2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

林勇気「times」

会期:2018/11/17~2018/12/01

ギャラリーほそかわ[大阪府]

自身で撮影した、あるいはインターネット上で収集した膨大な量の画像を切り貼りしたアニメーション映像を制作し、記憶(の断片化)、デジタル画像の共有と流通、消費について、時に宇宙の誕生から消滅を思わせる壮大な映像世界で言及してきた林勇気。近年は、プロジェクターや再生機の存在自体を作品に取り込む、デジタルデータとしての映像をピクセルの数値に還元するなど、映像メディアの成立条件に対して自己言及する作品に取り組んでいる。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

本展もこの流れに位置するものであり、同時期にFLAG studioで開催された個展「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点が当てられている。作品の素材として用いられたのは、2005年にYouTubeに初めて投稿された動画「Me at the zoo」である。YouTubeの創設者の1人が投稿した、わずか19秒の映像であり、動物園の象の前でコメントする映像だ。だが林は、この映像をピクセルに分割し、それぞれの色情報を3桁×3段の数字で数値化し、視認不可能な膨大な数値が目まぐるしく移り変わる、暗号の波のような映像に変換して映し出した。また、数値化されたデータは、紙、石、金属という伝統的な記録媒体に刻印された形でも提示された。デジタルデータはどのように保存され、未来へと継承可能なのか。ここには、「ポストメディウム」というよりは、メディウムなき非実体的なデータとなって憑依し続ける状況が差し出されている。さらには、「私たちは何を見ているのか?」という知覚論的な問いも横たわっていた。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

関連レビュー

林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

プレビュー:マーク・テ+YCAM共同企画展 呼吸する地図たち

会期:2018/12/15~2019/03/03

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

マレーシアを拠点とする演出家、リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターに迎えた展覧会。マーク・テは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーでもある。日本ではこれまで、TPAM──国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016とKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで『Baling』を、シアターコモンズ ’18では『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』を上演。レクチャー・パフォーマンスの形式でドキュメント資料や出演者自身の個人史を織り交ぜながら、マレーシアの近現代史を複眼的に検証する気鋭のアーティストだ。

本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、日常生活などを独自の視点でリサーチし、自らの言葉で語りかけるレクチャーやレクチャー・パフォーマンス作品が、12週にわたって主に毎週末に開催される。以下、その一部を紹介する。

シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンは、TPAM 2016や「サンシャワー : 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展で発表した《Solar: A Meltdown》が記憶に新しい。このレクチャー・パフォーマンスでは、アジアやアフリカなどに赴いた植民地主義時代の欧米人が、熱帯の太陽がもたらす「汗」を徹底して隠蔽したこと、その背後には「団扇で涼を送る」現地労働者と家庭の清潔さを保つ女性たちの労働があったことが指摘される。本展での上演作品《アジア・ザ・アンミラキュラス》では、1997年のアジア通貨危機を出発点に、ポップカルチャーにおけるアジア経済の未来主義の出現、発信、流通をたどるという。また、シンガポールの歴史学者のファリッシュ・ヌールは、200 年前の地図に焦点を当て、英領ジャワにおける植民地時代の地図製作の役割や地図と権力の関係を紐解く。ジャカルタを拠点とするイルワン・アーメット&ティタ・サリナは、東南アジアの海上交通の要衝、マラッカ海峡における国境の支配に対し、密輸、転覆工作、宣誓といった行為からヒントを得て、シンガポールの国境を通過するための8つの方法を提案する。一方、演出家の高山明は、国籍という概念を超えて暮らす海上生活者から着想し、移動性、越境、侵入、ハッキングなどの視点から参加者とリサーチを行なうワークショップ「海賊スタディ」を実施する。また、キュレーターの小原真史は、1903年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会で「人間の展示」が行なわれた人類館と新たに発見された写真を中心に、近代日本の自己像と他者像について考察する。

シアターコモンズ ’18や来年開催されるシアターコモンズ ’19がレクチャー・パフォーマンスに焦点を当てているように、従来の舞台公演とは異なるこの形式も浸透しつつある。社会批評や表象分析、歴史研究といった硬派な主題のなかに、映像や身体性、アーティストならではの新鮮な視点や想像力の契機を持ち込むことで、見る観客の能動的な思考が促される。また、マーク・テ自身もそうだが、アーティスト、研究者、演出家、キュレーターといった職能的なカテゴリー区分を流動化させていく側面も持つだろう。

さらに本展では、これらに関連した映像インスタレーションやドキュメンテーションも上映される。カルロス・セルドランは、スペインとアメリカの統治、日本軍の占領、戦後政権の復興などさまざまな歴史的事象によって上書きされてきたマニラの史跡についてのパフォーマンス・ツアーの映像を上映する。ヴァンディ・ラッタナーは、カンボジアのクメール・ルージュ政権下で亡くなった姉に向けて語るヴィデオ・インスタレーション『独白』を上映する。やんツーは、自らがロードバイクで移動して集めた地形データからフォントを生成するソフトウェアを自作。VRを使った主観視点で、山口の地形からフォントが生成される過程を追体験できる作品を展示する。3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)は、市民、専門家、アーティスト、スタッフが協働し、復興のプロセスを独自に記録したアーカイブを活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」より、小森はるか+瀬尾夏美、鈴尾啓太、藤井光の3つの映像作品を抜粋して展示する。

このように本展は極めて多様な切り口から構成されるが、植民地支配から現代に至るまで、金融、移民、翻訳などさまざまな交通と地政学的なポリティックスを再検証し、国境によって分断化・固定された静的な地図ではなく、多中心的で有機的、動的なネットワークとしての「地図」がどう構築されていくのか。毎週末、山口に通いたくなる充実したプログラムに期待がふくらむ。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』|高嶋慈:artscapeレビュー

SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』|山﨑健太:artscapeレビュー

シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/10/30(火)(高嶋慈)

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チームラボ ボーダレス

会期:2018/06/21から(終了日未定)

お台場パレットタウン[東京都]

いやーおったまげっす。なににおったまげたかって、まず広さ。お台場はヴィーナスフォートの奥の建物丸ごと1棟を会場にしている、というのは後でわかったことだが、そのうえ会場内は暗くて順路もマップもなく、あちこちに鏡が張り巡らされているため、迷路のようにどこまでも続いているように感じられる。行き当たりばったり歩いているうちに何度も同じ場所に出たりして、いったいどれくらい奥行きがあるのかつかみにくいのだ。

第2のおったまげは、そんなに広いのに広さを感じさせないほど多種多様な「出し物」が用意され、観客を飽きさせないこと。迷路をさまよいながら次々と新しい出し物に出くわすのだから、よくできていると感心せざるをえない。多種多様といっても大きく分けると2パターンあって、ひとつは動物や植物など自然をモチーフにしたCG映像のプロジェクション、もうひとつは「光の彫刻」や「ランプの森」など色の変化や明暗で表わした光の立体作品。どちらも手で触ると映像が変化したり、観客数によって色が変わったり、子供の描いた絵が作品に採り込まれたり、インタラクティブな仕掛けが施されている。

最初の動植物をモチーフにした映像を見ていてふと気がついた。これって日本画じゃん、花鳥風月の世界じゃん。動植物がなにか主張したり意味を持ったりするわけではなく、あくまで装飾として、平面として使われるだけなのだ。そういえば今春、加山又造の絵をCGで動かす「Re又造」展が開かれたとき、ぼくは「ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ」と書いた。その「展覧会の未来像」の延長上にこのデジタルアートミュージアムがあるのではないか。

そして第3のおったまげは、オープンから早4カ月も過ぎた平日の昼前に訪れたにもかかわらず、けっこう混んでいたこと。いやこれだけ楽しませてくれるんだから人が集まるのは当たり前でしょう。でも楽しませるといっても美術展のような知的刺激とは違い、どっちかといえばディズニーランドのように感覚を刺激する楽しさだ。その意味ではセンセーショナルな世界といえる。

2018/10/26(村田真)

1968年 激動の時代の芸術

会期:2018/09/19~2018/11/11

千葉市美術館[千葉県]

「1920年代」とか「1980年代」とかひとつのディケードをテーマにした展覧会はたまにあるが、それに比べて、ある特定の年に焦点を絞った展覧会は少ない。記憶にあるのは、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」、東京都現代美術館の「よみがえる1964年」くらいか(両展とも1996年の開催)。展覧会というのは個展にしろテーマ展にしろ通史的に構成されるものが多いので、特定の年に絞ると時間的な推移が示せなくなるからだろう。一方で、地域性やジャンル間などの横との関係性が明確になり、時代性や社会背景を浮き彫りにしやすいメリットがある。ちょうど半世紀前の1968年が選ばれたのは、その年の美術を紹介したいというより、当時の美術を通して1968年という時代と社会を浮かび上がらせることが目的だったのではないかと思えてくる。

1968年というと、ノンポリのぼくでもパリの五月革命が思い浮かぶように、世界的な反体制運動の季節。日本でも全共闘などの学生運動やベ平連をはじめとする反戦運動などが盛り上がっていた。展覧会はそうした闘争を記録した東松照明や北井一夫らによる写真に始まり、橋本治による駒場祭のポスター、赤瀬川原平の『櫻画報』や「千円札裁判」の記録・資料、羽永光利による新宿風景やハプニングの写真、美共闘のガリ版刷りアジビラ、70年の万博および反万博の写真や資料、横尾忠則、粟津清らによる天井桟敷や状況劇場、暗黒舞踏の公演ポスター、つげ義春や林静一らの漫画、『プロヴォーク』の中平卓馬や森山大道によるブレ・ボケ写真、もの派や概念芸術の作品・資料まで、ざっと450点ほど。時代的には1968年を中心に、赤瀬川原平のいわゆる「千円札裁判」が始まる66年から、万博の開かれる70年まで幅をとっている。

よく半世紀も前のものをこれだけ集めたもんだと感心するが、お気づきのように記録写真や資料、ポスターや漫画などアーカイブやサブカルチャーものが大半を占め、いわゆる「美術作品」らしきものは少ない。もちろん写真も漫画もポスターも美術作品といえばいえるが、いずれも複製芸術であり、1点ものの絵画・彫刻となると、鶴岡政男の《ライフルマン》、山下菊二の《海を渡る捕虜服》、高松次郎ら「トリックス・アンド・ヴィジョン」の出品作、山口勝弘らによる環境芸術やインターメディア作品、李禹煥らのもの派の作品(再制作)など数えるほどしかない。まあ半世紀も前のことだし、当時はインスタレーションやパフォーマンスの先駆的作品が多く、作品自体がその場で消えて残っていないし、なにより「絵画」「彫刻」といった形式が風前の灯だったから仕方がないといえば仕方がない。その代わり勢いがあったのが、時代や社会を反映しやすい写真やポスターや漫画などのサブカルチャーだったというわけだ。見終わったときは美術展とは違い、資料の山にひととおり目を通したという快い疲労感が残った。

2018/09/18(村田真)

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『カメラを止めるな!』

[全国]

話題になっている映画『カメラを止めるな!』をようやく鑑賞した。なるほど、低予算でも撮影できるジャンルはゾンビものだが、これもそのセオリーを正しく継承した傑作である。謎解きのストーリーではなく、ネタばれという類の作品ではないので、映画の構成を説明しておく。まず第一パートでは、C級と言ってもよいであろう下手なゾンビ映画を見せられる。その内容は、ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが登場するというプロットだが、あきらかに不自然なシーンがところどころで発生し、なんとなく記憶に引っかかる。エンディングが流れたあと、第二パートが始まるのだが、それは第一パートのメイキングであり、不自然と思われたシーンが起きた原因が、じつは撮影現場のハプニングの連続であることが判明し、伏線がすべて回収され、笑いに転化してく。またカメラが上昇する俯瞰のショットだったエンディングは、ある種の感動的な場面として再定義される。

もっとも、この映画の最大のポイントは、「カメラを止めるな!」というタイトルが示すように、ゾンビ専門チャンネルのテレビで生中継されるワンカットの撮影であるという設定だ。それゆえ、現場で不具合が発生しても、絶対に撮影を中断できない。映画の映画である第一パートは、たとえ出来は悪くても、ワンカットゆえの独特の緊張感が持続する一方で、さらにメタ視点に立つ映画の映画の映画である第二パートでは、それがドタバタのコメディになっていく。何が起きてもカメラが執拗に追いかけること、そして全員の努力と協力によって作品を終了させることを通じて、映画的なカタルシスが醸成される。もとは舞台用の作品を翻案したという話だが、少なくとも「カメラを止めるな!」は映画というジャンルの本質に迫る面白さをもっている。なお、映画が終わったあと、エンドロールでは、第三パートというべき「本当の」メイキングが流れるのも楽しい。第二パートが偽のメイキングであり、もう一度、シーンの背景を異なる視点から再解釈できるからだ。

2018/09/15(土)(五十嵐太郎)

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