artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

倉知朋之介《PoPoPot》(「P.O.N.D. 2022 〜IN DOUBT/見えていないものを、考える。〜」より)

会期:2022/10/07~2022/10/17

PARCO MUSEUM TOKYO[東京都]

3秒から5秒程度でショットがどんどん変わっていく。15秒程度の長尺もひとつの被写体を捉え続けることはない。倉知朋之介の《PoPoPot》はハンドアウトに「実際に壺を作った経験のある3人の作家。かれらへの取材をもとに構成された映像インスタレーション」と短い説明が書かれている。

映像の切り替えのスピードはショットだけでなく、映像の質感にも及ぶ。ミステリートラベラーを中心とした秘境に分け入る広角でリニアな映像かと思えば、地上波デジタル以前の特撮ヒーローもののように、人物のコマ止めやブレにより動作に迫力をつけようとする。もちろんアングルもどんどん変わっていく。三脚の上で泰然と撮影されたものではなさそうで、1.25倍速にしたら、あるいは15秒飛ばしのタップをしたら、もう展開が辿れないだろう速度だ。さらに、主要な登場人物が繰り返し発話する言葉はそもそもすべて「シゲラモコ、メケメケ、メケラムモコ」「ブギーヒイイイイ」というように、意味を成さない。突如ラップが始まる。リリックもなんのその。目が離せない。映像をひたすらに追う。

少しして耳と目が慣れてくると、目まぐるしく移り変わる場面ごとに登場する人物たちは、アラビア語やフランス語や韓国語や日本語っぽいイントネーションで語り、その人物たちの周囲の調度品や服装によって、整形外科医、探検家、陶芸家、蛇使い、テレビショッピングの司会者といった職種、社会的立場が示されていることがわかってくる。映像で繰り返されるものの傾向は、言ってみれば、怪しげな「世界ふしぎ発見!」であり、「プロフェッショナル 仕事の流儀」であり、「SHOP CHANNEL」である。ときに教養を育み、前衛を伝え、購買意欲を煽る。これは、言い換えるなら、テレビ番組におけるフィールドワークであり、インタビューであり、レクチャーだ。

アーティストもまた、フィールドワーク、インタビュー、レクチャーによって知見を収集し、その様子を発表する。意味ありげで、「新規性のありそうな何からしさ」でしかないこともあるだろうし、あるいは、「美術にとっての新規性のある何か」、すなわち他領域の知見を美術に移植することでしかないかもしれない。または、それぞれの制度から美術へと離れることによって達成しうる人類にとって根本的な「新しさ」かもしれない。その「新しさ」と「新しいっぽさ」は区別されなければならないと壺からいずる蛇が告げるのだとしたら、それは進歩史観的に囚われすぎの、地域性を再発見した美術の後退だとも思えるし、その地域性に立脚し民族学的な被験物に甘んじる作品が後退なのだという批判のようにも思える。

とはいえ、制作は言うに及ばず、あらゆる行為に研究はつきものだが、「リサーチベースドアート(RBA)」に注目が集まった2000年代後半、アーティストのショーン・スナイダーは自身の制作手法を「RBA」と戯画的に位置づけ、文章にしている。ある事件について自分は滔々と語ることができるが、その事実を確認するのはジャーナリストであり、人々は日常的に「誰々が何々と言った」という発言だけをつねに問題にしていると。

スナイダーはRBAにおける「誰が何を言っているか」という行為に焦点を当てる。言い換えるなら、ここに「リサーチ」自体との差分、美術としての形式を見出している。これはRBAとは何かという問いへの返答にしては、亜種であるだろう。だが、このスナイダーが言うところのRBAにおいて言葉なき《PoPoPot》はRBAを相対化する。

本作での連続的なモチーフは壺と蛇だ。発掘される壺、陶芸家と思しき人物がつくるもヘビが偶然潰してしまった壺、付加価値が付けられつつも大量に生産販売される壺。作中で発掘された壺は、その創造性が美術家に再発見されたことをきっかけに美術史化された縄文土器を想起させ、アクシデントでひしゃげた壺は陶芸家が太鼓判を押すことで作品になり、通販番組では司会者のセールストークが壺の購入を後押しする。いずれも、壺に対して「誰が何を言っているか」が描かれている。ヘビはといえば、壺を守り、壺を潰し、壺に住むものである。つまり、ヘビはそれぞれの発見者に不可視化、あるいは客体化、周縁化されたものの表象なのではないか。

美術史家のトム・ホラートは2009年に書いたテキストで、2008年にウィーン美術アカデミーの学生が美術における「知識生産(knowledge production)」への同一化、すなわち新自由主義的な知の商品化への批判を行なった事例とフーコーによる権力と知識の相互依存性を引き合いに出しつつ、1969年ロンドンのホーンジー美術大学を学生が占拠した「ホーンジー革命」に話を結び付けていく。学生組合の資金管理についての紛争を契機に、6週間にわたる議論が続いた。当時の職人的なカリキュラムにおいて議論や研究は根本的に新しい体験であり、美術とデザインにおける創造的教育において研究は欠くことができないものであったという当時の「研究」への熱望、あるいは闘争としての研究にホラートは着目する。ウィーンの学生たちが指摘する通り、知識生産的な美術への志向性は場合によっては官僚制と結びつき、覇権的な権力の固定化を引き起こしうる。しかしとホラートは切り返す。美術(教育)が歴史的に希求してきたある局面における、スタイルではない「研究」には、その固定化された世界を解体し、ヘビをなかったことにしないための実践が核にあると。

壁に掛かったヘッドフォンから聞こえる声はスピーカーから流れる「シゲラモコ、メケメケ、メケラムモコ」と同じだし、展示されている三種の壺の細部から追加で得られる含蓄はなく、映像を観るために置かれたと思しき椅子は単管で最低限「椅子」のふりをしていて、映像を一巡観終わるころには自分の体重で足と尻が痺れ出す。単管にはフェルトで巻かれた部分があったが、それは座面に位置していない。この単管椅子のフェルト部分が足と尻に当たれば、わたしが痺れることはなかったに違いない。会場構成上の什器が、スタイルが、故意に転倒させられたのだろう。


倉知朋之介《PoPoPot》インスタレーションビュー[撮影:岡口巽]


なお、本展は無料でした。



公式サイト:https://pond.parco.jp/



参考文献:
・Sean Snyder, (2009), “Disobedience in Byelorussia: Self-Interrogation on “Research-Based Art”. e-flux Issue #05, April 2009 (https://www.e-flux.com/journal/05/61542/disobedience-in-byelorussia-self-interrogation-on-research-based-art/
・Tom Holert, (2009), “Art in the Knowledge-based Polis”, e-flux, Issue #03, February 2009 (https://www.e-flux.com/journal/03/68537/art-in-the-knowledge-based-polis/

2022/10/07(金)(きりとりめでる)

国際芸術祭「あいち2022」 百瀬文《Jokanaan》、『クローラー』

会期:2022/07/30~2022/10/10

愛知芸術文化センター、愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

愛知芸術文化センターでの展示作品《Jokanaan》(2019)と、1対1の体験型パフォーマンス作品『クローラー』。本稿では、百瀬文の秀逸な2作品を、「女性が欲望の主体であることの回復」「見る/見られるという視線の構造」「他者の欲望の代演」という繋がりの糸から取り上げる。

2チャンネルの映像作品《Jokanaan》では、オペラ『サロメ』でヨカナーン(預言者ヨハネ)への狂信的な愛を歌い上げるサロメの歌が流れるなか、左画面ではモーションキャプチャースーツを着て口パクで踊る男性パフォーマーが映され、右画面では、男性の動きのデータを元につくられた3DCGの女性像が映る。ユダヤ王の娘サロメは、幽閉されたヨカナーンに恋焦がれるが、愛を拒絶されたため、踊りの褒美に彼の生首を所望し、銀の皿に載せられた生首の唇に恍惚状態で接吻する。独占欲、プライド、絶望、歓喜がない交ぜになった倒錯的な愛のアリア。同期する二人の男女は、激情をぶつけ合う恋人どうしの二重唱のように見えるが、「なぜ私を見つめてくれないの」というサロメの台詞を文字通り遂行するように、両者の視線は同じ方向を向き、いっさい交わらない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)[© 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:ToLoLo studio]


一方、映像の後半では、(カメラワークの妙もあり)二人の動きは次第にズレをはらみ、男性がモーションキャプチャースーツを脱いで動きを止めても、CGの女性は歌い踊り続ける。女性の足元には(CGの)血だけがついた空の皿が置かれ、男性の足元には実物の銀色の皿が置かれている。ラストシーンでは、男性が身を横たえて皿の上に首を載せ、「ヨカナーンの生首」を演じる一方、右側の画面は血のついた皿だけを映し、女性の姿は映らない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)


これは、「視線」と密接に結び付いた、「欲望の主体の回復」についての秀逸な逆転劇だ。前半では、「性に奔放で、男を破滅に導くファム・ファタール」という性幻想が、まさに男性の身体を通して生産され、CGであるサロメは他者の描く欲望を忠実に代演し続けるしかない。だがこの従属関係は次第に歪み始め、男性がスーツを脱ぐことでサロメはコントロールから解放され、最終的には画面から「消失」する。すなわち「見られる対象」ではなくなり、「サロメ自身の視線」が捉えたイメージ(だけ)が映し出される。しかもそこには、それまで欲望の主体の側だった「左画面」に投影され、上書きし、奪い返して占拠するという二重の転倒が仕掛けられているのだ。


一方、パフォーミングアーツのプログラムで上演された『クローラー』では、観客はたった一人で暗闇のなか、車椅子に座り、肩にかけたウェアラブルスピーカーから聴こえる、極めて親密な女性の語りに耳を傾ける。脳性麻痺のため、車椅子に乗っている硬直した身体。うまく開かない股の割れ目に差し入れる不器用な手。遠くに小さな灯がともる。声の指示に従い、車椅子に座る私は、その灯に向かってゆっくりと車輪をこぐ。慣れない車椅子の操作、暗闇と静寂に包まれる不安と緊張感。そのぎこちない道のりは、声が語る「遠くの灯台へ向かって漕ぎ出すような、オルガズムへのゆるやかな到達」と同時に、「障害者女性の性」という遠く隔たった存在へ向かっていく二重のメタ性を帯びている。誰の姿も見えない暗闇は、「社会の中で不可視化されていること」を文字通り指し示す。その暗闇はまた、絶対的な孤独と同時に、「誰からも見られていない」という安全の保証でもあり、多義性を帯びている。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


灯に近づくにつれ、車椅子をこぐ指が冷たくなり、2つに見えた灯が実は水面に映る影で、浅く水の張られた水面を進んでいたのだと分かる。そして灯の向こうに、おぼろげな白い人影が揺らめく。声が語る、お気に入りのアダルトビデオ。障害者専門のセックスワークに従事した経験。絶頂を感じる瞬間、身体の日常的な痛みから解放される、それが自慰行為の目的であること。人影はちゃぷちゃぷと水音を立ててこちらに歩み、車椅子の隣にかがんでともに灯を見つめる。オルガズムへの接近を告げるように明るさを増す灯。対峙の恐怖から、「誰かが傍にいて寄り添ってくれる」安心感へ。ゆっくりと車椅子を押して灯の周囲を一周してくれるその人は、メタレベルでは、オルガズムへの到達に導いてくれる存在だ。ちゃぷ、ちゃぷというリズミカルな水音は、濡れる粘膜が立てる音へと想像のなかで変換される。だが私の身体、特に下半身は水の冷気で冷たくこわばっていく。15分という短くも長い上演時間は、語り手とともに想像のオルガズムを共有するために必要な時間だったのだ。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


百瀬は、障害者専門のセックスワークの経験がある障害者女性への取材を元にテキストを書き、その女性自身が朗読を担当した。「舞台上の障害者を一方的に眼差す」という非対称な関係性ではなく、(「誰にも姿が見られていない」ことも含めて)観客自身が当事者に近い状況に置かれたとき、身体感覚と想像力をどこまで接近させられるのか(あるいは、どのように接近できないのか)。「障害者女性の性とケア」という社会的に不可視化された領域を、車椅子、灯、水を用いた緻密な構築により、まさに暗闇の中でこそ(擬似)体験可能なものとして身体的にインストールさせる本作は、VRとは別の形で、「抑圧され、共有困難な他者の欲望をどのように代演・想像できるか?」という困難な問いに応えていた。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


*『クローラー』の上演日は2022年10月6日(木)〜10月10日(月・祝)。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html

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2022/10/06(高嶋慈)

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国際芸術祭「あいち2022」 アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』

会期:2022/10/04~2022/10/10

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

映画とVRは共存・融合可能なのか。「スクリーンという同一平面に投影された光を見つめる」という映画の集団的な没入体験は、VRによってさらに拡張されるのか。そのとき映画は、「集合的な夢への没入」の座をVRに明け渡してしまうのか、あるいは映画とは、宇宙空間で膨張し続ける太陽のように、VRすらも飲み込んでしまう巨大な光なのか。映画館の座席に身体をあずけたまま夢を見る──仮死状態にある観客の身体は、VR装置によって、互いの姿が見えないままゾンビ的な緩慢さでさまよう亡霊的身体に変容させられるのか。だとすれば、映画からVRへの移行は、あるひとつの(仮)死から別の(仮)死への不連続的な移行ではないか。その移行自体を、どのように体験/眼差すことが可能か。

アピチャッポン・ウィーラセタクンが国際芸術祭「あいち2022」から委嘱を受けて制作した、初のVR体験型パフォーマンスである本作は、このような問いの連鎖の周りを旋回する。本作は二部構成で、前半では、上演空間の中央に吊られた二面スクリーンに投影される映画を鑑賞し、後半ではVRのヘッドセットを付けて鑑賞する。そして本作の最大のポイントは、前半/後半が同一空間で展開され、映画/VRそれぞれの鑑賞者が混在する点だ

映画は両面とも「眠る人」の映像で始まり、ゆるやかに同期しつつ、裏表で異なる映像が映し出されていく。緑したたるテラスや深い森を背に語られる、断片的なモノローグ。「夕方、盲目の詩人が街に繰り出す」という夢。「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする。歩き続けている人もいる」……。中庭に揺れるハンモック。ギターを爪弾く男。俯瞰ショットで捉えたデモや集会では、人々の持つ灯が星の瞬きのようにきらめき、美しい波動となって地を覆う。裏面では回転するネオン管のオブジェが映され、エモーショナルな夢幻性を高める。巨大な太陽の出現。そして再び眠る人の映像に、「都市」「最後の夢」「1000日分の昨日」「影」「無政府/君主制」「消された」「歴史」「遠くにある映画」「寺院の光」といった単語がエンドロールのように流れていく。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


後半、VRのヘッドセットを付けると、映画からバトンを受け取るように、「眠る人が映るスクリーン」が同じ場所に浮かんでいる。さらに、何人もの「眠る人」のスクリーンが周囲を取り囲む。他のVR鑑賞者は「浮遊する白い光の球体」として見え、身体を失った私は多数の死者の魂とともに、「他者の夢」という異界に入っていく。スクリーン群は徐々に消滅し、闇に飲み込まれ、荒涼とした岩の大地が現われる。ゆっくりと頭上から落下する岩石、流星をかたどったような光の構造体。この異星の洞窟には、原始的な壁画と奇妙で巨大な石像がある。両眼を塗り潰され、唇を縫い合わされつつ、勃起した男根を持つ石像だ。巨大な光の球体の出現と分裂、消滅。やがて視点は地面を離れ、他の死者の魂たちと暗い洞窟のなかを上昇=昇天していく。足下を見下ろすと、石像の頭部が溶けかかったように崩れている。長く暗い産道。頭上の出口に見えるまばゆい光。太陽のようなその球体はぽこぽこと分裂し、小さな恒星を生み出すが、内側から黒い球体に侵食され、闇に飲み込まれていく。ひとつの惑星の文明や政治体制の死と、太陽の誕生と死という宇宙的スケールの時間が重なり合う。

本作のVR体験とは、「映画のスクリーンに映る、眠る人々」が見ている夢の中へまさに入っていく体験であり、二部構成だが、構造的には入れ子状をなす。夢の世界では、身体感覚を手放し、他者の存在しない、イメージと音だけの世界を一人称視点でさまよう。夢とVRの相似形は、前半の映画パートで、VR体験者が夢遊病者のように見えることで強調される。VR体験者たちの動きが止まったり、一斉に頭上をあおぐ様子は、彼らが集団的な夢の中にいることを示唆する。それはオルタナティブな現実への夢想なのか、それとも現実を忘却させる麻薬的な陶酔なのか。また、映画パートで語られる「街に繰り出す盲目の詩人たち」「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする」といった台詞は、VR体験者をメタ的に言及し、「夢の中に入り込む」VR体験を「語り手が見た夢」の中にまさに入れ子状に取り込んでしまう。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


アピチャッポンは過去の映画作品でも、現実と並行的に存在する「夢の中の世界」や、夢を通して死者の霊と交信する物語を描いてきた。だがそこには、「夢というもうひとつの世界を、スクリーンという同一平面上で見るしかない」という物理的制約があった。しかし本作でアピチャッポンは、「映画の技術的拡張としてのVRの援用」にとどまらず、「映画」の中にVRを取り込み吸収してしまったのだ。3年前のあいちトリエンナーレ2019で上演された小泉明郎のVR作品『縛られたプロメテウス』も、同様に「VR体験中の鑑賞者を眼差す」体験を組み込むことで、「身体感覚の希薄化/他者との共有の回路」「他者の身体を眼差すことと倫理性」について批評的に問うものだった。本作もそうしたVR自体への自己言及を基盤に、物理的制約を解かれた「映画」の中にVRさえも飲み込んでしまう、静謐だが恐るべき作品だった。


★──ただし、上演時間1時間のうち、観客は30分ごとに入場して前半(映画)/後半(VR)が入れ替わるため、各日とも、「初回の前半」は映画パートの観客のみ、「最終回の後半」はVRパートの観客のみであり、混在状態にはならない。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/apichatpong-weerasethakul.html

関連レビュー

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2022/10/04(高嶋慈)

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菊谷達史・前田春日美 2人展「影をしたためる」

会期:2022/09/08~2022/09/25

biscuit gallery[東京都]

若手キュレーターの活動支援企画「biscuit gallery Curator Projects」の第1弾として、松江李穂によるキュレーション展が開催された。biscuit galleryが松江に企画を打診してから3カ月という準備期間の短さも相まって、1Fには菊谷達史のアニメーションのエスキスと影絵の作品、2Fには前田春日美の立体と映像、3Fには両者の映像作品が並ぶが、いずれも過去作である。菊谷も前田もキュレーションを受けることが初めてだと言明しており、企画の枠組みを受けて、松江自身も本展で「キュレーション」自体を考察しようとしている


菊谷達史 《Walker (Shoto Bunkamura St.)》(2022)会場写真[撮影:竹久直樹]


菊谷達史《野営のエスキス / Storyboard (camping scene)》(2021)158×227mm
パネル、ジェッソ、水彩絵具、リキテックスマーカー、色鉛筆、コラージュ
[撮影:竹久直樹]


菊谷のアニメーション作品はセル画やドローイングのコマ撮りによってつくられている。1Fに展示された菊谷のドローイングである「エスキス」のシリーズは、アニメーション作品の《ノートブックアニメーテッド1》(2022)に登場するものだ。本作の登場人物はそれぞれ、ある一定方向に進み続ける。人物たちの動きよりも、そのコマごとの変化、描かれては消され、継ぎ足され続ける筆の運びに目が行く。ひとりの登場人物の影を追うようにして連なるコマが制作されている。しかし、その映像の反対側に貼られた1コマずつのキャラクターを見ると、それぞれの身体的同一性のなさが浮かび上がってくるだろう。キャラクターの動作によっては肩が、手がふくらむ。誰かにズームしたわけでもないが、その構図によっては背負うリュックが精細で、靴の裏の模様が描かれる。会場の入口に描かれていたタンブラーを持つ人物の影絵でも同様のことが起きている。3Dモデルアバターを中心としたアニメーションの成立とはまったく異なり、本作は身体の統一的な情報量の足し引きによって動作が生まれることを指さす。


会場写真[撮影:竹久直樹]


左:菊谷達史《ノートブックアニメーテッド1》(2022)
右:前田春日美《遠い体》(2019)
会場写真[撮影:竹久直樹]


他方、前田はパフォーマーに各々の身体を多様な方法でなぞらせ、それをさらになぞるように撮影し、その軌跡を観客にどのようにトレースさせようかと演出の情報を足し引きする。会場にはパフォーマーが身体をなぞるために自重を預けるためのがっちりした器具や、指示書のようなものが点在する。会場にある映像は、一見「手の平を見せられ続けている映像」や「二の腕がズームされた映像」でしかないが、会場にある事物を追っていくと、鑑賞者は映像で行なわれている行為を徐々に把握していくことになるのだ。映像を映し出すモニターもまたパフォーマーが撮影のために使った器具と同じような鉄と布張りの薄いクッションに重さをかけており、会場中央の器具が「二の腕を支えていたものである」と囁く。片やモールでパリッとしたケーブルがある一方で、縮れだらしなく垂れた電源ケーブルは、モニターの外にある身体の重力までを感じてみてはと提案する。


会場写真[撮影:竹久直樹]


前田 春日美《vis a vis》(2020)会場写真[撮影:竹久直樹]


エイドリアン・ジョージは、キュレーターとは、選定者であり、展覧会に付随するテキストを書いている可能性が高い人物、解釈者であると述べているが、本展でキュレーターの松江もまた、一人称性の高いテキストをハンドアウトに掲載している。そこでの作品についての直接的な記述は最低限で、中心となっているのは撮影し損じた卓上の桜についての回想だ。欠落そのものが記録できなかったからこそ、かつての存在が強く残ること。「影をしたためる」というタイトルで、菊谷と前田の作品を対照可能にしつつ、記述しすぎないことで松江は二人の作品をより見るべきものにしたのだと思えた。

なお、観覧は無料でした。



公式サイト:https://biscuitgallery.com/notes-of-shadows/


★──山内宏泰「若手キュレーター、アーティストに活動の『場』を。『biscuit gallery Curator Projects』が美術界で果たす役割」(『美術手帖』、2022.9.10)2022.10.25閲覧(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/oil/26027

2022/09/23(金)(きりとりめでる)

金沢ナイトミュージアム2022 永田康祐個展「Feasting Wild」@karch

会期:2022/09/10~2022/09/19

karch[石川県]

半地下のレストランに入って席に案内されると、机の上のナプキンには紙片が置いてあった。本稿で扱う永田康祐によるパフォーマンス「Feasting Wild」は、スペインのレストラン「エル・ブジ」のシェフ、フェラン・アドリアによるコンセプチュアル・キュイジーヌ以降のコース料理の提供の形式に則っている。

具体的には、2時間半ほどをかけて10品の料理がサーブされた。フィンガーフードが3品、そのあとに温前菜、冷前菜、リゾット、魚料理、肉料理、そして皿盛りのデザートが2皿、さらに料理とペアリングされた手製のノンアルコールドリンク5杯で構成されている。この構成は世界中のそこかしこで楽しまれている料理形式だといえるだろう。

先述したコンセプチュアル・キュイジーヌとは、アドリアがコンセプチュアル・アートを念頭に自身の活動を説明した言葉だ。アドリアは「エル・ブジ」でフランス料理を経たスペイン料理の再解釈から始め、次第に、異文化との衝突による味や食材の組み合わせの新規性ではなく、物事のあり方や考え方をすべてを刷新してしまうような「新しい」概念の創造をそこで目指すようになっていった。アドリア(=「モダニズム料理」あるいは「分子料理」)に影響を受けたそれ以降の料理を人類学者の藤田周は「現代料理」と呼ぶ。わたしはその現代料理を、フランス料理を骨子としたグローバルな言語をもってそれぞれの土地や諸文化に根ざしたヴァナキュラーな料理を他者や当事者にわからせるということであり、のまれ合うというその方法、あり方自体の開発が目指された料理形式だと捉えている。この時代の流れから考えたとき、永田の本作にはコンセプチュアル・キュイジーヌにとっての「新しさ」と現代料理における方法論が同居している。


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


わたしは料理についての話をしていたのだが、ここでボリス・グロイスが論じるところの「新しさ」が頭をよぎる。現代美術における新しさとは、美術館にどう持ち込まれたのかなのだと歴史を語るその言葉を反芻してみよう。永田は美術館ではなく、karchという常日頃からレストランである場所でのポップアップとして、あるいは展覧会としてディナーコースを提供する。じゃあこの場合、何が新しいのか。ただ美術家として、アートワールドに向けたプレスリリースを打ち、展覧会と銘打ってフルコースディナーを作家が調理場でつくり込んでいることが新しいのだろうか。はたしてこれは現代美術による諸文化の剽窃行為なのだろうか。

いよいよパフォーマンスが始まる。作家である永田からは、本日のあらましと料理がセクションごとに分かれていて、セクションごとに名前が付けられているという立て付けについて、そしてキュレーターの金谷亜祐美からは、本展では永田が書き下ろした提供料理についてのキャプションが都度配られるといった説明があった。永田がキッチンにせわしなく戻る。料理の提供が始まる。美味しい。ここで振舞われたコースの料理の品目を提供順に記しておこう。

フィンガーフードの3品は「手つかずの自然」と題され、それぞれ「鰹 フルムダンベール」、「鶏肝 牛蒡 山桑」、「猪」で構成されている。前菜は「家畜」というセクションで、茶碗蒸しのような温前菜「蚕 銀杏 真桑」と「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」の冷前菜が提供された。次は「他者としての自然」という「みき粕 蜜蜂花粉ガルム 豚」のリゾット。

メインに入っていく。「野良になる」では魚料理「鯰 加賀太胡瓜 ディル」が、「条件付きの野生」では肉料理「放牧牛 九条葱 万願寺唐辛子」が、「荒れ地より」ではデザート2品、「麹 みき 梅 メロン」と「紅葉苺 グレープフルーツ サワークリーム 都市養蜂蜂蜜」がサーブされた。

料理を即物的な品名で書く方法は現代料理の常套手段である。調理方法ではなく、だれが生産したどのようなものを使用するのか。その生産について、遡ることができる土地の情報を開示する。脱作家主義といってもいい。

この点において、即物的な永田のお品書きはその作法に則っている。のだが、ここでレストランからずれる紙片の提供が始まる。おいしい、おいしいと猪肉のコロッケを食べる。たっぷりとした鶏のムースの上に金沢の白山で作家が収穫した山桑のジャムがのったものをパクっと食べる。ナスタチウムがピリっとしてチーズと鰹のくさみがつなぎになったタルトを食べる。永田による書き下ろしや引用で編まれた紙片が細切れに届く(最後にはおよそ39ページになった)。

料理を食べたり待っている間に紙片を読む。そこには料理のつくり方と食材について書かれていた。例えば「鶏肝 牛蒡 山桑」には真桑が養蚕の日本への渡来とともに1000年にかけて山桑と交雑した歴史と作者の採集行為について。「鰹 フルムダンベール」には動物性食材の旬の概念が人間にとっての美味さによって規定されているという状況について書かれている。白眉は「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」だろう。牡蠣とホエイがタピオカとからまり、牡蠣にのったすり下ろされた林檎の冷凍ピクルスが酸味と甘味を付与する。真牡蠣といえば9月は産卵期を過ぎたばかりで旬ではないはずだが、プリっとして食べ応えがあり、牡蠣の濃厚な味わいとホエイとピクルスの酸味のバリエーションとともに何個でも欲しくなる一品だった。キャプションには次のように書かれている。「三倍体牡蠣は、受精卵に操作を加え、産卵できなくさせることによって、通年で見瘦せせず……旬の概念を失った(常に旬ともいえる)牡蠣です」。


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


うまい、うまいと唸りながら、この感性が生じるようにどうしてなったのか。そこにどのような技術や文化があるのだろうか。料理という一皿での構成、コースという連なり、生産、偶然、あるいは開発。前衛以降の現代美術が脱技術化を既存世界の破壊の主要な手法とするときに、就学や修行を経た技術ありきの「レストラン」は一瞬「現代美術」から遠いものに思えるかもしれない。しかし、料理における模索にもまた同時代的な事象が存在することは純然たる事実である。

永田の本作は、「エル・ブジ」以降の現代料理、例えば、その土地で食材を採集するところから始め、北欧料理をゼロからつくり上げた「NOMA」、脱即物性としての料理という意味では「CENTRAL」からの影響と応答が窺える。「美味いは正義」という脱イデオロギーの顔をしたものに潜む人間の欲望に輪郭を与え、「野生を食べる」といったときの「野生」、すなわち、あらゆる自然という概念を対立項にもつものを崩そうとする本作は、現代美術における「新しさ」のつくり方に、グロイスとは異なる解答を提出するものだろう。

本展はネットでの事前予約を経て1万2000円で鑑賞可能でした。


★──現代料理をはじめとした潮流と芸術については以下が詳しい。
藤田周「食とアート:アートとしての現代料理を楽しむために【シリーズ】〇〇とアート(6)」(『Tokyo Art Beat』、2022.2.11)2023.2.23閲覧(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/food_and_art



公式サイト(金沢ナイトミュージアム2022/主催:NPO法人金沢アートグミ):https://www.nightkanazawa.com/2022/09/feasting-wild.php

2022/09/18(日)(きりとりめでる)