京都にもっとも関わりが深いのは第3部「伝統と革新」である。染織作家・福村健による繊細な辻が花染め、西陣織の箔匠・新庄英生による緻密な螺鈿入りの引箔、西陣織の老舗、細尾による複雑な錦織など、京都の伝統的な染織技術をいかしたファッションには、それらの技術が当代に着実に受け継がれているという確かな手ごたえを感じる。展示された衣服は、作品ではあるが同時に製品であり商品でもある。人が手にとって、購入して、着用するという完成後のプロセスから遠く離れてしまうことなく、それでいて充分に存在を主張している。その力は、物語を衣服というモノの外に求めるのではなく、工芸的な技術を用いることで、モノそれ自体の内に込めてゆくことに由来するように思う。
1989年開催の「華麗な革命──ロココと新古典の衣裳」展から5年に一度のペースで開催されてきた、京都服飾文化研究財団主催の展覧会も本展で第6段になる。ファッションを取り巻く状況がめまぐるしく変化するなか、それでも回を重ねるごとに高まる周囲の期待に応え続けようという主催の意志を感じる展覧会だった。[平光睦子]
2014/04/19(土)(SYNK)
超絶技巧!明治工芸の粋──村田コレクション一挙公開
会期:2014/04/19~2014/07/13
三井記念美術館[東京都]
清水三年坂美術館館長・村田理如氏が四半世紀にわたって蒐集してきた1万点に及ぶ明治工芸から、山下裕二・明治学院大学教授の監修のもと、選りすぐりの約160点を展観する企画。蒐集のジャンルは、並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真らの漆工、旭玉山・安藤緑山らの牙彫、薩摩焼、刀装具、自在置物、印籠、そして最近入手し日本では初公開となるという刺繍絵画と、多岐にわたる。出品作はいずれも超絶的な技巧で細工、装飾が施されている。技術だけではない。正阿弥勝義の鳥や虫をモチーフにした金工、安藤緑山による本物と見まごうばかりの野菜や果物の牙彫からは、彼らがとても優れた観察力の持ち主であったことがうかがわれる。明治初期にこのように優れた工芸品が現われたのはなぜなのか。技術という点では、大名や武士などの庇護を失った職人たちが腕ひとつで生計を立てなければならなくなったことが挙げられる。そして国内の主要な顧客が失われたものの、明治政府の殖産興業政策によって優れた工芸品は海外の博覧会に出品されて賞を受けるなど、新たな市場と評価のしくみが拓かれたことが職人たちを刺激したのである。このように優れた品がつくられていたにもかかわらず、明治工芸がこれまであまり注目されてこなかったのは、そのほとんどが輸出品で国内に作品が残っておらず、また明治の終わりには工芸品輸出が衰退するとともに技術が失われてしまったからである。近年になってようやく国内蒐集家たちによって「里帰り」した作品を目にする機会が増えてきた。そうした品々のなかでも、村田コレクションは優品中の優品ばかりなのである。翻ってみるに、優品の背後には多数の凡作があった。超絶的な技巧の作品が生まれる一方で、同時代には粗製濫造が問題となっていた。優れた作品をつくりえたのは一部の工芸家たちのみで、それが産業になることはほとんどなかったし、もとよりそれは日本の近代化、工業化の展開とは相容れない技術であった。優れた作品は称揚されるべきだが、歴史を見るうえでは輸出工芸衰退の背景にも目を配る必要があろう。[新川徳彦]
関連レビュー
2014/04/18(金)(SYNK)
ねこ・猫・ネコ
会期:2014/04/05~2014/05/18
松濤美術館[東京都]
犬と並んで人間にとってもっとも身近な動物である猫。身近であるがゆえに絵画にもさまざまに描かれ、彫刻のモチーフにもされてきた。とはいえ、一口に猫が主題と言っても、画家や彫刻家たちの視点、モチーフに用いた文脈は多様である。猫を主題としたこの展覧会では、人間と猫との関わり方から美術と猫との関係を見る。そもそも猫は約1万年前のエジプトにおいて穀物を鼠の害から守るために家畜化されたもの。エジプト新王国末期にはオス猫は太陽神ラーの象徴として、メス猫は女神バステトの象徴として崇拝の対象とされた。序章「猫の誕生」に展示されているエジプト末期王朝時代のブロンズの猫のうち頭部のみのものは、ミイラにされた猫の頭部に被せられたものという。日本でも猫は養蚕の守り神とされる例があるようであるが、絵画では人との関係において描かれることが多いようだ。ただし、猫は人につかず家につくといわれるように、むしろ孤高の存在の象徴として描かれることもある(第一章)。美人とともに描かれた猫は気まぐれ、不可思議な存在の象徴であろうか(第六章)。「猫と鼠」は猫が家畜化されたときからの永遠のテーマである(第五章)。中国における猫の画題はまた異なる意味を持つ。猫は長寿を意味する「耄(もう)」と音を同じくすることから、富貴を象徴する牡丹や、やはり長寿を意味する「耋(てつ)」と音を同じくする「蝶」とともに吉祥の画題として描かれてきたという(第四章、第七章)。そうした画題の意味を読みながら作品を鑑賞するのも良いけれども、そのようなことを意識せずに見ても、さまざまな猫の絵が集った、猫好きにはうれしい展覧会である。「トムとジェリー」や「ドラえもん」「ゴルゴ13」「猫カフェ」まで登場する図録の解説も楽しい。ところで国芳ら浮世絵の猫がいないのは、同じ渋谷区の専門館に遠慮したのであろうか。[新川徳彦]
2014/04/16(水)(SYNK)
「指を置く」展 佐藤雅彦+齋藤達也
会期:2014/03/12~2014/04/26
dddギャラリー[大阪府]
私たちが展覧会に行って、グラフィック作品に「触れる」ことはほとんどない。本展は、グラフィックに指先を置いてみることから出発し、紙に表わされた内容と来館者の「指を置く」行為を通じて起こるインタラクションのありようを探求している。展覧会に来た人は、まず入口に設置された掲示とともに付されたウェットティッシュによって、手を拭くことを求められる。数々の作品には任意の点が示されており、そこに指示された五本の指のうちのある指を置くと、なんらかの力が作用して、図像がそれまでと違う解釈で認知されることになる。例えば、指定された点に指を置くと、二次元的表現ではないはずの異なる空間が創成されるように見える。置く行為によって、圧力がかかってバランスが変化したり、図像がよりリアルな表現に変容するように感じられたりする。身体の所作によって、メディア作品のなかに隠されていた、新しい表現が立ち現われるのである。こうした私たちの盲点を突くグラフィックの新しい表現は、佐藤氏の『任意の点P』(2003)、『差分』(2009)等の著書で実践されてきたもの。はっとさせられ、ううむと唸ってしまう展覧会である。[竹内有子]
2014/04/16(水)(SYNK)